からっぽのたからばこ・BLOG

私が日々に思う不思議な事、嬉しかった事、切なかった事、どうでもいい事(ぇ)が綴られています。

何にも解らないバカならば

2007年07月31日 22時45分21秒 | ふと思ったこと
傷つくこともないだろうか

見た目が悪かったら
アタマが悪かったら
金が無かったら
地位が無かったら
何を言われても
バカにされても
ひたすら我慢我慢がヒトの道かと

我慢して乗り越えて初めてヒトの道だと言うなら
それもそうかもしれないけどさ

言われても傷つくこともないと思ってんなら大概オカド違いだわ
ふざけんじゃねぇよ
くそでもくらえ

逃げ時

2007年07月30日 21時24分09秒 | ふと思ったこと
逃げるのに逃げ時もクソもあるかいっ!

と思われるかもしれないが。

逃げ時は大事だ。重要項目だ、と思う今日この頃。

逃げる、と言うことにおいて変わりは無いわけだから。
逃げた、と言うことは忘れてはならないし。
逃げた、と言うことを美化してはいけない。
幾つもある選択肢から逃げることを選んだならば、それに責任を持たねばなるまい。
ただただ逃げました楽になりました、そんな道などきっとない。
気づく人と気付かぬ人と気付いてるのに知らぬカオしてる人がいるだろうから、「きっと」としておくが。

先日、友人にお会いした。
友人というよりかは姉であり師匠。
その方が、その方の悩める後輩へ投げかけた言葉は、こんなカンジだ。


「逃げるのならば、今ではなく、場所や人や時期を変えるべき。
今逃げたら、逃げた自分を絶対許せないだろうし。
逃げ出したその場所を大嫌いになって二度と帰れない」

と。
そうだなぁ、とただただ納得。


最近、仕事に僅かに余裕?が出てきた。
僅かな僅かな気持ちの余裕は、私のえぐれたキモチには最良のクスリだ。
まだまだ私いけそう。
まるで弱ってたのがウソみたいに。


ある意味、私は逃げ時を見逃し三振した。
お陰様で、仕事に光が見えた。

今すぐなりふり構わず逃げねば死に至る人も居るかもしれない。
今は逃げ時じゃなく、見逃し三振こそが最良の選択肢かもしれない。
世の中、どうなるか未知。


私は今道を選んだ。進むと。
アナタは今道を選ぶ。

さぁ、どんな道にする?

治す、って言われたら

2007年07月25日 21時36分38秒 | ふと思ったこと
治すとか治療とかって言われたら
まるで「今の状態は『ダメ』だから『正常』にします」って言われてるみたい。
「『正常』にしなきゃダメです」って言われてるみたい。

たとえストレスで吐いて吐いて痩せても
コンプレックスと戦って弱っていても
目標と自分の現段階の出来にうなだれても
ハゲようとも
目の下にクマできようとも
なにがあろうとも


私は私だし
アナタはアナタで
それは変わらないのにね

なのに
「薬出しますよ、治しましょうね」
って言われたら。

「今の私」は完全否定みたいじゃないかなぁと。
ダメですよ、って言われたみたいに思えちゃう。

そんなの、イヤだなぁ


弱っていても私
強がってても私
元気なのも私

晴れの日が楽しくて
雨の日は悲しくて
でもソレは『1日』としては同じなのにね


私は私
アナタはアナタ
今、そこに生きているよ
今、そこにアナタがいるよ
満面の笑みで私に話しかけてくるアナタがいるよ

あらまぁ。

2007年07月23日 21時36分31秒 | ふと思ったこと
私が、こんなにも放置して殆ど書き込んでいないブログにも、毎日20人もの方々が足を運んでくださってるようです。
感謝感謝です。


さて。

ちょっとグダリグダリと語ります。


私は、このブログの一番、いっちばん最初のコンセプトというか。
「書く意義」みたいなものを

「誰かに読んでもらって何か伝わればいいな」とか。
「誰かに、私の経験やら思いやらが伝わればいいな」とか。

読まれることを意識して、そうだなぁ。
読み手によって解釈はさまざまだろうけど、ココを読むことでふと考え込む時間が出来ればいいなぁ!みたいな気持ちでスタートしました。

だから、推敲とかもしてたわけです。
あんな文章でも、一応ね?(苦笑


しかし、どうも、私はあんまり強い人間ではなく。
自分の弱い部分、自分が弱っている時間、
そういうものを「不特定多数がみているかもしれない、でも見ていないかもしれない、でも見ているかもしれない」という空間に書き出す、というか「吐き出す」コトでなんとか自分が自分を保てるように、ってカンジで書くことが多くなってきました。
後半からは、そういう感じが非常に強いですね。


「大丈夫?」って聞かれると。
「大丈夫!平気!」って応えてしまうのです。
「出来る?」って聞かれて。
「できません」って言いたくないんです。
「なんとかします」っていいたいんです。

