つらつら日暮らし

『唐招提寺戒壇別受戒式』に於ける『遺教経』について(2)

恵光『唐招提寺戒壇別受戒式』では「第五講遺教経」とあって、比丘へ具足戒を授ける前に、『遺教経』を講義していたことが知られている。そこで、今日はその目的について確認しておきたい。

故に、今、登壇受具の始に、此の妙典を講ずるは、新戒の仏子等をして、未だ聞かざるの法を聞かせ、渇仰の誠を発さしむ。
    恵光『唐招提寺戒壇別受戒式』「第五講遺教経」


このように、登壇し、具足戒を受けるその前に、『遺教経』を講ずるのは、新らに受戒する仏子などに、未だ聞いたことが無い、釈尊の遺言を聞かせることで、釈尊とその教えを渇仰させるためだという。確かに、『遺教経』では、釈尊臨終の様子を十分に組み込みながら描くことで、仏子にとっては悲しみと、至誠心を発させる意味がある。

汝等比丘、常にまさに一心に勤めて、出道を求むべし。一切世間の動不動の法は、皆是れ敗壊不安の相なり。汝等且く止みね、復た語いうことを得ること勿れ。時、将に過ぎなんと欲す、我れ滅度せんと欲す。是れ我が最後の教誨する所なり。
    『遺教経』


これは、同経末尾の一節となるが、如何だろうか?この世界の一切の存在は全て、「敗壊不安の法」であるとし、よって、釈尊自身もまた、滅していくことも道理そのものだという。実際に、他の涅槃部経典を見ていると、晩年に侍者として仕えてきた阿難陀尊者などは、大いに悲しんだという。

もちろん、釈尊はそういう悲しみに浸ることを否定してはいる。だが、悲しみを持つことは自然なことであるから、悲しみを持ってはいけないという戒律のように捉えるのではなく、もっと大事なことは、いわゆる悲嘆で修行が妨げられることを否定し、更には、無常であることによる、或る種のニヒリズムへの落ち込みを否定するためである。

つまり、この世界は無常であるという事実を推し進めれば、この自分自身の生命であっても、無限ということは無い。そうなれば、あらゆる努力も無駄だと独断されそうなところ、無常を理由とした努力の否定もまた、説くべきでは無いということになる。先に引いた『遺教経』の一節についても、「常にまさに一心に勤めて、出道を求むべし」という具体的な目標の中で示されていることに注目しなくてはならない。

出道への修行を続ける中で、無常を前提にしているということは、無常を「心の危機感」へと転じて、修行を前向きに進めることが求められているのである。

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