✦世界の王室✦

プリンセス・マキシマ

さてさて久々にプリンセスのご紹介を。
今日はオランダ王室のマキシマ皇太子妃をご紹介しましょう。



マキシマ皇太子妃は1971年5月17日、アルゼンチンの首都
ブエノス・アイレスに生まれ、マキシマ・ソレギエタ・セルティ
(Maxima Zorreguieta Cerutti)と名付けられました。
父親のホルへは大量虐殺で有名なビデラ独占政権のもと、
農林大臣を務めました。このことが後年、マキシマ皇太子と
オランダ皇太子ヴィレム・アレクサンダーとの結婚に大きな
影を落とすことになるのでした。
1995年にアルゼンチン・カトリック大学卒業、専攻は経済学でした。
1996年からはニュー・ヨークに移り、HSBCジェームズ・キャペル・インク、
ドレスナー・クレインウォート・ベンソン、ドイツ銀行等で投資銀行化と
キャリアを積んだ後、2000年から2001年にかけてはブリュッセルの
ドイツ銀行EU代表事務所で働いていました。



さて現オランダ女王のご長男ヴィレム・アレクサンダー皇太子との
出会いですが、1999年4月にスペインはセビリアでのお祭り最中の
パーティーで知り合ったのです。ラテン系らしく、明るく茶目っ気たっぷりの
彼女に皇太子が興味を持ったとのことです。当時のマキシマ皇太子妃の
おどけて踊るビデオを見たことがありますが、多分、ただの酔っ払いの姉ちゃん
だったのでしょう・・・
出会ってから2週間後、皇太子はニュー・ヨークに住むマキシマを訪れ、
二人の交際は真剣味を帯びていきます。
最初、皇太子が「プリンス」であると言っても、ただのジョークとしか
思わなかったとか・・

オランダ国内でもマキシマの人気は上々だったのですが、
大量虐殺に加担したかもしれない人物の娘を、未来のオランダ王妃と
して受け入れてもいいのか?という論争が巻き起こったのです。
結局のところ、マキシマの父ホルへは大量虐殺には関係なかったと
証明され、また自らも反ナチス感情がまだ根深かった時代に
ドイツ人との結婚を選んだベアトリクス女王の応援もあって、二人は
婚約・結婚までこぎつけたのです。



それでも2002年2月2妃に執り行われた結婚式には、
オランダ国民の感情への配慮から、マキシマの父ホルへは
出席することはありませんでした。式の最中、アルゼンチンの
作曲家ピアソラの「さようならお父さん」がアコーディオンで奏で
られると、マキシマの大きな瞳から涙が溢れ出したのです。


(左から カタリナ・アマリア王女、べアトリクス女王、マキシマ皇太子妃、
ヴィレム・アレクサンダー皇太子とアリアーネ王女、アレクシア王女)

しかし今では、この通り三人の子供に恵まれ、
幸せそうな日々を過ごしているようです。
そういえば日本の皇太子ご夫妻、愛子様と一緒の
写真も公開されてましたね。


        (先週のお二人 女王の70歳の誕生日のお祝いの場にて)
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