Wikipediaによると正式な「ドラえもん」最終回には三つのバージョンがあり、一つを除いて単行本には収録されていなかったそうだ。私が小学4年のころリアルタイムで読んだのは、その未収録のうちの一つだった。
つい先日(2009年7月24日)の朝刊全面広告には、藤子・F・不二雄大全集の刊行が始まり、単行本未収録だった最終回が再録されるとあった。忘れられずにいた最終回の最後の1ページが、子どものころの記憶のまま、下の方に小さく載っていた。様々に思いがめぐる。この幻の回が復活する一方、二次創作であるがゆえに表舞台から葬り去られたもう一つの最終回のことを考えずにはいられない。以下の文章は、この「ドラえもん」二つの最終回について、mixi日記で範囲限定公開していた文章に手を加えてまとめ直したものです。
藤子不二雄を「F」とか「A」とかに分けて考えるのに慣れていない。
「オバケのQ太郎」「パーマン」「ウメ星デンカ」「怪物くん」「忍者ハットリくん」などなど、全部リアルタイムの連載読者、またはテレビシリーズ視聴世代である。作品に初めて触れるとき、つまり最も強烈な印象を刻まれるとき、「F」と「A」になんか分かれていなかったから、私にとってはどれも未だに「藤子不二雄」の作品だ。
「ドラえもん」も当然、リアルタイムである。当時は小学館の学習雑誌「小学4年生」を中心に連載されていた。ほぼ学年限定だから3月号(学年の終わる号)で最終回を迎える。私が読んだのはこんな話だ--
鼻歌交じりで家に帰ってきたのび太が、「ドラえもん、また困ったことが起きたんだ」とニコニコしながら呼びかける場面から始まったと記憶している。
のび太が脳天気に帰ってきたとき、セワシ君とドラえもんは、この時代を引き払って未来に帰ろうと相談していた。のび太が何から何までドラえもんに頼るようになってしまい、ますますダメ人間になるのではないかと心配していたからだ。2人はドラえもんが大気汚染の影響で壊れかけていると装い、未来に戻ろうとする。人のいいのび太は身も世もなく心配し、その姿にほだされたドラえもんは「こわれたっていうのはウソだ」と告白してしまう。
当然のび太は怒るが、2人は「きみのためなんだ」と必死に真意を伝える。のび太は結局その説得を受け入れて、ドラえもんなしで生きていくことを決意する。全面広告に小さく掲載されていたのが、その最終の1ページだ。掲載は「小学4年生」1972年3月号。
さて、この最終回から30年以上たった2005年、新しい「ドラえもん最終話」が不幸な形で話題になった。オリジナルのドラえもんのキャラクターや設定を基に、田嶋・T・安恵という別の作者が作った同人誌が異例の売り上げを記録したが、著作権侵害として在庫の廃棄などを求められ、この同人誌は表舞台から姿を消した。
田嶋のストーリーは、インターネット上を流れる作者不詳の「ドラえもん幻の最終回」をベースにしている。元の筋書きはかなりおおざっぱで、これをドラえもん世界の枠組みに固定したのは、田嶋の力量といっていいだろう。こんな内容だ。
ある日、のび太が家に帰ったらドラえもんが動かなくなっている。電池が切れてしまったらしい。未来にいるドラミちゃんと通信すると、とんでもないことが分かる。設計上の問題から、ドラえもんは電池を交換すると記憶が消去される。つまりのび太と過ごした思い出も忘れてしまう。大変な事態だが、頼みのドラミちゃんは何かの妨害にあってタイムトリップできない。しかもドラえもんの設計に関する情報は、すべて厳重に秘匿されている。頼れる相手が誰もいないことを知ったのび太は、ドラえもんを復活させるための超人的な努力を、たった1人で開始する。2人の思い出をよみがえらせるために。
……田嶋のこの作品は、何より藤子不二雄オリジナル最終回の鮮やかな返歌になっている。生前の藤子不二雄が放った問いに、30年以上たって真正面から答えたのが田嶋版と言ってよい(田島がそれを意識していたかどうかは大した問題ではない)。
