シャーマンの呼吸

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シャーマンの弟子

『解離の特性を生かし、あるキャラクターの意識を演じることによって、身体感覚を変容させる試み』その2

2024-04-09 00:00:00 | アイツ

 

わたしは、日常を楽に過ごすために、『役』を演じるということを実践している。

 

鬱々とした『ワタシ』の意識を切り替えるための手段として、『健康なキャラクター』を演じるのである。

それにより、身体の状態を楽に変化させるのが目的だ。

 

 

 

アイツについて、もう少し深掘りし、言葉にしてみようと思う。

 

 

ヤツは人を避けない。

人を怖がる『ワタシ』と違って。

むしろ、自ら近寄っていくタイプだ。

声をかけられちゃ、立ち止まるだけじゃなく、そこに歩み寄っていく。

 

「何してんのー? なんかオモシロイもんでもあったァ?」

「どしたー? なんかあったのかァ?」

 

ヤツは、他人に興味があるのだろう。

さらに、他人を気にかける余白もある。

 

たぶん、自分自身のことをテキトーに横に置いているからだと思う。

良くも悪くも、自分のことはさておくとして……という感じだからだ。

 

 

 

『ワタシ』は、自分のことで手一杯なんだと感じた。

いつもしょうもない悩みをたくさんたくさん抱え込んでいて、他人に興味を持つ余裕がないんだ。

 

アイツは、日常の些細なことで、いちいちシリアスにならない。

ワタシは、日常の些細なことで、いちいちシリアスになる。

 

 

 

 

ヤツが、自分自身の不安や悩みをネチネチ引きずらないのは、どうしてか。

 

単純に、純粋に、『目の前にいる人たちの生活の営みを眺めるのが心地いいから』なのではないか。

前の記事にも書いたが、ヤツは戦争を経験している。

目の前の景色が平和ならば、もうそれだけでいいくらいなのだ。

……本当に、その通りだ。

 

 

しかし、もっと深く探り、言い方を変えれば、ヤツは自分自身に無頓着ということでもあるだろう。

それは、どうしてか。

……戦争・過去の己について、触れたくないトラウマがあるからだ。

自分についての感覚が、一部麻痺しているのかもしれない。

ケアできるような状態ですらないのかもしれない。

 

それでも。

今日の平日にちゃんと目を向けて生きているヤツは、前向きなのだと思う。

平和を、平和と感じ、守るべきと認識しているのだから。

 

ワタシと違って、無関心にも自暴自棄にもなってない。

ワタシが、「人間が怖い」のは、意識が退行してしまうからだ。

「目の前の平和な現実を、ただ見つめる」ということができない。

どうしても、過去の意識に引きずられて、「攻撃されるんじゃないか」「傷つけられるんじゃないか」と勝手に怯えてしまうのだ。

 

 

でも、戦いは終わった。

 

ヤツは無気力ながらも、耐えて、持ち堪えて、生きている。

 

 

目の前の人々が平和に暮らしているのであれば、自分自身の悩みはどうしたってソレ以下のしょーもないもんだとわかるから、構いやしないのだ。

 

ただし、いやだからこそ、「自分を含めた目の前の平和」を守ろるために、ここぞと、身体が動いちまう。

だって、もう二度と失うのは御免なのだ。

その原動力・価値観は、『国という概念』よりも、『時代という正当化』よりも、『目の前の平和』を守るための、生き様。

 

生命力が強い、と形容して憚らない。

ワタシとしては、ひとことでまとめてしまいたくはないのだが、それを押しても「生命力が強い」という感じが強くある。

 

 

 

 

嗚呼、きっと。

ヤツの生命力は、ワタシにとって、よきヒントなのだろう。

 

 

 

そんなヤツの意識については、ワタシの所感だけにとどまらなかった。

ヤツの意識で散歩していると、現実の人間関係もそのように動いたのである。

 

いつもすれ違うだけの人に、「おはようございます」と声が出たワタシの身体。

いつも挨拶だけしてすれ違う人と、「あのさ」なんて立ち話をしたこの身体。

 

 

 

清々しかったよ、ソイツの意識。

 

 

傷跡を抱えながら、目の前の平和を愛し、それを守ろうとするヤツの意識。

 

生命力。

 

 

 


『解離の特性を生かし、あるキャラクターの意識を演じることによって、身体感覚を変容させる試み』その1

2024-04-08 00:00:00 | アイツ

【新キャラの役作り・その1】

 

わたしは、日常を楽に過ごすために、『役』を演じるということを実践している。

解離でブッ飛んでいた頃と比べて、『演じる』ことも『役』も自覚的に感覚できるようになってきた。

(自己否定や現実逃避の度合いが下がったので、だいぶ安全に演じられるようになった)

 

鬱々とした『わたし』の意識が入った身体は、緊張や疲労でバキバキの状態が癖になっている。

だから、『健康なキャラクター』の意識を身体に入れて、身体の状態を楽に変化させるのである。

 

そのために練ってある『役』が、ふたりいる。さらに、補助的に、もうふたり、いる。

最近、そこに『新キャラ』が浮かんできて、ソイツがとてもいい仕事をするのである。

今日は、ソイツについて書こうと思う。

 

