円意禅人の立春の韻を次ぐ
昨宵臘尽きて暁に春来たる、角奏の梅花の調転た新しし。
謂うこと莫れ茲従り清昼の永きと、暗添す多少の白頭人。
『仏光国師語録』
これは、鎌倉円覚寺開山・無学祖元国師(1226~86)の語録から引用してみた。それで、ここから幾つかのことが理解できる。まず、ここでは「立春」について、「臘尽きて」とある通り、旧年が前日で終わったことを示しているので、いわゆる元旦と重なっていることが分かる。よって、暁に「春」が来たのである。これこそ、新春である。
そこで、新春となったので、一気に世間の空気も軽やかとなり、梅花曲(梅華引)の調べも新たになっているという。個人的には、この辺の学びが全く足りていないので、「角奏」の「角」が、五音の一なのか?ただの角笛なのか?で判断が付かない。
そして、偈頌は更に、この日から、昼間が長くなるなどと言ってはならず、どれほどの白頭人(愚かなもの)が、今日という日に闇(迷い)を添えるのだろうか?と疑問を呈している。
さて、立春に迷うものとは何に迷っているのだろうか。具体的には、立春によって、季節が「転調」することが大事なのである。そして、この「転調」とは無分別の境界である。「無分別」であるが故に、常にこの転調は新しいのである。つまりは、何か外部的な基準が存在しないためである。
しかし、迷う人は、ここで基準に沿って、新しい事象を得ようとする。本当に新しい事象が、それまでの価値観を引き継ぐはずがないのに、である。春が来るということは、それほどに新しいのである。そんな立春、まず、これまでの価値観を引きずること無く、無分別に転調しながら過ごしたいものである。
まさしく、春が来た、春が来た、どこに来た♪(高野辰之氏作詞、童謡「春が来た」)、なのである。この「どこ」こそ、無分別なのである。
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