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続 神等去出祭     小早川錦棕櫚

2021-05-10 19:02:22 | 物語

続 神等去出祭     小早川錦棕櫚

 出雲大社の御祭神は大國主命で(福の神、縁結びの神)と称へている。「福の神」と申し上げるのは出雲風土記に「五百と神鋤とり取らして」とある。つまり、命が平和産業における生産と消費の開拓神としての由緒によるものではあるまいか。

 「縁結びの神」と申し上げる俗言は相当後世の発生らしいが、これは旧暦十月に日本國中の神々が出雲大社と佐太神社に参集して翌年の神事を神義り給ふ、いわば之は地方長官会議だが、この席上で日本國中の男女配偶者を会議遊ばすとの伝説によるものである。

 しかし、この俗言も決して単なる宗教的観念として止まるものでなく、現実の祭典形式として出雲大社や佐太神社では毎年とり行われている。

 即ち他國では旧暦十月の異名を「神無月」に反し、出雲の一國では特に旧暦十月を「神在月」称へ、出雲大社では十一日から十七日まで、佐太神社では二十日から二十六日迄、厳かに神在祭が執行され、御散会の祭典としては、神々が去り給ふの意から出た「神等去出祭」が行われる。

 神在祭を中心とする伝説と現実の結びつきはこれに止まらない。神々たちが会議を遊ばされるという旧暦十月十一日から十七日までと二十日からから二十六日迄を「お忌み祭」と称して佐太神社の御祭神である大母祖の伊弉冉尊お祖先祭であるが故に、出雲大社と佐太神社は勿論、出雲國全般にわたって歌舞音曲を御遠慮申し上げている。神々のお会議のお邪魔になってはならぬお忌みごとである。

 歌舞音曲ばかりでなく、鎚、鑿の音を発することの木工等も中止され、昔は大工さんがこの「お忌み祭」の間は全く休業したといわれている。出雲大社や佐太神社では現在でもこのお祭りの期間は一切の神楽神事は喧騒にあたるとて執行されない事になっておる。

 かくて、出雲の「神在祭」は完全なる音響統制のうちに行われるわけである。

 なほ、「神等去出祭」の当夜、出雲の人々は戸外への外出を極力差し控えて静かにこの一夜を送る事にしている。

 これは、日本國中八百万の神々が御出発のため大勢通行遊ばされるから、それと知らずに路上で突き当たっては恐れおおいとの一種の伝説である。

 しかし、神話伝説が現実の庶民生活の上に大きな支配力を持っている。こうした習慣の数々を単に根底のなき逆信すべきでない。むしろ、そこに我らは民俗学上の興味深き資料の内容を見るべきではなかろかと思う。

                                                   おわり


神等去出祭     小早川錦棕梠

2021-05-10 07:21:56 | 物語

神等去出祭       小早川錦棕梠

 大八洲を生み給ふ「伊弉冉尊」は出雲國佐太の里に御鎮座ましました。これが即ち、八束郡佐太村の佐太神社(神在社)、御祭神が「伊弉冉」で夫神「伊弉諾尊」を祀られたのは後世である。

 この御祭神「伊弉冉尊」は佐太神社で十月御崩御になったので、日本國中、八百万の神様は大母祖神のお忌みにあわれたのである。

 俗界に於いても祖先の年忌御法要を行うと等しく、神界に於かせられても大母祖神「伊弉冉尊」の御祥月である十月に、毎年、佐太神社へ日本國中の八百万の神様がお集ひになって、祖先祭をお営みなさるのが、「お忌み祭」(神等去出祭)である。

 陰暦十月十一日から十七日までを「上のお忌み祭」(小神等去出)と称え、二十日から二十六日までを「下のお忌み祭(大神等去出)として祭典を行われていたが、室町時代に十月十八日に「神来祭(かみこさい)を行われて以来、佐太神社にては「下のお忌み祭」を大切にする様になり、明治の中期から遂に「下のお忌み際」だけ行われている。

 二十日神迎ひの神事には佐太神社、社前に注連縄を張りめぐらして浄めの湯立てが焚かれる。

 日本國中八百万の神々は無数の篠舟(ささふね)に乗って佐太浦(江角浦)に上陸し恵曇神社で休憩され、其の日の夕方、佐太神社(神在社)に着かれる。

 日本國中八百万の神々を迎へられた佐太神社では、大母伊弉冉尊の祖先祭の「お忌み際」であるが故に、総てのお祭り騒ぎを厳禁して、至極静かに行われるが、単にこの神社のみでなく、出雲國全体が謹慎の意を表した御祭典である。

 陸上にあらせられる日本國の神々は、神在社にお集ひ給ふのであるが、海上の神々さまはお集ひなく、龍蛇を以て代参させられるのである。

 陰暦十月にもなれば、季節的にお忌み荒れは続く。このお忌み荒れが凪ぐと必ず佐太七浦の何れにか、長さ一尺余り、背に亀甲、輪違ひの紋(佐太神社の神紋)のある龍蛇が着く。之を発見した浦人は、藻草を敷いた清らかな器を龍蛇の前におく、龍蛇はこの器に上がりて蜷局(とぐろ)を巻いて静まるので、之を佐太神社に献上する。

 神社では陸と海との神々が集ひ給ふのであるから、六日間厳かに神事が挙げられるが、二十五日の深更に沙汰神社では注連口(しめのくち)の神事とて、かねて社前に張られてあった注連縄を切りとられ、二十六日早朝に神社の乾の方の神目山(かんめやま)に於いて神等去出の神事が行われ、お集ひになっていた八百万の神々は帰國の途につかれる。