無論、身体のケアを自分自身で丁寧にすることが大前提である。

 

 

 

ソイツは、どちらかというと、めちゃくちゃなヤツにしか見えなかった。

いいかげんで、下品で、だらしないヤツだと思っていた。

 

でも、ふとした拍子に、その役に入ってしまった夜があった。

すると、ヤツは、なんとも大きな『安心感』の持ち主なのであった。

 

「夜なんだから、もう寝ようぜ」

「メシくらい、ゆっくり食わせろよ」

「風呂なんだから、まったりしようや」

 

無気力っぽい声で、至極真っ当なコトを考える。

ヤツでいると、身体の力がどんどん抜けていく。

『わたし』に欠けた感覚を、ごく自然に持つ人物なのだった。

 

 

 

ヤツの根源は、「目の前が平和である」という、安心感なのだと思う。

言い換えれば、「目の前が戦場ではない」という、ホッとした脱力感だ。

そう、ヤツは戦争を経験している。

それは、「わたしの世界の戦争」の経験と、気持ちよく同調するのであった。

 

ヤツは、大切なものを失くした哀しみがあるから、「積極的に元気に生きよう」とは思わないし。

金欠だし、仕事も全然ないし、やる気もないし、やりたいこともないし。

過去も今も引きずってるものが、結構いろいろあるし。

 

でも、大好きなイチゴ牛乳を飲んで。

毎日フラフラなんとなく生きて。

 

今、目の前に、食えるメシがある有り難さとか。

布団で眠れるあったかさとか。

面倒くさい人間がそばに居る愛おしさとか。

 

それがどんなに大切で尊いものか、儚いものなのかを知ってしまっている。

 

戦場じゃない今日は、身体にとって、圧倒的な安心感をもたらしている。

 

 

わたしの、今日の平和は果たして幸せなのかという思考・疑問なんてものは薄っぺらくて。

ヤツの、ただ「生きているな」という実感が、たとえどんな哀しみの伴ったものであったとしても、どうしたって心地いい。

 

これは、文字列の不幸との比較による相対的な幸せの感覚ではなくて。

経験したから感じられる絶対的な幸せの感覚、と表現した方がいい気がしていて。

だって、風が吹いて、空が青くて、草が揺れている。

なんて平和な景色。

それを前にしては、ただただ安心感が身体を満たしていくのである。

 

 

『わたし』のちっぽけな不安や悩みなど、ヤツにとっては、まさしく「どーでもいい」のだ。

重低音のように安心した身体感覚にとって、『わたし』の心配など軽すぎて消し飛んでしまうだけだ。

 

 

で。

ヤツは、べつにやることもやりたいこともないからぐうたらするだけなんだが。

それができる今日があまりにも平和で、ただただ身体がホッとするのだ。

 

 

 


丹田に愛を

2024-04-07 00:00:00 | 仮説・プロセス

 

【丹田に愛を】


原キョウコさんのエナジーエナジーダンス合宿の際に、たどり着いた感覚。
これから記すのは、「丹田にイチゴ牛乳」と思うまでの経過である。
(一応、笑うところである)

 




もとは「中心に愛を」という言葉だった。
もしも不安や恐怖があるのなら、「中心を愛にすり替えてしまう」と。

このとき、最初に感じたのは、わたしにとって恐ろしく馴染んだ『解離』の感覚だった。
本心を無視する感じ、本音を見て見ぬふりする感じ、心の内にシャッターを下ろす感じ、麻痺させる感じ、無理に取り繕う感じ……。

どうしよう、「思考の中心を愛にする」こと……、それとも、「心の中心を愛にする」こと……。

はて、中心とは一体どこなのだ。
解離し始める自分を見捨てぬよう、違和感に寄り添い続けていた。

そこで改めて考える。
「わたしは、合宿に何をしに行くのだ?」

……身体だ。
身体のことをしに行くのだ。

となれば、中心とは、『身体の中心』のことだ。

身体の中心とは、丹田である。
(ほかにも様々な捉え方があるが、割愛する。またいずれ書く)

【丹田に愛を】

そう想うと、解離はフッと落ち着いた。
わたしは、この実感を得ることができたとき、確かな成長の手ごたえを感じた。
「合宿の成果はもうこれだけでいい」と思えるほどに。

 

 

 

 



この体験をして以来、ときどき思い出すと【丹田に愛を】という呪文を唱える。

散歩してて、前から人が来たとき。
職場に向かうとき。
他人のことを考えすぎてしまうとき。
眠るとき。

しかし、これらは、自分のエネルギーを保てる余裕があるときに限られていた。
端的に言えば、近くに人が居ないとき。ひとりのときだ。

ひとり、丹田に愛を。

でも、つい最近、それが変化したのだ。
職場で「丹田に愛を」という呪文が浮かんできた。
こんなこと、今までは、なかったのに。

たくさんの人が居る場所は、数年前に比べれば穏やかにいられるようになったものの、すごく疲れてしまう。
わたしにとっては、まだまだ人のエネルギーに翻弄される場という認識だ。
だから、家でひとりでならできる呪文も、職場ではなかなか発動できないのだった。

