コメント
 
 
 
高校サッカーやラグビーなども同様でしたね。 (なにわのヒバゴン)
2011-09-17 10:12:43
そんな意味で77年までの甲子園はより郷土性とか代表の重みみたいなものを感じましたよね。ラジオで次の愛媛代表・今治西高校対紀和代表・智弁学園の試合は。。。など帰省中の車の中で聞いていたのですが私は父親に「紀和代表ってどういう意味なん?」と聞きましたよ。紀州(和歌山)の紀と大和(奈良)の和を組み合わせた呼び方というのをその時知りましたが、東の箕島や鈴木康友の天理も同地区に存在したことを思うと本当に凄まじいレベルであったことを伺いさせますよね。

京都が独立後の最後の4年間、近畿の滋賀と北信越の福井が組んでの福滋大会も今思えば画期的で郷愁を覚えます。三国や福井商が充実の福井とまだ夏の甲子園で1勝すら挙げていなかった滋賀との差ははっきり出ていて福井の4連勝でしたからね。翌年、一県一校が定着した滋賀の78年春夏についてはあえて何も語りませんが

同じ県にしても東部と西部、北部と南部ではだいぶイメージが異なりますね。熱海と浜松、尼崎と姫路、和歌山と新宮、岩国と宇部、松山と宇和島などなど。こーじさんの福岡県にしてもそうなのかも知れません。気候や気質によってチームカラーが表れたりするでしょうから地元色の強いチームはファンの共感を呼びやすいんでしょうね。

野球王国・四国も例えば松山商が出場の年なら高松商はアウト。高知商(あるいは高知・土佐)が出場なら徳島商はアウトですから本当に甲子園への道は遠かった印象ですよね。71年の池田はそんな南四国の代表として堂々の初名乗り。蔦監督の嬉しさも後年の比ではなかったのではないでしょうか?78年に最初で最後になっている四国四商の揃い踏み。。。ドロドロユニで準優勝の高知商以外は初戦で敗退する寂しい結果となりましたが、記念大会の名に相応する伝統校としてのプライドが四商ともに甲子園に結び付けたのでしょうね。
 
 
 
77年は (こーじ)
2011-09-17 23:53:57
>なにわのヒバゴン様
 それを考えると77年春はベスト4に智弁学園と箕島に
ベスト8に優勝候補だった天理が入ったので、この中から1校のみしか出られなかったのですから大変でしたね。

 今にしてみると京滋大会は滋賀県勢には酷な事でしたよね。
 今で言うPLのような平安に勝たないと甲子園に行けなかったわけですから。

 福岡県も北九州を中心にした北部は守り重視で、福岡市内や久留米あたりは攻撃野球が主流でしたけど最近は北九州勢も九国大付と自由ヶ丘がパワー野球になってきてますね。

 高松商などは北四国で松山商がいたからこそ選抜で強かったのでしょうね。
 
 
 
山静、北越、奥羽大会も歴史を忍ばせますね。。。 (なにわのヒバゴン)
2011-09-18 10:38:33
その77年を含め紀和大会最後の4年間はすべて奈良の勝利でした。戦前は言うに及ばず、60年代初頭あたりまでは和歌山が奈良を圧倒していたのが、天理の台頭、郡山や御所工の躍進で形勢は逆転。選抜にめっぽう強かった箕島も紀和代表になったのは一度だけでしたし、藤田平の市和商や74年の和歌山工も夏は奈良に代表の座を譲る結果となりましたからね。

京滋大会で平安や京都商らの全盛期に滋賀が勝つのは至難の業だったと言えるでしょうね。ただ晩期は守山や伊香や比叡山が堂々と京都勢を破って出場を果たしているのです。レベルが上がった(あるいは京都のレベルが下がった?)のかと思わせたのに福滋大会ではまた勝てない滋賀に逆戻りしたのはなぜでしょうか。岐阜勢が優勢だった三岐大会も県岐阜商はもちろん中京商(現中京)の存在も三重勢にとっては脅威で海星や三重高校も常連になるまで試行錯誤を繰り返したのでしょうね。その他7~80年代の四国勢って力強さ&試合巧者ぶりが際立っていた印象でした。北四国大会は75年までしたが、その夏は新居浜商が準優勝。初陣でしたからいろんな評価がありますけど私はやはり実力をそのまま発揮したことでの賜。。。ズバリ強かったのだと思いますね。
 
 
 
訂正です。。。 (なにわのヒバゴン)
2011-09-18 10:52:43
京滋大会の晩年で滋賀勢が勝ったのは守山と比叡山と膳所の誤りです。ですから78年夏の桐生戦のスコアなど信じられませんね。
 
 
 
76年に (こーじ)
2011-09-18 23:37:09
>なにわのヒバゴン様
 出場校予想が載っていた76年の週刊アサヒに紀和大会の所で‘なぜ勝てぬ和歌山勢’という特集がありましたね。

