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「なんと幸いでしょう」 ルカによる福音書1章39節から56節

2014年08月12日 | 牧師日記

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ルカによる福音書1章39節から56節

39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」46そこで、マリアは言った。47「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、50その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。51主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、52権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、53飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。54その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」56マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 

 

天使は結婚前のマリアが救い主を身ごもることを伝えました。信じられないことです。けれどもマリアはそれを受け入れました。「お言葉どおり、この身になりますように」。マリアは神の言葉が実現することを信じました。人間の考えを超えた出来事が自分に起こることを信じました。まさにこれは聖書の信仰ですね。人間の考えを超えた出来事が自分に起こることを信じる。信じるなら、実現する。マリアは神の言葉を受け入れたまさにその時、身ごもったようです。この後マリアはエリサベトのところに行きますが、そこでエリサベトのお腹の中の子どもが喜んで踊るんですね。これはマリアのお腹の中にイエスさまがおられたからです。

そうなりますと、不思議です。マリアは神の言葉を信じて受け入れました。それによって神さまの言葉が実現しました。だとしたら、マリアがエリサベトと会う必要はあるでしょうか。別に会わなくても構わないような気もします。もう神の言葉は実現しているわけですから。けれどもマリアはエリサベトのところに向かうんですね。100キロの道のりです。歩いて4日かかります。その道のりを、マリアは急いで行ったというんですね。

これはマリアが天使の言葉が本当かどうかを確かめたかったということではないと思います。マリアは自分自身に起こることを受け入れたわけですから、マリアはエリサベトが身ごもったということを聞いたとき、その言葉を信じたと思います。エリサベトも自分と同じように、神の言葉を信じて受け入れたのだと考えたはずです。ではどうして遠くまで急いで行ったのかというと、エリサベトと信仰を共にしたかったんだと思います。神の言葉が自分たち自身において同じように実現しているという出来事を分かち合いたかったんだと思います。救いの御業のために、子どもを産むはずのない自分たちが子どもを産むということ、その子どもが救いの御業に用いられるということを分かち合いたかったのだろうと思います。神さまの働きをする仲間が自分の他にもいるということを確かめて、励ましあいたかったのだろうと思います。

そう考えますと、これは教会の交わりと同じではないでしょうか。神さまの働きをする仲間が自分の他にもいるということを確かめて、励ましあう。これは教会の交わりです。マリアとエリサベトは最初の教会の会員であると言えるかもしれません。

マリアとエリサベトの交わりは素晴らしいものになりました。エリサベトは聖霊に満たされてマリアを祝福しました。教会というのは聖霊に満たされて祝福される場所なんですね。神さまがそうさせてくださるわけです。そのようになるように、神さまが事情を整えてくださるんですね。マリアとエリサベトに働きかけてくださったように、私たちにも働きかけてくださるんですね。マリアは神さまの言葉の実現のという点では必要がないはずのしるしを与えていただきました。それで、エリサベトに会いに行った。そうするとエリサベトは聖霊に満たされてマリアを祝福した。教会というのはそういう場所です。神さまの計らいによって、聖霊に満たされる場所、祝福される場所です。

この時、エリサベトはマリアのことを「わたしの主のお母さま」と呼びました。エリサベトは、マリアのお腹の中にいる子どもが救い主であることを知っています。自分のお腹の中の子どもが喜んで踊ったから分かったんですね。ということは、自分の子どもが救い主に先立って働くということも分かっていたことでしょう。神の言葉を信じて受け入れていたということです。

けれどもこの時、エリサベトの夫のザカリアは、神の言葉を信じなかったために話せない、聞こえないという状態にされていました。その妻であるエリサベトがマリアにこう言うんですね。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。この言葉には実感がこもっています。幸いというのは神の言葉が実現することを信じることなんですね。神さまは何も言わずにご自身の業を成すということはありません。神さまは人間に語りかけてくださるんですね。人間をご自分自身と同じように大切に思っておられるからです。だから神さまの御言葉はいつも救いの御言葉です。恵みの御言葉です。その言葉は、私たちが信じる時に実現します。だから、神の言葉の実現を信じる人は幸いなんですね。

そのようにして、マリアとエリサベトは信仰の喜びを分かち合いました。そうするとそこに賛美が生まれたんですね。まさに教会です。教会の交わりです。お互いに励ましあい、慰めあい、支えあい、強めあう。そして、そのような交わりから、賛美が生まれてくる。マリアとエリサベトの姿は、一番古い教会の姿です。