子細に語ればこうだ。
・母もしくは他人の視線を内在化した「自分を監視する自分の視線」に怯える
・諸悪の根源はわたしの存在であるという壮大な思い違い
・自分は攻撃される対象だ、と思い込む
・自分の立ち位置を被害者に位置付ける

まだまだ、こうした感覚に陥る瞬間がある。

しかしだ。
どうしたことか、職場でおもむろに「丹田に愛を」が発動したのだった。
そうすると、いつもそうなるように、肚の部分がじんわりとぬくもりを蓄えた。

とても穏やかな振動が、肚を中心に全身へ広がってゆく。

だが、同時に、背中が痛んだ。
コレはアレだ、『恐れ』のサインだ。


つまり、わたしは、大勢の中で「丹田に愛を」という呪文を発動させることに、「恐れ」を抱いた状態になったのだ。

でも、この恐れへの対処は心得ている。
「恐れ」と認知してやるだけでいい。
わたしは恐れている。

大勢の中で「丹田に愛を」という呪文を発動させることに、「恐れ」を抱いている。


だって、ずっと身体を固めてきたから。
鎧で身を守ってきたから。
いつでも逃げられるように臨戦態勢でいることが癖になっていたから。
心を開かないように、シャッターを下ろしてきたから。

だから、じんわり広がろうとする愛という自分が怖いのだ。


職場で「丹田に愛を」ができたらどんなだろう。
きっと……。もっと楽で、ありのままでいられるようになって、不要な防御の嘘なんてつかなくなって……。

だから、唱え続けたよ。
作業をしながら、「丹田に愛を」って。

 

 

 


このプロセスは、また気が向いたら書くかも。



……。あ、オチ?



えっとねぇ~。

呪文を繰り返し過ぎて、何十回かに一回「丹田にイチゴ牛乳」ってなっちゃうバグが発生したんよ。

アイツならイチゴ牛乳かなって、たぶん一瞬だけ思っちゃったんだよね。

まぁ、ゲシュタルト崩壊とかヒューマンエラーとか、そんなんだろうよ。

なんか知らねぇが、すげえ面白かった。

 



「丹田にイチゴ牛乳!」


面白かったぜ☆


断食

2024-04-06 00:00:00 | 日記
 
『どっちの飢餓感なのか』
 
 
 
24時間断食中。
 
 
ダラダラと食べ過ぎている感じがあった。
昨日、数年ぶりに鼻血が出た。
色々思うところがあり、断食を決行している。
 
しかし、久しぶりにやるとキツイぜ。
以前は、月1くらいでやってたんだけどな。
 
 
 
さて、この空腹。
果たして『どっちの飢餓感なのか』と、内観する。
 
心の飢餓を、食べ物で埋める癖。
ゆえに、本当の空腹を、忘れている感じ。
 
 
わたしにとって、断食とは。
本当の空腹を、感じる、旅のようなものだ。
 
 
 
 
 
水と、お茶と、レモン水と……。
15時になったら、イチゴ牛乳を。
わたしのルールでは、固形物を摂らなければOKだ。
 
 
 
 
 

根となる身体(後編)

2024-04-05 00:00:00 | 仮説・プロセス

 

身体感覚に根を伸ばす練習。

そのうち、身体の中が、みっちり根だらけ。

この身体を突き破り、土へと伸びてゆく、隆々とした根。

 

この身体ごと、土に根差していく感じ。

 

イメージを続けていると、身体は『巨大な木』の根の一部となった。

根とは、人から見えない部分だ。

それが誇らしくもあり、けれど少し寂しくもあった。

このまま、わたしは『根』として役割を果たせばいいのか、否か。

 

幹の中心部には、時空世界を想起させるような、光に満ちた筋が通っている。

こらえきれず、その光の中に入ってみる。と、噴水に押し上げられるように、一気にテッペンへ。

 

 

桜だった。

 

満開の桜。

 

 

 

 

ふと、言葉が浮かんでくる。

「この、たった一本の桜で、世界を変えられるのだろうか」

そうだという想いもあるし、そうではないという想いも抱いていた。

 

 

「変わらない世界を、どう生きるか」

以前、小説のテーマとした、この言葉を想い出した。

 

現実世界の諸問題というのは、表面が変わっても、構造が変わらないのだと思う。

 

 

 

 

ともあれ、しばらくは、わたしの桜に、想いを馳せたい。

 

 

 

 

 

 

追記

 

自傷思考を棄てて、雲を見れば、脳の動く部分が、もわぁんと変った。

そんな矢先、「左脳から右脳へ」という話を友達から聴いた。

ソレかもしれん」と思う。

 

 

 

日々の鍛錬と、慣れないチャレンジに、疲れてきてる。

でも、疲れ方がこれまでと違う。

そのことになんとなく安堵しながら、慣れない飛行にくたびれた翼を、休める。

 

 

湯船に浸かって、息を吐く。

 

 

気がつくと、ドォ――ンと根を生やしていた。

人からは見えない部分だけど。

誰にも見てもらえなくても、いいや。

根のネットワークは確かに在る。