 箕島も決して弱くなかったのですけど、これが相性というヤツかもしれません。

 ハッキリ言って70年代に入って京都勢は74年の平安以外は強くなかったですからね。
 とはいえ膳所は広陵から大敗してますので、滋賀の
レベル自体も高くはなかった感じですね。
 
 
 
週刊朝日の予選展望号ってあったのか。。。よくご記憶ですね~ (なにわのヒバゴン)
2011-09-20 00:49:29
70年代前半はまだ高校野球を見ていなかったので彼是と想像するばかりなのですが、近畿は箕島と報徳の春優勝があるものの夏はやや苦戦の印象です。69年の紀和大会決勝は御所工と箕島で争われ御所が勝ったのですが、その前日(あるいは当日)に尾藤監督の長男・強氏が生まれたそうですね。ナインもそれを知ってあれこれと命名?していたようですが尾藤さんは’何事にも強い男であってほしい‘との思いから強と名前を決めたようです。試合には敗れましたが翌春の選抜で初優勝。思えば平安入学を目前で翻意入学させた東尾をエースに初出場4強など、尾藤箕島には何かとドラマを含んだ歴史を感じさせますね。

子供の頃(75、6年頃かな?)高校野球好きの父親から「北海道は北海、京都は平安、広島は広島商か広陵、山口は柳井か下関商、愛媛は松山商。。。」などとよく聞かされいてたのが、広商を除いては全く出てこないので’どこが県の名門やねん‥‘とオヤジのその見方が不思議でなりませんでした。私が小学校卒業の80年春にやっと平安と広陵が出場、北海は82年春に、下関商は81年夏、柳井は84年夏(それ以降なし)ようやく甲子園に復活し私の中の’呪縛‘が解けたような気がしましたね。北海や広陵は本当に70年代後半が低迷期だったことが伺えますし、平安にしてもその後また10年間音沙汰なしになるんですからね。金属バットの時代になって暫くは名門の一時低迷のような傾向がみられた気がします。75年夏は中京や東邦でもなく愛知は国府、平安や京都商でもなく京都は桂でしたしね(まさに一発屋で終わっています)。さらに我が大阪はPLでも北陽でもなく突如復活の興国で、兵庫は全盛期に入りつつあった報徳や東洋大姫路でもなく洲本。。。そんななか東京では長らく低迷していた早実が復活したのは目を引いたものでした。春を中心に強かった日大勢の時代はストップ。新興勢力である桜美林や帝京のブレイクが始まるわけですね。
 
 
 
76年は (こーじ)
2011-09-20 01:02:14
>なにわのヒバゴン様
 76年から本格的に高校野球を予選から意識して見始めたので、乏しい小遣いの中から奮発して購入し凧とで覚えているのですよ。

 たしかに高校野球ファンからすると名門のイメージがありますからね。

 例えば東京勢はひ弱などというイメージで語られてましたけど、最近はそんな事は言われなくなったので
強くなった証拠でしょうね。

 そういえば75年は桂・洲本が初戦敗退し、興国も2回戦で日南から‘まさか’の敗戦で唯一ベスト8入りしたのが天理でしたけど、ココで新居浜商から負けてますから近畿勢にとってはスランプ時期だったのでしょうね。

 
 
 
 
東京チームは逞しいとしか言えない今夏の日大三でしたね。 (なにわのヒバゴン)
2011-09-20 14:37:39
近畿勢75年は春に報徳ベスト4、夏に天理ベスト8に終わりましたが、76年のPL準優勝あとは姫路、PL、箕島が優勝。小学高学年の頃でしたし夏休みは地元チームの応援に熱が入ったものです。

桜美林の優勝が東京勢としては夏60年ぶりの快挙だったのにも驚いた記憶があります。関東と別枠になる春の東京勢は複数チームが出ることが多く、かつ出場校も夏ほど多くないとなると優勝確率も自ずと高くなりますよね。72年春の日大桜丘×日大三の決勝が夏の東京2代表増枠につながったと聞きますが、1代表が続いていたら桜美林の優勝はあったのかどうか。。。以後帝京と日大三が各2回、早実も斎藤で制しましたね。早実は荒木時代はやや人気先行の感がありましたけど、06年によくぞ10年ぶりに復活したな。。。と注目していたところでの全国制覇。その春も関西と再試合がありましたし、春夏計13試合も戦ったことを思うと改めてハンカチ王子(懐かしい響き)の年だったのかな‥という気がします。川角で選抜を制した横浜の印象は薄いですね。
 
 
 
