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今から1650年前頃 三韓征伐神功皇后→応神天皇 王仁とは違う これは和邇と読むトーナイ古代史メモ

2016-07-17 11:16:21 | 経済と古代史 金属の歴史の含有した物
神功皇后(おきなが たらし姫)三韓征伐
Jinnguu皇后 推定西暦年代 333-389年?
15代応神oujinn天皇の母親で仲哀tyuuai 
神功皇后は 14代天皇のお后
16代天皇は仁徳天皇ninntoku
 
日本書記では 作者が神功皇后と卑弥呼を同一人物に見せたかったのかも知れないが 年代が違う
 
宮内庁の資料は 継体天皇以前のものの年代は不正確である と 書いてあるモノも見た
大正時代までは(約100年前) 宮内庁では 第十五代天皇は神功皇后であったようです(在位201-269 大正時代までの記録では)
41代までの天皇の在位年は日本書記を世襲していたから仕方ない
 
神宮皇后の時代に 百済から 七支刀が贈られている
しっかりした 研究をされているかたのモノを読めば どうも 西暦372-386年頃に七支刀は 石上神宮に来た
***ウイキより()
(日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。紀年論によるとこの年が372年にあたり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている)
 
この時七支刀と同時に奉られた七子鏡は、ボストン美術館に所蔵されている銅鏡ではないかとする説
この鏡は、鏡背の主文様帯に乳(円形の突起)が7つあり、七子鏡の名称に相応しいという。
これらの遺物は、1875(明治8年)大雨で崩れた大仙陵古墳(仁徳天皇陵)から出土したものと伝えられ、ボストン美術館には銅鏡、環頭大刀など5点が収蔵されている
鏡は細線式獣帯鏡で、青龍白虎玄武朱雀などの霊獣を細線で表しており、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済武寧王から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。
 
百済の使である久氐(くてい)らが、千熊長彦の引率で来倭し
七枝刀(ななつさやのたち)、七子鏡(ななつこのかがみ)、および種々の重宝を倭国へ奉った。そして『臣(百済)の西に河があり、水源は谷那(こくな)の鉄山(かねのむれ)から出ています。遠く、七日間でも到着できません。この河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすら聖朝(ひじりのみかど)に奉ります』と言った。
この百済の外交は、倭国と百済が水平的な関係にあったとしたうえで、百済による刀献上外交によって、中国南朝と百済と加耶諸国と倭王の南方外交ラインが形成され、6世紀初頭までこのラインが存続したとしている
 
 
七支刀には 日本での初の漢字になるんかな~
文字が刻まれています
この七支刀は 最初は 岡山県の石上神宮(布都霊)にあった・・その後 天理市の石上神宮に移動した
 
西暦400年より 少し前の時代 今から1640年ほども前の頃
その頃の倭人は船を操り 朝鮮半島で 武力も使って 恐がられもしたと思う
鉄が 朝鮮半島南部で採れたこともあるだろう
 
まあ しかし 第26代の継体天皇も 何代も遡って
この 神宮皇后のお子様 応神天皇からの血を 繋いだのだ
 
15代応神から 26代の 大阪府高槻市 茨木市に御陵がある継体天皇が その血を繋いだ
 
かなり無理はあるかも知れないが 日本の王家は血が繋がっている 超古代から繋がっている と せんと あかん
 
大阪の住吉大社も この神功皇后に深く関わっている
宇佐八幡も 深く 関わる
岡山県でいうたら 備前の海のところの 牛窓神社がご縁深い
壱岐ikiの伝説も 興味深い 神宮皇后の関係が深い
 
ちなみに神功皇后の母親は 
新羅の王子 アメノヒボコ天日矛
のやしゃご 玄孫である
アメノヒボコは 但馬守 田島モリ の金属の関係
 
その神功皇后のお子 応神は王仁とは 違う
王仁 は ワニ と読む
応神天皇の時代に 中国系 学者が百済から
応神天皇が招聘して渡来した
大阪府枚方市に墓がある
しかし この王仁 は 在日朝鮮の人たちに 何かと利用されることも あるので 日本人は なるべく話題にしない
 
和邇 王仁 
日本書紀
王仁に関するもっとも詳細な記述は日本書紀のものであり、百済からの使者阿直岐(あちき)を介して、来朝したという。
『日本書紀』 巻第十(応神紀)
原文
現代語訳
十五年秋八月壬戌丁卯、百濟王遣阿直岐、貢良馬二匹。即養於輕阪上廄。因以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰廄阪也。阿直岐亦能讀經典。及太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰、如勝汝博士亦有耶。對曰、有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者阿直岐史之始祖也。
十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之、習諸典籍於王仁莫不通達。所謂王仁者 是書首等始祖也。
十五年(404年)秋八月、壬戌朔の丁卯(6日)に、百済王は阿直岐を遣わして、良馬二匹を貢いだ。そこで、軽(現在の奈良県橿原市大軽町の辺り)の坂の上の厩で飼わせた。そうして阿直岐に任せて飼わせた。それゆえ、その馬を飼った所を名付けて厩坂という。阿直岐はまた、経典をよく読んだ。それで、太子菟道稚郎は、阿直岐を師とされた。ここに、〔応神〕天皇は阿直岐に問うて言われた。「もしや、お前に勝る学者は他にいるのか」。答えて言った。「王仁という人がいます。すぐれた人です」。そこで上毛野君(かみつけのきみ)の先祖である荒田別(あらたわけ)と巫別(かんなぎわけ)を百済に遣わせ、王仁を召しださせた。その阿直岐は、阿直岐史(あちきのふびと)の始祖である。
十六年春二月、王仁は参った。そこで菟道稚郎子は王仁を師とされ、もろもろの典籍を王仁から習われ、精通していないものは何もないようになった。いわゆる王仁は、書首(ふみのおびと)らの始祖である。
 
古事記
『古事記』(中巻・応神天皇二十年己酉)
原文
現代語訳
又、科賜百濟國、若有賢人者、貢上。故受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十卷・千字文一卷、并十一卷、付是人即貢進。〔此和邇吉師者、文首等祖〕
天皇はまた百済国に「もし賢人がいるのであれば、献上せよ」と仰せになった。それで、その命を受けて〔百済が〕献上した人の名は和邇吉師(わにきし)という。『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を、この人に附けて献上した。〔この和邇吉師が、文首(ふみのおびと)の始祖である〕
和邇吉師によって『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。
『論語』は註解書を含めて10巻と考えればおかしくはないが、『千字文』は和邇吉師の生存時はまだ編集されておらず、この記述から和邇吉師の実在には疑問符がつけられることも少なくない
帰化した複数の帰化人学者が、『古事記』編纂の際にひとりの存在にまとめられたのではないかとされる説もある。
続日本紀
続日本紀』によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが先祖の
王仁は皇帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。
『続日本紀』巻第四十 桓武天皇 延暦十年(791年)四月戊戌
原文
訓読
○戊戌、左大史正六位上文忌寸最弟・播磨少目正八位上武生連真象等言、文忌寸等、元有二家。東文称直、西文号首。相比行事、其来遠焉。今、東文挙家、既登宿禰、西文漏恩、猶沈忌寸。最弟等、幸逢明時、不曲察、歴代之後、申理尤由。伏望、同賜栄号、永貽孫謀。有勅、責其本系。最弟等言、漢高帝之後曰鸞。々之後、王狗、転至百済。百済久素王時、聖朝遣使、徴召文人。久素王、即以狗孫王仁貢焉。是文・武生等之祖也。於是、最弟及真象等八人、賜姓宿禰

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