コメント
若き日の久保監督と柳沢監督
(
なにわのヒバゴン
)
2008-12-30 00:24:05
こーじ さん
学校法人石川高校を略した学法石川という校名が子供の頃なんとも不思議でした。この大会が初出場だったんですね
鹿実もあまり記憶にないんです。その夏に豊見城との九州対決があったみたいですが。。78年夏の鹿島、定岡徹久の時代からはよく覚えています
定岡正二で一躍全国区になった鹿実も7~80年代は苦労してましたよね。81年山田投手のチーム、83年Y校に開幕戦で惜敗したチーム。まとまりはありましたが、やや破壊力が足りなかった印象です
スラッガー内之倉以降に鹿実の黄金期が訪れましたが、91年春の2回戦で鹿実×学法石川があり7‐5で再び勝利。川端と川越の投手戦かな?と予想したのですが、意外に点の取り合いになりました。その夏は準決勝で沖水にあと一歩及ばず敗れましたが、4季続けての上位進出で「強い鹿実」のイメージは完全に定着しましたよね
と言うことは91年に柳沢監督、栽監督といずれも15年ぶりに久保監督は相まみえたんですね。いずれも時代を代表する名将。厳しさの中にも温かさがありましたよね☆
♪れいめい告ぐる朝ぼらけ~高千穂峰に雲わきて~☆名校歌です
確かに、この頃の鹿実は
(
こーじ
)
2008-12-31 00:03:43
>なにわのヒバゴン様
鹿実といえば豪快に打ちまくるチームというイメージがありますが、70年代中盤までの鹿実は守りのチームでした。
定岡正二のときも2試合連続1-0で、伝説の試合となった東海大相模戦こそ15回を戦って17安打放ちましたが、5点しか取れてません。
その流れのチームでしたから、この大会では守りのtチームと言われてましたよ。
学法石川が76年以降に再び出始めたのは、83年夏で
米子東や東山に勝ってベスト16入りしてますね。
91年は川越のチームで東北大会を制して乗り込み、
2回戦で鹿実との再戦になりましたが今度は点の取り合いで鹿実の返り討ちでしたね。
夏は初戦で智弁和歌山に3-2で競り勝っているのですよね。
結局この頃が全盛で、99年の出場時に柳沢前監督は応援席で倒れ帰らぬ人となったそうです。
甲子園に燃えた柳沢監督にとってアルプスで倒れたのは本望だったでしょうか?
それ以降、学法石川はパッとしないのですよね。
柳沢監督、明徳・松田監督。まさに甲子園に賭けた名将でした。忘れません~!!
(
なにわのヒバゴン
)
2008-12-31 03:05:42
こーじ さん
学法石川は意外にも甲子園通算4勝12敗と振るわないんですよね。イメージとしてもっと勝ってる気がするのですが。
♪歴史も古き石川の~末遥かなりこの集い~健児は誇る旺盛の~生命にみてる輝きを~
私は学法石川の校歌がめっちゃ好きです。書かれてました通り、83年夏に初めて聞いて「詞もメロディも最高。次の試合も勝って欲しい~」と応援するようになりましたね。86年夏は地元の東洋大姫路に大敗したのですが、私はもちろん学石を応援。家族から「何で福島のチームを応援するねん~」って小首を傾げられましたよ。
91年夏はブレイク前の智弁和歌山に勝っているのですね。さすがは川越投手、長くプロで活躍しているだけに当時から素質の片鱗が伺えます。しかし、学法石川は以後は新鋭校の前に苦戦が続いていますね。聖光学院、日大東北の両雄が毎年強いです
2000年春に久々(古溝以来)に出場して8強入りした福島商。01年春の21世紀枠(採用年)の安積のハツラツプレーも印象的で、再登場を期待したいですね
鹿実、確かに内之倉時代まではさほど爆発はしなかったかも。原時代の東海大相模はスケールは大きくとも、やや投手力が弱かったですね。村中はその鹿実戦や翌春決勝の高知戦、夏の上尾戦など打ち込まれての敗戦でしたから。投手のコマがもっと揃っていれば原、津末のチームは一度は優勝していたのではないでしょうか?やはり杉村の高知戦は惜しかったですよね(9回裏ライト好返球でサヨナラならず~!)