訂正です。。。ボケが始まっている44才なのです(^.^)(-.-)(__)☆ (なにわのヒバゴン)
2011-09-20 15:25:20
06年の早実は再試合も合わせると春夏で11試合の誤りです。そのうち斎藤は1試合しか負けていないのですからやはり凄いですね。春の横浜戦も関西との疲労が多分にあったでしょうし万全な斎藤なら。。。という気がします。結果論ですが春夏連覇の可能性もあったでしょうね。

75年はやはり赤ヘルの年だったんですよ。日南でキャンプを張るカープに見立てたのか同校も燃える赤に変更すると甲子園出場、プチ旋風を巻き起こしましたからね。85年は大阪・タイガース、98年はヨコハマの年だったと言えるでしょう。白ヘルで日南高校(日南学園と同色)は85年に1度復活しましたが、興国はその敗戦以来長い沈黙が続きますね。興南のブレイクは68年のベスト4。同校に勝って優勝したのが興国ですから我喜屋監督(当時主将)も忘れられない試合になっているのでしょうね。
 
 
 
個人的には違うのですけど (こーじ)
2011-09-20 23:19:27
>なにわのヒバゴン様
 06年の横浜は早実より強かったと思いますよ。
 春の戦いぶりを見ると履正社・八重山商工に勝って
ウォームアップを終え、そこからは圧勝でしたからね。

 夏も初戦で大阪桐蔭と当たってなければベスト8は固かったと思います。

 06年の早実は2回戦の大阪桐蔭以外は鶴崎工・福井商・日大山形・鹿児島工ですから楽に勝っての決勝ですたからね。

 そういう意味では全国制覇するにはクジ運も必要ですし、斎藤自身も選抜よりはレベルアップした漢字でした。

 興国の村井監督のインタビューが86年のNumberに載ってましたけど、正直言ってコテコテの精神主義者的なコメントで‘これでは甲子園は無理だろう’と思った次第です。

 今は高野連が黒と白に紺ぐらいしかヘルメットの色を認めてないらしいですね。
 だから日南の赤ヘルもダメだという話を聞いたことがあります。

 
 
 
 
 
 
やっぱり横浜>早実だったかも知れませんね。。。 (なにわのヒバゴン)
2011-09-21 03:05:00
なるほど。私は早実が大阪桐蔭に圧勝したことで横浜とだったらどうだったかな?と思ったんですが。。。よくよく考えると21‐0で選抜優勝でしたからね。組み合わせの妙はあると思います。かつて帝京は春夏で3度優勝していますが、いずれも決勝相手校と比べると対戦相手に恵まれたな(夏は2回とも5試合で優勝でしたし)という印象が強いですしね。こーじさんが書いておられた広商が池田にトラウマ状態で戦ったのと同じく、早実は80年夏決勝のダメージがひょっとして(当の選手にはなくても)残っていたのかも知れませんね。その昔、銚子商や池田が報徳を、習志野が東洋大姫路を苦手にしていたのと同様でしょうか

村井監督はずーっと民放の解説で春夏とも甲子園の放送席にいたイメージでした。調べてみますと75年春の仙台育英×近大付の試合に村井さんの名前がありますし、私が記憶している最後の解説は94年春の高田商×佐野日大です。以前にも書かせて頂いたので多くはコメントしませんが、村井さんは本当にいい野球理論を持っておられました。なのにどうして自校にそれをフィードバックできないのかと。。。?大阪ではPLは鶴岡泰を迎えて数年後に全国制覇を達成。いよいよ精神野球では通用しない時代に突入していくのですが、年々声高に語る村井さんの解説は説得力が薄れていき局も混迷したのではないでしょうか。興国を去ったあとは請われて京大で野球指導していると見聞きしましたが。。。

個性も尊重?された日南ヘルもそうですし、名電は近年は白ヘルですね。個人的には工藤時代の紺(紫)のほうが力強くて好きでした。北陽との熱戦が蘇りますね。報徳もかつては白地にツバの部分が緑で同様に姫路は白地に紺のヘルが特徴でした。住谷・東や金村、あるいは弓岡や松本の頃の甲子園はまだ規制も甘く改めて古き良き時代だったと振り返れますね。
 
 
 
村井氏は (こーじ)
2011-09-22 00:12:05
>なにわのヒバゴン様
 村井氏が持っている野球理論は素晴らしいと聞きますが、それに縛られているような人っていますし氏もそのパターンかもしれませんよね。

 しかも民放の解説をするという事は甲子園に出てないという事でもありますし・・・・

 ヘルメットのツバの色が違うのもダメというのは
さすがにやり過ぎだと思いますよ、高野連は。

 なぜヘルメットにまで規制をするのか全く理解できません。

 
 
 
 
