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豪傑がワンサカいた70年代の甲子園
(
なにわのヒバゴン
)
2009-03-28 07:00:17
こーじ さん
早速拝見しました。なるほど熊工は血の気が多い球児の系譜なんですね。川上氏や吉原氏も在校時は熱かったのでしょうか。。
76年に熊工は長いブランクを経て夏の甲子園に復活したのですよね。済々黌が全盛の頃、熊工は夏に出られなかった。。そんな積年の鬱憤を76年と77年にぶつけたのでしょう。しかし私の記憶の中に76年の今治西戦がない‥。翌年の福島商戦や東邦戦はうっすらと覚えているのですが。
最近は高校球児は勿論、プロ野球選手もスマートでクリーンなのが大半ですからね。子どもの頃に見た甲子園球児はみんな怖~いおっちゃんでした。崇徳ナイン、鈴木康友、山口哲治、PLの西田、木戸、小早川、東洋大姫路の松本、安井。愛甲、金村、桐生の阿久沢etc‥。走塁一つにしても殺気立っていた過ぎ去りし日の熱闘の数々が懐かしいですね☆
とはいえ
(
こーじ
)
2009-03-29 00:28:14
>なにわのヒバゴン様
とはいえ八浪監督以降は、そこまでないのですけどね。
やはり監督のキャラでチームが変わるのかもしれません。
熊本勢の壁は中九州大会で対戦する大分県勢で、津久見や大分商の全盛でしたので昭和40年代は一県一校だった43年と48年以外は全て大分から負けてました。
だから熊本が大分県勢に勝っての出場は75年の吸収学院までないのです。
コワモテの代表は新居浜商の竹場ですね。
ヒゲ面でヤバそうな感じでした。
竹場はインパクトが強すぎですね。。。
(
なにわのヒバゴン
)
2009-03-29 02:09:01
こーじ さん
先日の彦根東戦、習志野がライト前ヒットでサヨナラ勝ちしましたが、75年夏の優勝シーンも同様の結末でしたね。あの時の新居浜商のライトが竹場でした。
今もプロ野球ではヒゲをたくわえた選手は結構いますが、それはあくまでファッションの延長のような感じがします。70年代のシピンや森本潔、江本の口髭などは迫力満点でしたからね
昭和40年代の熊本勢は確かに印象がほとんどありません。津久見の主砲だった大田卓司(元西武)は「大分商は意識しても、熊本勢は全く問題にしなかった」らしいですからね
75年夏の九州学院は確かナイター試合でしたね。最近までNHKで解説していたのは当時の監督だった緒方徹さんでした。熊工は「IT監督」と言われた山口俊介さんや近年の林監督のイメージが強いです。82年夏の平畠の大会400号アーチや、92年夏の剛腕坂田なども懐かしいですね
81年と84年に夏ベスト4入りした鎮西は以後失速してしまったのが不思議でした。出ると強い典型的な例ですよね(久留米商も然り‥)☆
あの頃は
(
こーじ
)
2009-03-30 00:15:14
>なにわのヒバゴン様
あの頃は確かに中九州といっても殆ど大分代表でしたからね。
やはり甲子園にコンスタントに出てないとレベルが上がらないという事でしょうね。
九州学院の試合は本来なら途中打ち切りでしたが、
前年の鹿実-東海大相模で途中で打ち切って抗議の電話が殺到したため75年から最後までOAという事になりました。
春は初日のみナイターでしたが、7時までに終わったので この新居浜商ー九州学院戦が完全中継第一号ですね。
あの頃は
(
けい坊
)
2017-12-15 13:18:11
40~50年代は、津久見と大分商は大分県庁が徹底的に助成をして強化をし、全国優勝もしていた時代ですから、熊本勢にとっては苦難でした。
八浪監督の試合前のキャッチャへの真上ノックは、ボールがなかなか落ちてこないくらい高さがあって、球場が騒然としていたのを覚えています。
そうなんですね
(
こーじ
)
2017-12-17 00:16:25
>けい坊様
それは初耳でした。
やはりそういったフォローがないと公立普通校が甲子園で優勝というのは厳しいでしょうね。
高校野球のベテラン監督のノックは芸術的だという話はよく聞きます。
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早速拝見しました。なるほど熊工は血の気が多い球児の系譜なんですね。川上氏や吉原氏も在校時は熱かったのでしょうか。。
76年に熊工は長いブランクを経て夏の甲子園に復活したのですよね。済々黌が全盛の頃、熊工は夏に出られなかった。。そんな積年の鬱憤を76年と77年にぶつけたのでしょう。しかし私の記憶の中に76年の今治西戦がない‥。翌年の福島商戦や東邦戦はうっすらと覚えているのですが。
最近は高校球児は勿論、プロ野球選手もスマートでクリーンなのが大半ですからね。子どもの頃に見た甲子園球児はみんな怖~いおっちゃんでした。崇徳ナイン、鈴木康友、山口哲治、PLの西田、木戸、小早川、東洋大姫路の松本、安井。愛甲、金村、桐生の阿久沢etc‥。走塁一つにしても殺気立っていた過ぎ去りし日の熱闘の数々が懐かしいですね☆
とはいえ八浪監督以降は、そこまでないのですけどね。
やはり監督のキャラでチームが変わるのかもしれません。
熊本勢の壁は中九州大会で対戦する大分県勢で、津久見や大分商の全盛でしたので昭和40年代は一県一校だった43年と48年以外は全て大分から負けてました。
だから熊本が大分県勢に勝っての出場は75年の吸収学院までないのです。
コワモテの代表は新居浜商の竹場ですね。
ヒゲ面でヤバそうな感じでした。
先日の彦根東戦、習志野がライト前ヒットでサヨナラ勝ちしましたが、75年夏の優勝シーンも同様の結末でしたね。あの時の新居浜商のライトが竹場でした。
今もプロ野球ではヒゲをたくわえた選手は結構いますが、それはあくまでファッションの延長のような感じがします。70年代のシピンや森本潔、江本の口髭などは迫力満点でしたからね
昭和40年代の熊本勢は確かに印象がほとんどありません。津久見の主砲だった大田卓司(元西武)は「大分商は意識しても、熊本勢は全く問題にしなかった」らしいですからね
75年夏の九州学院は確かナイター試合でしたね。最近までNHKで解説していたのは当時の監督だった緒方徹さんでした。熊工は「IT監督」と言われた山口俊介さんや近年の林監督のイメージが強いです。82年夏の平畠の大会400号アーチや、92年夏の剛腕坂田なども懐かしいですね
81年と84年に夏ベスト4入りした鎮西は以後失速してしまったのが不思議でした。出ると強い典型的な例ですよね(久留米商も然り‥)☆
あの頃は確かに中九州といっても殆ど大分代表でしたからね。
やはり甲子園にコンスタントに出てないとレベルが上がらないという事でしょうね。
九州学院の試合は本来なら途中打ち切りでしたが、
前年の鹿実-東海大相模で途中で打ち切って抗議の電話が殺到したため75年から最後までOAという事になりました。
春は初日のみナイターでしたが、7時までに終わったので この新居浜商ー九州学院戦が完全中継第一号ですね。
八浪監督の試合前のキャッチャへの真上ノックは、ボールがなかなか落ちてこないくらい高さがあって、球場が騒然としていたのを覚えています。
それは初耳でした。
やはりそういったフォローがないと公立普通校が甲子園で優勝というのは厳しいでしょうね。
高校野球のベテラン監督のノックは芸術的だという話はよく聞きます。