戦国大百科

戦国時代を徹底的に語る

井伊直政・松平忠吉陣跡

2005-10-01 18:58:55 | Weblog
JR関ヶ原駅の出口は南口のロータリーしかありませんが駅の北側のすぐ近くに井伊直政・松平忠吉陣跡がありました。
関ヶ原町の観光案内が行き届いていたのは各武将の陣跡に各武将の幟をかかげていたので、ここに陣が敷かれていたのだと良く分かります。
迎撃した西軍は陣に踏みとどまって応戦していましたが、基本的に東軍は動き回っていたので戦況次第で当然陣は動いています。
附近の建物とかで遠望は不可能でしたが、井伊・松平隊が東軍先鋒の福島隊を差し置いて西軍の前に出て発砲したことから戦は始まったのです。
戦時中は井伊隊は北天満山の小西陣を襲ったと言われています。
戦後敵中突破を試みた島津を追って伊勢街道へ逃れる烏頭坂で島津豊久隊と激戦をしました。
この際、井伊直政は深手の重傷を負って附近の民家に担がれたとのことです。
井伊直政は戦功として近江佐和山を賜りますがこの古傷がもとで数年で死去します。
徳川最強の部隊とされた井伊でしたが、高齢だった家康の後継ぎは四男の忠吉を押しており、関ヶ原での一番槍の評価もあって豊臣系武将からの推薦も高かったのは事実でした。
しかし、家康は忠吉を清洲城主として丁重に評価しました。そんな忠吉自身も関ヶ原の古傷から数年後に死去しています。