守りの鹿実といえば下窪でセンバツ優勝やノーヒッター杉内、04年夏のチームなどですね。96年春は久保監督も手堅かった‥。もう今回は勝ちに行く~!みたいな。何としても枦山監督より先に優勝旗を持ち帰りたかったのでしょうね
今夏、鹿実は2勝を挙げましたが往年の桜島打線を彷彿とさせました(杉内以来10年ぶり勝利とは光陰矢のごとし)。神村学園、鹿児島工らの台頭で薩摩の高校球界は今後どう推移していくのでしょうか。。☆
互いに
(
こーじ
)
2008-12-31 22:43:12
>なにわのヒバゴン様
そういえば学法石川は日大東北や聖光学院に、鹿実も神村学園や鹿児島工に苦戦してますね。
やはり柳沢、久保というカリスマ監督が退任したのが大きいのでしょうか。
学法石川は88年も鹿児島商に大敗してまして、鹿児島勢には勝ってません。
石川町という小さな町出身の地元と密着している好チームですよ。
カリスマ監督の存在感
(
なにわのヒバゴン
)
2009-01-01 03:53:36
こーじ さん
久保、柳沢両監督。今でも表情や仕草が目に浮かびますものね。86年春の優勝投手、池田の梶田が話していたのですが「あのチームは運もあったけど、相手が蔦さんを変に意識しすぎて名前負けしてくれたことも大きかった‥」らしいのです。
ベンチで蔦監督が単に帽子を触ったり、脱いだりしているだけで相手は、「あっ、蔦さん何か仕掛けてくる、ヤバい‥」
相手監督が迷いを見せてしまうと、おうおうにして選手にも伝染してしまうものですよね。投手は自分のリズムで放れなくなり、守りもソワソワと浮わついてくる。そうなれば名将が手腕を発揮するのは言うまでもなく、チャンスで一気に~!というケースも十分に考えられますよね
鹿児島工や神村学園が台頭してきた背景には やはり鹿実に以前のような怖さをあまり感じなくなったことが大きいのでは‥とライバル樟南の枦山監督が語っていました
今までだと鹿実に勝ってもまだ樟南を倒さないと甲子園に行けない。1横綱は倒せても、両方となると体力も気力もかなりのものを要しますからね。それと久保監督が辞めたことで、枦山監督も少しモチベーションが下がった気がします。以前のような闘志剥き出しの威圧感は薄れているような。。。丸3年、樟南は甲子園から遠ざかりましたが、今夏は復活するのか‥個人的に注目しています☆
それはあるでしょうね
(
こーじ
)
2009-01-02 00:50:53
>なにわのヒバゴン様
蔦さんは、基本的にはあまり策は講じないタイプだったのですけどね。
それでも相手が意識するとは、オーラがそうさせるのですね。
86年に沖水の上原が、松山商に逆転負けを喫したときに栽監督は‘田舎のチームが名門相手に自滅する
典型的な試合’とコメントしましたが、そういうのは
ありますね。
やはり指導者が変わると相手の方が意識するようですね。
木内さんが退任したとたんに常総学院が勝てなくなったのも象徴的です。
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学校法人石川高校を略した学法石川という校名が子供の頃なんとも不思議でした。この大会が初出場だったんですね
鹿実もあまり記憶にないんです。その夏に豊見城との九州対決があったみたいですが。。78年夏の鹿島、定岡徹久の時代からはよく覚えています
定岡正二で一躍全国区になった鹿実も7~80年代は苦労してましたよね。81年山田投手のチーム、83年Y校に開幕戦で惜敗したチーム。まとまりはありましたが、やや破壊力が足りなかった印象です
スラッガー内之倉以降に鹿実の黄金期が訪れましたが、91年春の2回戦で鹿実×学法石川があり7‐5で再び勝利。川端と川越の投手戦かな?と予想したのですが、意外に点の取り合いになりました。その夏は準決勝で沖水にあと一歩及ばず敗れましたが、4季続けての上位進出で「強い鹿実」のイメージは完全に定着しましたよね
と言うことは91年に柳沢監督、栽監督といずれも15年ぶりに久保監督は相まみえたんですね。いずれも時代を代表する名将。厳しさの中にも温かさがありましたよね☆
♪れいめい告ぐる朝ぼらけ~高千穂峰に雲わきて~☆名校歌です
鹿実といえば豪快に打ちまくるチームというイメージがありますが、70年代中盤までの鹿実は守りのチームでした。
定岡正二のときも2試合連続1-0で、伝説の試合となった東海大相模戦こそ15回を戦って17安打放ちましたが、5点しか取れてません。
その流れのチームでしたから、この大会では守りのtチームと言われてましたよ。
学法石川が76年以降に再び出始めたのは、83年夏で
米子東や東山に勝ってベスト16入りしてますね。
91年は川越のチームで東北大会を制して乗り込み、
2回戦で鹿実との再戦になりましたが今度は点の取り合いで鹿実の返り討ちでしたね。
夏は初戦で智弁和歌山に3-2で競り勝っているのですよね。
結局この頃が全盛で、99年の出場時に柳沢前監督は応援席で倒れ帰らぬ人となったそうです。
甲子園に燃えた柳沢監督にとってアルプスで倒れたのは本望だったでしょうか?
