つらつら日暮らし

2月4日 立春

今日は立春である。暦というか、地球と太陽との関係から、今日から春になる。それで、春になるということは、当然に冬から春になるといえ、例えば陰陽思想であれば陰気から陽気に転ずる時でもある(或いは、冬至の日を充てる考えもある)。そこで、今日はこの「冬から春に」という転換をどう考えるべきかを、禅僧たちの偈頌から探ってみようと思う。

  円意禅人の立春の韻を次ぐ
 昨宵臘尽きて暁に春来たる、角奏の梅花の調転た新しし。
 謂うこと莫れ茲従り清昼の永きと、暗添す多少の白頭人。
    『仏光国師語録』


これは、鎌倉円覚寺開山・無学祖元国師(1226~86)の語録から引用してみた。それで、ここから幾つかのことが理解できる。まず、ここでは「立春」について、「臘尽きて」とある通り、旧年が前日で終わったことを示しているので、いわゆる元旦と重なっていることが分かる。よって、暁に「春」が来たのである。これこそ、新春である。

そこで、新春となったので、一気に世間の空気も軽やかとなり、梅花曲(梅華引)の調べも新たになっているという。個人的には、この辺の学びが全く足りていないので、「角奏」の「角」が、五音の一なのか?ただの角笛なのか?で判断が付かない。

そして、偈頌は更に、この日から、昼間が長くなるなどと言ってはならず、どれほどの白頭人(愚かなもの)が、今日という日に闇(迷い)を添えるのだろうか?と疑問を呈している。

さて、立春に迷うものとは何に迷っているのだろうか。具体的には、立春によって、季節が「転調」することが大事なのである。そして、この「転調」とは無分別の境界である。「無分別」であるが故に、常にこの転調は新しいのである。つまりは、何か外部的な基準が存在しないためである。

しかし、迷う人は、ここで基準に沿って、新しい事象を得ようとする。本当に新しい事象が、それまでの価値観を引き継ぐはずがないのに、である。春が来るということは、それほどに新しいのである。そんな立春、まず、これまでの価値観を引きずること無く、無分別に転調しながら過ごしたいものである。

まさしく、春が来た、春が来た、どこに来た♪(高野辰之氏作詞、童謡「春が来た」)、なのである。この「どこ」こそ、無分別なのである。

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