土足で人の家へ上がり込む。。。大阪の下町も田川市のような気質ですよ^^ (なにわのヒバゴン)
2011-09-23 23:07:11
高校野球(学生スポーツ)は選手ありきのものであって欲しいですね。選手起用は監督に決定権がありますが、戦術とかプレーの一つ一つは選手の自主性に任せた方が失敗しても納得でしょうし、そこから反省とか創意工夫が生まれるのだと思います。監督はあくまでも選手をモチベーション高くプレーさせられるかを念頭において采配を振るって欲しいですね

高校野球の解説ですが、現役の優勝or準優勝監督なら出場ブランク10年まで、それ以下の監督なら同5年までと決めて欲しいですね。担当試合が横浜や智弁和歌山、日大三、帝京などであれば解説者もそうそう厳しい指摘も出来ないでしょうし、出場している名監督にしてみれば’あなたごときに言われたくない‘と思われるのがオチでしょうからね。
 
 
 
それはありますね (こーじ)
2011-09-23 23:42:27
>なにわのヒバゴン様
 やはり甲子園にすら出てない人が解説で‘ああだ、こうだ’言うのは視聴者からも‘?’ですからね。
 
 やはり野球も進化しますので、それを無視した解説者は必要ないですよ。

 選手のモチベーションを上げるのが上手かった監督が尾藤さんでしょうね。
 
 
 
確かに野球は進化してますね (なにわのヒバゴン)
2011-09-24 12:21:22
甲子園の決勝戦、池田×広商やPL×二松学舎を除いて80年代までは春夏ともせいぜい開いても3点差まで(延長で大量点になった75年春、84年夏もありましたが)という見方だったのが、90年代あたりから打撃主体のチームが急増。ここ数年は一方的な試合展開で俗に言う’決勝戦らしさ‘は失われつつありますね。連投の疲労からエースが打ち込まれてしまうとジ・エンドになるのが顕著で06年春の清峰も、08年夏の常葉菊川も、11年夏の東海大相模も、今年の九国、光星学院も得点差ほど優勝校とは力量は変わらないと思います。そんな中で06年夏の早実×苫駒とか09年春の清峰×花巻東は近年では珍しい投手戦での決着でオールドファンとしては貴重な試合内容でどこか懐かしさも感じました。

尾藤監督はやはり選手の緊張を解き放す’尾藤スマイル‘が絶妙でしたし、その笑いが相手校からすれば何とも不気味に写ったことでしょうね。星稜戦、さしもの尾藤さんも延長12回2死無走者では負けを観念したらしいですが。。。嶋田宗彦の’監督、ホームラン狙ってもいいでしょうか‘の一言でハッと我に返ったそうですね。16回裏にしても局面は同じでした。全員野球を掲げながらもあくまでも基本は’のびのび野球‘。82年春の明徳戦にしても延長でリードを奪われる展開でしたが、’お前ら気合負けしとるやないか。向こうが点を取れてウチに取れん筈がない~!‘とスマイルを浮かべながらも喝を入れ同点、サヨナラへと繋げましたよね。ただ83年夏の吉田戦は試合後尾藤スマイルはなかったようで。。。報知高校野球にはそう書いてありました

尾藤さんは72年に一度監督を辞任され、ボウリング場の支配人などで働いたことがのちの人心掌握に役立ったとのことです。復帰後は定時制エースの東で選抜制覇、春夏連覇、以後は優勝できなかったものの甲子園に率いたチームすべてが魅力的で最後に出場の91年春にしても本格派エースの山路、スラッガーの林孝哉(元ホークスなど)、控えにも高野(元ジャイアンツ?)など野性味溢れる箕島イズムは健在で、大阪桐蔭に終盤に逆転負けを喫したとはいえ、同校は夏には優勝の初陣実力派でしたからね。尾藤さんも初出場でいきなり4強入りしましたから、高校野球の新旧交替をふと頭によぎったことかも知れません。その夏は和歌山大会で智弁和歌山に初黒星を喫し智弁が甲子園へ、完全に智弁>箕島に形勢は逆転してしまいましたね

解説といえば数年前までバンビ坂本佳一さんも務めていましたが、やや主体性に欠けた話に終始していたのは期待外れでした。もっともNHKですから無難に、当たり障りなく。。。が基本でしょうけどね。あどけない16才のバンビ少年も年月を経てナイスミドルに様変わりした印象で、77年が遠い昔であることを思い知らされましたね。
 
 
 
進化しているからこそ (こーじ)
2011-09-24 23:32:10
>なにわのヒバゴン様
 やはり進化しているからこそ、指導者もそれに見合った勉強をしておかないといけないですね。

 それが出来ないチームは広島商のように容赦なく衰退しますから。

 だから1-0を想定したゲームプランをするチームは
まず勝てないという事でしょう。

 高校野球のオールドファンもプロ野球のOBも それに
気付かないといけないのですけどね。

 バンビ坂本の解説を聞いていると‘?’ですね。
 これでは監督をしないでよかったと思いますよ。
 
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。