それ以降、学法石川はパッとしないのですよね。
学法石川は意外にも甲子園通算4勝12敗と振るわないんですよね。イメージとしてもっと勝ってる気がするのですが。
♪歴史も古き石川の~末遥かなりこの集い~健児は誇る旺盛の~生命にみてる輝きを~
私は学法石川の校歌がめっちゃ好きです。書かれてました通り、83年夏に初めて聞いて「詞もメロディも最高。次の試合も勝って欲しい~」と応援するようになりましたね。86年夏は地元の東洋大姫路に大敗したのですが、私はもちろん学石を応援。家族から「何で福島のチームを応援するねん~」って小首を傾げられましたよ。
91年夏はブレイク前の智弁和歌山に勝っているのですね。さすがは川越投手、長くプロで活躍しているだけに当時から素質の片鱗が伺えます。しかし、学法石川は以後は新鋭校の前に苦戦が続いていますね。聖光学院、日大東北の両雄が毎年強いです
2000年春に久々(古溝以来)に出場して8強入りした福島商。01年春の21世紀枠(採用年)の安積のハツラツプレーも印象的で、再登場を期待したいですね
鹿実、確かに内之倉時代まではさほど爆発はしなかったかも。原時代の東海大相模はスケールは大きくとも、やや投手力が弱かったですね。村中はその鹿実戦や翌春決勝の高知戦、夏の上尾戦など打ち込まれての敗戦でしたから。投手のコマがもっと揃っていれば原、津末のチームは一度は優勝していたのではないでしょうか?やはり杉村の高知戦は惜しかったですよね(9回裏ライト好返球でサヨナラならず~!)
守りの鹿実といえば下窪でセンバツ優勝やノーヒッター杉内、04年夏のチームなどですね。96年春は久保監督も手堅かった‥。もう今回は勝ちに行く~!みたいな。何としても枦山監督より先に優勝旗を持ち帰りたかったのでしょうね
今夏、鹿実は2勝を挙げましたが往年の桜島打線を彷彿とさせました(杉内以来10年ぶり勝利とは光陰矢のごとし)。神村学園、鹿児島工らの台頭で薩摩の高校球界は今後どう推移していくのでしょうか。。☆
そういえば学法石川は日大東北や聖光学院に、鹿実も神村学園や鹿児島工に苦戦してますね。
やはり柳沢、久保というカリスマ監督が退任したのが大きいのでしょうか。
学法石川は88年も鹿児島商に大敗してまして、鹿児島勢には勝ってません。
石川町という小さな町出身の地元と密着している好チームですよ。
久保、柳沢両監督。今でも表情や仕草が目に浮かびますものね。86年春の優勝投手、池田の梶田が話していたのですが「あのチームは運もあったけど、相手が蔦さんを変に意識しすぎて名前負けしてくれたことも大きかった‥」らしいのです。
ベンチで蔦監督が単に帽子を触ったり、脱いだりしているだけで相手は、「あっ、蔦さん何か仕掛けてくる、ヤバい‥」
相手監督が迷いを見せてしまうと、おうおうにして選手にも伝染してしまうものですよね。投手は自分のリズムで放れなくなり、守りもソワソワと浮わついてくる。そうなれば名将が手腕を発揮するのは言うまでもなく、チャンスで一気に~!というケースも十分に考えられますよね
鹿児島工や神村学園が台頭してきた背景には やはり鹿実に以前のような怖さをあまり感じなくなったことが大きいのでは‥とライバル樟南の枦山監督が語っていました
今までだと鹿実に勝ってもまだ樟南を倒さないと甲子園に行けない。1横綱は倒せても、両方となると体力も気力もかなりのものを要しますからね。それと久保監督が辞めたことで、枦山監督も少しモチベーションが下がった気がします。以前のような闘志剥き出しの威圧感は薄れているような。。。丸3年、樟南は甲子園から遠ざかりましたが、今夏は復活するのか‥個人的に注目しています☆
蔦さんは、基本的にはあまり策は講じないタイプだったのですけどね。
それでも相手が意識するとは、オーラがそうさせるのですね。
86年に沖水の上原が、松山商に逆転負けを喫したときに栽監督は‘田舎のチームが名門相手に自滅する
典型的な試合’とコメントしましたが、そういうのは
ありますね。
やはり指導者が変わると相手の方が意識するようですね。
木内さんが退任したとたんに常総学院が勝てなくなったのも象徴的です。