もともとドラえもんはダメ少年ののび太をマシな大人にするため送り込まれた。だが のび太は逆にますます依存心の強い子どもになってしまう。それを解決するために、ドラえもんは未来に去るというのが72年版の最終回だ。だがこれだと、結局ドラえもんは来ない方がよかったのではないか、あるいは来ても来なくても同じだったのではないかという疑問は消えない。いったい何のために未来からやってきたのかわからない。ドラえもんのジレンマである。
「ドラえもん」は、アジア圏などで大変人気が高いが、アメリカ人の評価は低いという話を何かで読んだことがある。問題を自分で解決させず、何でもかんでも肩代わりしてやるドラえもんは、まるで過保護な親のように子どもをスポイルしているというのが批判の趣旨で、いかにもアメリカ人らしい見方だ。実際「ドラえもん」は、その卓越したファンタジー性の裏側に、この種の矛盾を抱え続けた作品だった。藤子不二雄自身による最終回には、作者のそうした悩みが込められていたとさえ思う。
こうした矛盾の一切合切を、田嶋版は全部受け止めた上で、全く新しい次元に昇華させ、解決する。
そう、ドラえもんは絶対にのび太のもとへ来なければならなかったのだ。かけがえのない時間をのび太と共に過ごし、そして停止するために。そうして、無二の友を救うという神聖な目的に生涯をかける人間へと、のび太を成長させるために。
作者さえ悩ませたであろう設定上のジレンマこそ、ドラえもんが存在する最も崇高な理由だった。田嶋が示して見せたのは、そういう解である。「ドラえもん」という作品に対して、これ以上の「返歌」は想像できない。
これほどの作品が"違法著作物"として扱われていることについて、ここではくだくだしく述べない。許諾を得ていない二次創作は、すぐれていればいるほど、その行く末はしばしば不幸になる。著作権制度とはそういうもので、ここでその批判はしない。だがこの作品は消え去りはしないだろう。制度のジレンマを出し抜いて、それが解決されるときまで、生命をつないでいくと思っている。いやむしろ、それを心から願っている。
※上記の考察には、いくつか裏付けが足りない面があります。藤子・F・不二雄さんが描き継いだ「ドラえもん」の作品数は膨大で、私が読んでいるのは一部に過ぎません。従って、上に書いたようなジレンマについて、原作者が何らかの解決を見出していて、それを私が見落としている可能性は十分残ります。
ただ、初期の「ドラえもん」を連載読者として知っており、とりわけ長く「幻」だった「小学4年生」1972年3月号「最終回」をリアルタイムで体験した者として、「ドラえもん」に関する膨大な議論の上に、上述の点を付け加えておくことは無駄ではないと考えています。幸い、大全集ではこの「幻の最終回」も収録されるので、今日の読者の目からも検討することが可能になるでしょう。本当は、大全集を購入して、自分に記憶違いがないかどうかなどを確認してからこの文章を公開しようと思っていたのですが、さすがというべきか、書店を回っても売り切れのようで、とりあえずアップします。間違いなどがあったら、適宜修正するつもりです。また著作権制度に関するもろもろは、Twitterでつぶやいていると思います。
私見では、とりわけ長編もので顕著なように、藤子・F・不二雄さんはドラえもんの能力すら超える冒険をのび太たちに課し、その困難を克服する過程で、のび太たちの成長を描こうという方向に作品づくりをシフトさせていたように思えます。そのことはしかし、田嶋版の価値を低下させるものではありません。
もし藤子・F・不二雄さんが田島版最終回を読んだとしたら、どんな反応を示したでしょうか。魅力的な問いかけですが、当然答えはありません。多少ともそれを想像する材料になるのは、以下のようなご本人の言葉でしょうか。もちろんこれだけでは、キャラクターを借りた二次創作に対する考え方はわかりません。個々の読者が判断する以外ないでしょう。
つい先日(2009年7月24日)の朝刊全面広告には、藤子・F・不二雄大全集の刊行が始まり、単行本未収録だった最終回が再録されるとあった。忘れられずにいた最終回の最後の1ページが、子どものころの記憶のまま、下の方に小さく載っていた。様々に思いがめぐる。この幻の回が復活する一方、二次創作であるがゆえに表舞台から葬り去られたもう一つの最終回のことを考えずにはいられない。以下の文章は、この「ドラえもん」二つの最終回について、mixi日記で範囲限定公開していた文章に手を加えてまとめ直したものです。