この「マリアの賛歌」は、エリサベトの言った「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」という言葉を受けて語られたものです。「あなたは幸いな人です」と告げられたマリアがそれを受け止めて、「私は幸いな者です」と歌っています。マリアは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌い出しました。この「あがめる」という言葉は、「大きくする」という言葉です。「主を大きくする」ことが「主をあがめる」ことなのです。どのようにして「主を大きくする」のかと言うと、自分を小さくすることによってです。マリアは自分のことを「身分の低い主のはしため」と呼んでいます。「身分の低い」という言葉は、社会的地位を指しているのではありませんでして、「主のはしため」という言葉が後に続いていますから、これは神さまとの関係について言っている言葉です。

神さまと自分の関係は分数で考えると分かりやすいと思います。分母が自分で、分子が神さまです。分子である神さまは一であるとすると、分母の自分が十であれば、数は十分の一になります。これが分母が五になれば五分の一、分母が一になれば一になります。分母が小さいほど数は大きくなります。自分が小さくなればなるほど、神さまは大きくなるのです。

けれどもマリアはここでへりくだっているだけではありません。マリアの賛美は喜びにあふれています。それは、はしために過ぎない自分に神さまが目を留めてくださったからです。逆に言って、神さまが目を留めてくださったことに気づいたからこそ、自分が神の目に、はしために過ぎないということが分かるのだろうと思います。けれども、そのはしために過ぎない自分に神さまが目を留めてくださっているからこそ、そこには喜びがあります。

そして、神さまがこの私に目を留めてくださるということは、神さまがこの私に御業をなしてくださるということです。マリアはそのことを49節で言っていますね。神さまは人においてご自分の御業をなさいます。目を留めて放っておくということはないんですね。神の言葉は人において実現します。

そして、その業はその人だけのものではありません。一人の人から始まって、多くの人に及んでいくんですね。ですからマリアが歌っているのはその自分の幸いだけではありません。50節に「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とあります。神さまの憐れみは時を超えて広がっていくんですね。神さまを信じて神さまに従う人に及んでいくんですね。ですから、マリアだけではなくて、神さまを信じる人は皆、マリアのように「幸いな者」となるということです。「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と言われていますけれども、これはマリアのことが「幸いな者」として記憶されるというだけではありません。今から後、いつの世でも、神さまを信じて神さまに従う人は幸いである、だからこそ、いつの世でもマリアは「幸いな者」と呼ばれるということです。ですから私たちは、マリアと共に幸いな者となるのです。自分ひとりのものではない大きな幸いをマリアは歌っているのです。

ここからマリアは神さまを大きくします。神さまの御業を語ります。神さまの大きな力を語っているわけですが、注目したいのは神さまがどのように人を扱うのかということです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。いろいろなことが言われていますけれども、自分の力に頼る人は引き下げられるということです。神さまに頼る人、神さまに頼るしかない人は引き上げられるということです。自分の力で大きくなろうとする考えを改めて、取るに足りない自分に目を留めてくださる神さまの恵みによって生きることなら、神さまは幸いな者としてくださるということです。

つまり、幸いな者として生きるとは、神さまの憐れみによって生かされる者となることです。50節には「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とあります。54節にも「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」とあります。そして55節には、この憐れみが、神さまの約束の言葉に基づくものであることが語られています。神さまはご自分の御言葉を必ず実現させてくださるということです。ご自分の思いつきでそうなさるのではないということです。神さまはこの憐れみの約束を果たすために、イエス・キリストをこの世に遣わそうとしておられます。マリアはそのために用いられました。用いられることを受け入れました。そこにマリアの幸いがありました。私たちはそのマリアを「幸いな者」と呼びます。そして私たちも、イエス・キリストによって実現した神の憐れみによって生かされて、そのために用いられていくことによって、「幸いな者」となるのです。いえ、私たちは、現に神の憐れみによって生かされています。現に神の業のために用いられています。だからこそ、マリアを「幸いな者」と呼ぶことができるのです。

ですから、この時マリアとエリサベトだけが味わった喜びは、この二人だけのものではありません。この時、マリアのお腹の中にはイエス・キリストがおられました。それは今の私たちも同じです。救い主が私たちの間におられます。マリアのように、私たちのお腹の中にではないかもしれませんが、私たちの交わりの間にイエス・キリストがおられます。私たちの交わりの間におられるのです。教会とはそういうところです。この教会の中で、私たちは、イエス・キリストにあって聖霊に満たされ、祝福されるのです。今ここで起こっていることはそういう出来事なのです。


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