 大母伊弉冉尊お忌み祭の土産として、神々は楢葉百枚、へうそかづら百根づつを頂くかれ、榊で飾られた十五艘の舟で佐太浦から御出発になり、島根郡の多賀神社、神戸郡の万九千神社、秋鹿郡の高宮神社などで御休憩なされて、各々のお國へお帰りになる。

 この日、出雲國中の在家では神在餅(神等去出餅)とて小豆を用ひた餅を搗いて神前に供えて頂く習慣になっている。これが今は善哉餅(ぜんざいもち)と言はれている。

 これは、私が幼い頃、父から聞かされていた神等去出祭の伝説である。

 ところが、現今、多くの書物、就中俳句の歳時記などを読むと、神等去出祭はその起因をなした佐太神社の祭典としては見えず、専ら出雲大社(杵築大社)の縁結び祭に改められているかの如くであるのは、いつの頃より始まったものか詳らかならぬ。

 しかし、何れにしても、出雲は神國として神在月(神有月)の神等去出祭(お忌み祭)の行事を永遠にわすれられないであろう。


神等去出祭       小早川錦棕梠

2021-05-10 06:21:18 | 物語

はしがき

 私が子供の時分に、父や母から、毎年旧十月になると、「カラサデババが来るから行儀よくしなさい。」と教へられていた。

 そのカラサデババさんは、どんな方であるか目に見えず。さっぱり物事がわからずに、只、行儀よくすることに努めていた。

 俳句を作るようになってから、神等去出(お斐忌み祭)とは、出雲國特有の季題であることを知ったので、私は「神等去出」の句によって俳句に活きることを決心した。

 いろいろ歳時記をあさって見たが、「神集め」「神送」「神迎」「神の旅」「神の留守」神返り」「大社の神事」「神在月」などはあるが、「神等去出」はない。けれど、私は出雲俳人であるが故に、「神等去出」を季題として多くの句を詠んできた。

 「獺祭」の吉田冬葉先生は出雲の旅をしておられたから、「神等去出」由来を知っておられたが、「虎落笛」の中村素山、「みどり」の松本翠影の両氏は「神等去出」の説明を求めて来たので、この稿を草することにした。

 これは私が、幼い頃に父から教わっていたことを綴った。

 しかし、公にするとすれば間違いを生んではならぬので、八束郡佐太村の佐太神社宮司、朝山皓先生の閲を得た。

 朝山先生は「これだけ精しい神話伝説を知っておられたあなたのお父上は相当にえらいお方であったでしょう」との賛辞を頂いたので、「虎落笛」「みどり」に発表した。

 また、細木芒角星先生からは、改造社出版の「歳時記」による記事を知らせて頂いたので、其の記事を巻末に加えておく。

       昭和三十一年大神等去出日


霊木金言寺銀杏樹物語 十五  小早川錦棕梠

2021-05-08 07:39:42 | 物語

 明けくれば藩から出張つた役人が杣の棟梁政兵衛と其の子分をあまた引き具

にしてやって来た。何物かの豫感があったらしく、住職の顔は青ざめ、念珠持

つ手は戦いていた。本堂正面に端座して瞑目しながら頻りに御題目を唱えてい

た。

 第一の鉞を杣がふるった時、カチンと弾けた音がして鉞の柄が折れた餘勢で

杣が尻餅を搗いた。あまりの不思議に第二、第三の杣は申し合わせた様に御題

目を唱え出した。役人の機転で住職日恵師に引導をわたさせ、それから鉞を入

れ出したが、今度は怪異なく四日目に漸く切りはなした。樹木の倒れ伏す時、

古猿が一疋枝葉の中より棟梁政兵衛の頭上にとび落ちた。そして、樹木の倒れ

る響きは遠雷の如く響き渡り、三日三夜さが間其の餘韻は馬木の山野をこめて

いた。

 此の銀杏樹の切口の広さは實に疊四疊半敷きに餘り、不思議なことには切口

から鮮血如き液汁が流れ出で、三日目にして切株の中央から、又、芽を出し、

以前にまして繁茂し十数年を出ざるに高さ数丈に達する巨木となり、漸次、枝

葉いや栄え来、現在、樹周約三丈、高さ十丈あり、地上より約三間上部に長さ

七寸、直径二寸位の澱粉質の凝結とみとめられる乳房二箇を有し地上との接続

地點に帯をなしたが如く見ゆるのは先代の古株と現樹の接続したあとを物語る

ものである。今に至るも霊験いやちこに、四時賽客絶えず、善男善女の崇敬の

的となって居る。

                                おわり

            双嶽に背く寺あり秋の晴

            銀杏聳えて寺古めける紅葉かな

            銀杏樹に棚たてまつる小春寺

 

                    昭和二十八年一月二十二日 清書

 


霊木金言寺銀杏樹物語 十四   小早川錦棕梠

2021-05-07 06:22:38 | 物語

 然るに、今から二百余年前、藩主に新殿築造の工を起こしたが棟木となすべき

適材が見当たらないため、御普請方では下役を領内各地へ出して物色せしめた。

その時、此の金言寺の銀杏の御神木こそ相応しいと云ふに衆議一致し之を伐採す

る事になった。俗に國主の七光りと云はれた事ほど左様に権威のあった時代であ

るから貞心尼を主にした数百年来庶民に霊験をうたはれた大銀杏、明日は伐らね

ばならぬ。時の住職大圓坊日恵の曇った顔には一宗一派の誇りとした此の大銀杏

の壮観が消えて、米櫃がなくなると云ふ事はたへられぬ苦痛であった。嘆願もし

て見た、出来るだけの手段は行ってみた。然し、夫れは皆、絶望であった。

 仰ぎ見る住職の目には思ひなしか、銀杏の梢が風もないのにゆれて動き、何だ

かめそめそと泣く様な気がした。

                                 つづく