重度の難聴を抱える少女「西宮」と、度が過ぎた悪ガキぶりから周囲に拒絶された経験を持つ少年「石田」が、高校生になって再会し、それぞれ周囲との関わり方を見つめ直して成長を遂げていく物語。
最近テレビで放送された映画版を見て気になり、動画配信サービスでもう一度見直し、さらに原作を読むに至った。この作品、登場人物が曲者揃いだ。客観的に見れば明らかに加害者側の立場にありながらもそれを全く自覚せずに善人ぶり、更にそのことに気づくことすらないナルシスト「川井」、個人的興味で事態に介入し、その時の断片的な状況判断で無責任に正義を振りかざす「真柴」、周囲を顧みず、好意を寄せ続ける石田に振り向いて欲しいと過去の石田さながらの直情的な言動に走る不器用で一途な「植野」、過干渉と放任の対局にある西宮と石田それぞれの「母親」、自己責任を盾にする無責任な「教師」など。登場人物内面への描写や幾つかのエピソードがカットされている映画版では幾分トーンダウンしているものの、それでも、他者への無関心を含めた登場人物達によるエゴイズム丸出しの言動は本作品を見る者に強烈な印象を与える。しかし、現実社会で見られる様々なものを濃縮して彼らが代弁しているだけのようにも見える。西宮にしても、過去の自分を徹底的にいじめた張本人である石田に好意を抱くだなんて、フツーに考えればどうかしてるぜ?なのだけれども、面倒を回避すべく他人と向き合うことをずっと避けていた彼女が唯一、取っ組み合いの喧嘩をする程に感情をぶつけた相手が石田だったことが鍵なのだろう。アプローチの仕方はともあれ、結果として、西宮にとって石田は、常に真正面から自分と向き合ってくれる存在だったのだ。
世の中には様々な考え方の人がいて、価値観や表現も十人十色。そうした社会の中で、我々は常に何がしか周囲の他人とのコミュニケーションをとりながら生きている。全ての人と分かり合える訳ではないし、全く理解できない(したくない)相手もなかには存在する。表面的には伝わったかのように見えて、しかし本質的なところでは共通認識の形成には至れておらず、それが後々トラブルの元になったりもするなど、なるほど他人とのやりとりというのは、それが例え家族のように身近な存在であったとしても、時に面倒で実に難しいものであるとは日々自分も感じているところだ。「そもそもコミュニケーションというものは難しいものなのだから、たとえ上手く行かなくても諦めずに(でも気負わずに)、続けていこうとする姿勢こそが大切」というのが、本作のメッセージなのだと理解するに至った。
父親が拾ってきた感染症が妊娠中の母親にうつったことが理由で、自分の意思と無関係に耳が聞こえない西宮(おそらくは先天性風疹症候群)と、過去の自身の体験を理由に周囲との関わりを自ら断った石田は、他人とのコミュニケーションに難しさを感じながら現世を生きる人々のメタファーであり、いずれも自己肯定感の低さから一時は自死までを覚悟した2人が、相変わらず癖強(クセつよ)な周囲とのやりとりを通じて生きていくことの価値を見出し、希望を胸に前に進んでいこうとする。そこには「他人に変化を期待することは難しいが、自分はいつだって変わることができる」というメッセージが込められている様に思う。最初は加害者としての贖罪の対象、それが共依存の関係を経て、やがて互いに信頼を寄せ合える相手となった西宮の手を引いて扉を開ける石田の吹っ切れた表情と、そんな石田に委ねる西宮の横顔が印象的であった(映画版ではエンディングが変更され、描かれていない)。