でも、その性格が災いしてか、ちょっとしんどい時間が多かったです。

だから、「私はまだ頑張れる、頑張れる」な日記が増えましたね。
その後に「いや、もう頑張れないよ、助けてよ」な日記が増えましたね。


背伸びして「私、こんなことも考えてるよ。アナタならどう思うかな?」なブログから、等身大、いや、それ以下?
悩んで苦しくて助けてほしいけど、面と向かっては言えない。
更に言えば、逃げ出すことも勇気なんだけど、その勇気すらない、
弱い弱い私がいます。

それでも
私はココに存在していて。
私を嫌う人もいるし。
私を大切に思ってくれる人もいる。

私を取り囲む「世界」は非常に狭いものだけど、それでも、私を取り囲む世界は、非常に温かい。
お世辞、とかではなく、自分で自分は恵まれていると思います。
まぁ、イロイロあるけれどね。
家族とか、親とか。自分の居場所とか。


生きてるだけで、儲けモンです。この世の中。
正直、死にたい、終わらせたいと思うこと何度もあったけど。
残念なコトに、私にはその勇気すらなく、惰性で今日もココに生きているけれど。
それでも。
生きているから、今日の晩御飯はうまかった。
生きているから、今日の空が青かった。
生きているから、アナタに会えた。

無限に、イヤなコトがある世の中だけど。
生きていれば、イイコトもいっぱいあるのだと。


ちょっと元気になったから、思えるようになりました。



今、ほんの少し元気になって。
多分、また壁にぶち当たったら、私は「今度こそこの世の終わりだ」とばかりに落ち込み、自分を見失い、体調も崩すし、自分自身がボロボロなのを痛感するんだろうけど。

それでも、生きていれば、なんとかなる。
うん。


決してデキのイイ子じゃないし。
決して育ちのイイ子でないけれど。
私は、どこまでいっても私なんだな、と。


ただ、それだけなんですけど。
書いておきたい気分だったんで、書いておきます。

アウェイとかホームとか

2007年07月15日 19時07分38秒 | ふと思ったこと
私の「ホーム」はドコなんだろう?


高校から別の町に住み、訪れるのは年に数日。
地元を「ホーム」と呼べそうに無い私。

高校から住んだ町、三年経って大学へ。
高校の有る土地も「ホーム」と呼べそうに無い私。

大学の四年間過ごした札幌。
一番リアルに「ホーム」に感じるけれど、やはり「ホーム」では無い。

今、社会人として過ごす町。
借りられてきたネコ状態。
「ホーム」ではない。今の所は、まだ。


ある人は、ある人に向けた言葉を私に言った。
「18~22歳の4年間もそうだけど。
その後の社会人としての22歳~28歳くらい。
その期間に「ホーム」が見つからないようじゃ…
ちょっと不安だよね」
的な内容の話。


未練もなくヒョイヒョイ土地を変えてしまう・変えられる、と言うスタンスは余り誉められないね。と言う意味での話。

じゃあ私は今まで未練なしにヒョイヒョイ来たかと言えば…
無かった所もあるし、未練のある土地もある。

だけど今、キモチが根無し草。
私が本当の意味での「故郷」というか「我が郷」と言える場所。


だけど
見つけた

私がアナタの「ホーム」で
アナタが私の「ホーム」なら
怖いものなど無いのかもしれない

私の乾いた根に水が充たされる
そんな音が聞こえた気がする

小説「空の上に故郷」

2007年07月14日 19時07分24秒 | ふと思ったこと
春先に。
地吹雪で叩かれ叩かれ、鍛え上げられた固い雪に覆われた野山は。
歩いても飛び跳ねでも足跡も付かない一枚岩。

閉ざされ締まった一枚岩は。
「空」と「大地」を青と白に塗り分ける。
風が刻んだ雪の凹凸は。
すぐ近くまで来ている春の照れ隠し。




飛行機に乗り。
眼下に広がるその景色は。
まさに見紛う事なき故郷の色。
無機質な四角に切り取られた世界は。
遮るものを知らない最高透度の青。
僅かな灰色が凹凸だと気付かせる純白の雲は雪原。
有るはずがない場所に延々続いている地平線。



眠かったハズなのに
私は一睡もしないで散歩する
神戸に向かうハズの私は雲の上の故郷を歩く


勝手気まま

2007年07月14日 10時37分35秒 | ふと思ったこと
私と言う人間は。
意外と、いやまんまかもしれないが、勝手気まま。

実家の家族には何も伝えずに、今旅行する。
んで飛行機を待っている。

金をかけてもらい育てて貰った。
今、自分で稼いだお金で旅行にいく。

親孝行もしないで、一人旅。
親不孝な私を許してはくれないかもだけど。

胃が痛いときに頭痛薬飲んでもダメなように
今の私に必要な薬を。
得るためにいく。

離陸まであと3時間。

軋む歯車

2007年07月14日 10時21分06秒 | ふと思ったこと
私が「存在」している世界。

職場も
街も
家庭も
恋人も

直接会わなくとも
直接触れなくとも

私が生きている限り、その「世界」で、「私という歯車」が回る回る回り続ける。

鈍く軋みながら
隣を傷つけながら
自分も傷つきながら

万人に平等に流れる時間の中で
私という時間を生きている

角が取れて
いつしか滑らかに時を刻むのだろうか?

でも
軋みこそ
痛みこそ
生きている、関わっている証なのかもね