天武天皇は蘇我氏の系統で 秦氏で出雲系であり
神功皇后とも繋がる
新羅=天武系
壬申の乱の時代の辺りを調べていると どうも解読が困難だが
結論としては 『 』の中は 他人様の書いたものだが、そのようだ。
『百済人:藤原鎌足を始祖とする藤原不比等 が編集した 日本書紀では、
これを隠すために、同一人物を善人(聖徳太子)と悪人(蘇我入鹿)と言う二つに分けて、
蘇我氏(聖徳太子)の業績(行政改革)を隠蔽し、業績は自分が横取りしたらしい。
蘇我氏は、出雲王朝系なので、地理的に新羅に近かったのではないだろうか。
朝鮮でも百済と新羅は仲が悪かった(現在も続いている)が、
日本でも九州王朝(百済系)と出雲王朝(新羅系)の対立があり、朝鮮における対立に呼応している』
万世一系 ということも あり あんまり書いたらアカンのだが・・・
天武天皇は 蘇我氏の子ども 東漢氏の家来が お傍におり 補佐した と思う
藤原不比等が世に出てくるのが 天武天皇の死686年 以後のこと
それまでの期間 中臣の一族は 壬申の乱での 天武への敵側であり 干されていた
天武が亡くなり 天武の皇后の持統天皇が即位し その頃から不比等は世に出てくる
701年に大宝律令ができるが、それを仕切ったのは
多分 藤原不比等
720年日本書紀も 不比等が編集に関係した 720年は不比等の没年でもある
平安京を開いた 天智天皇系が 50代桓武天皇が
40代~49代の天武系天皇の
天皇家の仏壇に位牌を寺に祀らない ということでも はっきり している
天武(蘇我氏 新羅)の時代は おおよそ100年程か・・
石舞台古墳とか 高松塚古墳の 壁画・・・
天樫の丘
そやな~ ワシらの 吉備の国にも 西暦555年頃 馬に乗って 岡山県の片田舎に
蘇我氏のボスが 示現した 記録が残っています
王家か? 蘇我氏の直轄地にした
それを 屯倉の設置という
ワシの里の辺は 白猪の屯倉みやけ555年 という名前を 付けている
猪は 秦氏のことを指すのか
猪は 物部氏を指すのか 解らんな
ワシらの里は 奈良県明日香と 出雲を結ぶ というか
難波の宮と 出雲を結ぶ 出雲街道の丁度中間点辺り
ワシの先祖が 東漢氏系の渡来人という 可能性もある と 思うわ
天智と天武 血の流れは どうなったのかは 確実には 解らないが
天智は 百済を支援して 百済に 白村江の戦いで援軍を送って
日本は敗退した
唐 新羅の連合軍に ぼろくそ 負けてしまった
そんでな 天武は 天智の弟という事になっているのですが
実は 天武天皇のほうが お年が かなり 上 みたい なのです
藤原不比等様が 権力を持った時 けっこうに 歴史を書き換えた可能性は高い
今朝は 壬申の乱 大化の改新 大宝律令 藤原不比等 蘇我氏 555年から720年周辺の時代
天智の弟の 天武天皇は 天智より 歳がかなり 上という 矛盾した 日本史を考えてみた
この月は 天皇陛下から 詔が下された事もあり
古代史は知らねば その判断も 出来ない
天武天皇の時代から この度 天皇陛下が口に出された モガリ という儀式も始まった可能性があると考えている トーナイ 東内誠
天皇とよぶのも 天武からの可能性もあるかも知れない
(確信はない)
現在の天皇は 天智天皇の直系だと思う
男子一系統で 繋がっておられる
神武初代天皇からの説明は 困難だが 天智からは固い
母系では 蘇我氏とも繋がり 聖徳太子とも繋がる
長男が その家を 100代も継ぐということは奇跡に近い
ご皇室は 絶対に 途絶えてはならない
何故か その説明は ワシのような
無学な者では無理である
しきたり 言伝え 決りごと なのじゃ