三日月堀のお城

藤枝の田中城歴史探索 ふるさと再発見

三日月掘のお城   

2009-03-15 12:58:03 | Weblog
   田中藩の藩校 【日知館】

駿府城の西の守りとして田中城を居城に志太地域を治めた田中藩では、享保
15年(1730)に本多正矩(まさのり)が上野国沼田藩から田中藩へ移封となり、以後
明治維新まで7代138年にわたつて本多家が田中藩主として志太地域の大半
(3万石)を治めた。その田中藩本多家では本多正(まさ)温(はる)の代から武芸者を招くなど
武芸の振興がはかられた。武芸者の招致では寛政9年(1797)に新八条流馬術
の達人であつた仙田五太夫政芳を召抱えて、以後仙田家は正芳・政相・政準の
三代の間、師範であつた。本多正(せい)意(おき)の代には藩士の江戸遊学を認めるなどの
武芸奨励策がとられた。遊学は3ヵ年に限つて2人扶持を支給するとともに、
文武の免許や印可を得た者には扶持の加増や一時金の仕給を行うほか、次男
以下であつても家を興すことを認めるなど優遇した。また享和2年(1802)に
弓剣2道の達人であつた小野清右衛門成誠を登用し、以後小野家は成誠・成顕・
成命の三代にわたり弓剣2道(日置(へき)流道雪派弓術と直(じき)心(しん)影流剣術)の師範として
活躍し、成命に至つては鬼勘の異名をとるほど武名を馳せた。
本多正(まさ)寛(ひろ)の代には儒者石井縄斎らの尽力により天保8年(1837)に藩校日知館
が創設され藩士の文武教育に力が入れられた。日知館は田中城内の大手口松原
木戸を入つた左側に建てられ、東西28間・南北29間の敷地内に学問素読所
のほか武芸面では主に外郭の道場において兵学(長沼流)、剣術(直心影流・
田宮流)、槍術(種田流)、長巻(神刀智心流)、弓術(日置流道雪派・武田流)、
柔術(制剛流・楊心流・荒木流)、居合(柔新心流)、馬術(新八条流)、砲術
(武衛流・藤岡流)が行われた。日知館では学問よりも武芸が盛んに行われ
数々の武芸者を生み出し、日知館は東海道文武の関門と称されるほど知られる
ようになつた。そして他藩の武芸者との他流試合も盛んに行われた。武芸諸流の
なかでも田中藩では特に剣術と槍術が御自慢の武芸であり強豪を生み出し、また
砲術でも藩内で6派が行われるなど盛んであつた。天保14年(1843)に一貫目
の弾丸を発射できる大砲を作らせ,以後幕末にかけて田中藩では砲術を強化して
田中城外の射撃場や蓮華寺池・瀬戸川原・焼津海岸で砲術訓練を行つた。
最後の藩主本多正(まさ)納(もり)の代には江戸の田中藩邸にも万延元年(1860)に江戸日知館
を開設して江戸在住の藩士子弟の教育に当たつたが、その規模は田中日知館に比べはるかに小さいものだつた。
このように田中藩本多家では江戸後期から幕末にかけて武芸の振興強化が積極的
に行われたが、その背景として外国船の来航をめぐる海防問題や、尊王攘夷運動
から討幕運動へ移る緊迫化した国内情勢という内憂外患があつた。

                     藤枝市郷土博物館・第62回企画展資料より