自分なりの秦氏の追っかけ 古代史 秦河勝 聖徳太子のブレーン
514は龍野市を散策 銅相場東内
古代より 住み着いた渡来人 秦氏 の ことの 畿内での転居の流れが少し見えてきた
400年代 奈良県 葛野辺りには多くの渡来系が住んでいたが、
大王家にも嫁を何代にも入れていた葛城氏
葛城くず き しろ 氏 だったが(現代でも 葛城市という市がある)
蘇我氏の出現した時代 か その前かな?
葛城氏が 滅びる?
蘇我氏は 葛城氏の一派かも 知れない としても?
後に 葛城氏が滅ぶと
渡来人たちを 畿内と その周辺各地に移住させる政策がとられたようだ
秦氏は 京都 山背 の深草 地区に移住させられた
その後 西暦では550年以降か600年手前ごろなのか
山背付近(現在の京都 太秦)を開拓し、大いに栄えるようになる
その時の部族長が(秦河勝) だった
奈良県の葛野と 京都の太秦周辺までの渡来人を
秦河勝は影響下においたと思われる
秦河勝は 聖徳太子の金主というか ブレーン だった
蘇我氏の一族だった 聖徳太子がなんで蘇我氏に滅ぼされたのかは解らないが
聖徳太子が亡くなった後の時代では
秦河勝は どうも時の政権とは うまく行かなかった
そんな事もあって 50歳前後の年齢だっただろうか
現在の兵庫県に西の端 赤穂か たつの市 辺りに舟で逃れてきて すみ付いた
元々は その時代では 赤穂市は 巨大な古代国家
吉備の国の一部であっただろう
なんで 秦河勝が 備前 赤穂 美作 佐用 辺りの河口付近に 逃げてきたかというと
元々 その岡山県には 渡来人 秦氏の同族が多く暮らしていたということがあった
そんで 80歳過ぎまでも その周辺から 川に沿って
奥へと開拓を進めていったのではなかろうか
千種川 吉井川 揖保川 周辺に それを強く感じる
5/14は 兵庫県 たつの市 の 野見宿禰
の ご縁の 龍野市の
山で 揖保の糸のそうめん を 食って
そんな空想をしていた
この街は 東 に ○ の街で ヒガシマル醤油で有名 揖保の糸 そうめん でも 有名
宿禰の そうめん は 実に旨い が
店の店員が不足で 玄関で1時間待たされ
店に入って そうめん が出るまでに
40分も 待たされ たが
野見の宿禰の ご縁の 食堂ということで 我慢した
この たつの市も 歴史の深い街だねえ
東 まる 醤油の 元祖は もしかして 秦氏系 かも 知れんなあ
京都にも オオサケ神社がありますが
この播州の 大避 神社 ダビデの像 仮面も残る
大避 が 元祖かも 知れん
現代でも瀬戸内 赤穂市かな 秦河勝を祀る 沖合いに 島があり
この島は 神様の島で 入る事は許されない
㈱トーナイ 東内誠 東丸醤油と同じ 東、
東儀氏 とも 同じ 東
さあ、今朝は少し早く出て 空港に6時過ぎには到着せんとあかんから この辺で
|