藤子不二雄を「F」とか「A」とかに分けて考えるのに慣れていない。
「オバケのQ太郎」「パーマン」「ウメ星デンカ」「怪物くん」「忍者ハットリくん」などなど、全部リアルタイムの連載読者、またはテレビシリーズ視聴世代である。作品に初めて触れるとき、つまり最も強烈な印象を刻まれるとき、「F」と「A」になんか分かれていなかったから、私にとってはどれも未だに「藤子不二雄」の作品だ。
「ドラえもん」も当然、リアルタイムである。当時は小学館の学習雑誌「小学4年生」を中心に連載されていた。ほぼ学年限定だから3月号(学年の終わる号)で最終回を迎える。私が読んだのはこんな話だ--
鼻歌交じりで家に帰ってきたのび太が、「ドラえもん、また困ったことが起きたんだ」とニコニコしながら呼びかける場面から始まったと記憶している。
のび太が脳天気に帰ってきたとき、セワシ君とドラえもんは、この時代を引き払って未来に帰ろうと相談していた。のび太が何から何までドラえもんに頼るようになってしまい、ますますダメ人間になるのではないかと心配していたからだ。2人はドラえもんが大気汚染の影響で壊れかけていると装い、未来に戻ろうとする。人のいいのび太は身も世もなく心配し、その姿にほだされたドラえもんは「こわれたっていうのはウソだ」と告白してしまう。
当然のび太は怒るが、2人は「きみのためなんだ」と必死に真意を伝える。のび太は結局その説得を受け入れて、ドラえもんなしで生きていくことを決意する。全面広告に小さく掲載されていたのが、その最終の1ページだ。掲載は「小学4年生」1972年3月号。
さて、この最終回から30年以上たった2005年、新しい「ドラえもん最終話」が不幸な形で話題になった。オリジナルのドラえもんのキャラクターや設定を基に、田嶋・T・安恵という別の作者が作った同人誌が異例の売り上げを記録したが、著作権侵害として在庫の廃棄などを求められ、この同人誌は表舞台から姿を消した。
田嶋のストーリーは、インターネット上を流れる作者不詳の「ドラえもん幻の最終回」をベースにしている。元の筋書きはかなりおおざっぱで、これをドラえもん世界の枠組みに固定したのは、田嶋の力量といっていいだろう。こんな内容だ。
ある日、のび太が家に帰ったらドラえもんが動かなくなっている。電池が切れてしまったらしい。未来にいるドラミちゃんと通信すると、とんでもないことが分かる。設計上の問題から、ドラえもんは電池を交換すると記憶が消去される。つまりのび太と過ごした思い出も忘れてしまう。大変な事態だが、頼みのドラミちゃんは何かの妨害にあってタイムトリップできない。しかもドラえもんの設計に関する情報は、すべて厳重に秘匿されている。頼れる相手が誰もいないことを知ったのび太は、ドラえもんを復活させるための超人的な努力を、たった1人で開始する。2人の思い出をよみがえらせるために。
……田嶋のこの作品は、何より藤子不二雄オリジナル最終回の鮮やかな返歌になっている。生前の藤子不二雄が放った問いに、30年以上たって真正面から答えたのが田嶋版と言ってよい(田島がそれを意識していたかどうかは大した問題ではない)。
もともとドラえもんはダメ少年ののび太をマシな大人にするため送り込まれた。だが のび太は逆にますます依存心の強い子どもになってしまう。それを解決するために、ドラえもんは未来に去るというのが72年版の最終回だ。だがこれだと、結局ドラえもんは来ない方がよかったのではないか、あるいは来ても来なくても同じだったのではないかという疑問は消えない。いったい何のために未来からやってきたのかわからない。ドラえもんのジレンマである。
「ドラえもん」は、アジア圏などで大変人気が高いが、アメリカ人の評価は低いという話を何かで読んだことがある。問題を自分で解決させず、何でもかんでも肩代わりしてやるドラえもんは、まるで過保護な親のように子どもをスポイルしているというのが批判の趣旨で、いかにもアメリカ人らしい見方だ。実際「ドラえもん」は、その卓越したファンタジー性の裏側に、この種の矛盾を抱え続けた作品だった。藤子不二雄自身による最終回には、作者のそうした悩みが込められていたとさえ思う。
こうした矛盾の一切合切を、田嶋版は全部受け止めた上で、全く新しい次元に昇華させ、解決する。
そう、ドラえもんは絶対にのび太のもとへ来なければならなかったのだ。かけがえのない時間をのび太と共に過ごし、そして停止するために。そうして、無二の友を救うという神聖な目的に生涯をかける人間へと、のび太を成長させるために。
作者さえ悩ませたであろう設定上のジレンマこそ、ドラえもんが存在する最も崇高な理由だった。田嶋が示して見せたのは、そういう解である。「ドラえもん」という作品に対して、これ以上の「返歌」は想像できない。
これほどの作品が"違法著作物"として扱われていることについて、ここではくだくだしく述べない。許諾を得ていない二次創作は、すぐれていればいるほど、その行く末はしばしば不幸になる。著作権制度とはそういうもので、ここでその批判はしない。だがこの作品は消え去りはしないだろう。制度のジレンマを出し抜いて、それが解決されるときまで、生命をつないでいくと思っている。いやむしろ、それを心から願っている。
※上記の考察には、いくつか裏付けが足りない面があります。藤子・F・不二雄さんが描き継いだ「ドラえもん」の作品数は膨大で、私が読んでいるのは一部に過ぎません。従って、上に書いたようなジレンマについて、原作者が何らかの解決を見出していて、それを私が見落としている可能性は十分残ります。
ただ、初期の「ドラえもん」を連載読者として知っており、とりわけ長く「幻」だった「小学4年生」1972年3月号「最終回」をリアルタイムで体験した者として、「ドラえもん」に関する膨大な議論の上に、上述の点を付け加えておくことは無駄ではないと考えています。幸い、大全集ではこの「幻の最終回」も収録されるので、今日の読者の目からも検討することが可能になるでしょう。本当は、大全集を購入して、自分に記憶違いがないかどうかなどを確認してからこの文章を公開しようと思っていたのですが、さすがというべきか、書店を回っても売り切れのようで、とりあえずアップします。間違いなどがあったら、適宜修正するつもりです。また著作権制度に関するもろもろは、Twitterでつぶやいていると思います。
私見では、とりわけ長編もので顕著なように、藤子・F・不二雄さんはドラえもんの能力すら超える冒険をのび太たちに課し、その困難を克服する過程で、のび太たちの成長を描こうという方向に作品づくりをシフトさせていたように思えます。そのことはしかし、田嶋版の価値を低下させるものではありません。
もし藤子・F・不二雄さんが田島版最終回を読んだとしたら、どんな反応を示したでしょうか。魅力的な問いかけですが、当然答えはありません。多少ともそれを想像する材料になるのは、以下のようなご本人の言葉でしょうか。もちろんこれだけでは、キャラクターを借りた二次創作に対する考え方はわかりません。個々の読者が判断する以外ないでしょう。
「まんがをかく」という作業は、情報やアイディアをいろいろと取り入れ、そしてはき出すということのくりかえしといってよいでしょう。つまり、この世の中に、純粋の創作というものはあり得ないのです。
けっきょく、まんがをかくということは、一言でいえば「再生産」ということになります。
かつてあった文化遺産の再生産を、まんがという形でおこなっているのが「まんが家」なのです。どんどん取りこんで、どんどんはき出していくという、視野を広く持ち、柔軟な考え方をしなければなりません。
けっきょく、まんがをかくということは、一言でいえば「再生産」ということになります。
かつてあった文化遺産の再生産を、まんがという形でおこなっているのが「まんが家」なのです。どんどん取りこんで、どんどんはき出していくという、視野を広く持ち、柔軟な考え方をしなければなりません。
(「藤子・F・不二雄のまんが技法」小学館文庫197ページ)