つらつら日暮らし

篤胤による釈尊の成道評(拝啓 平田篤胤先生23)

今回から、平田篤胤『出定笑語』で第2巻に入っていくが、ちょうど1~2巻にまたがって論じられているのが、釈尊の成道についてである。そこで、前回までは篤胤が設けた課題に基づいて論じたが、今回は敢えてこちら側からの見え方ということで、篤胤が釈尊の成道について、どのように評しているかをまとめてみたい。

その際、例えば、釈尊の成道については、特に禅宗などで劇的な論じ方がされる印象があるが、篤胤は余り神秘的な論じ方を好まない。そうなると、劇的な釈尊成道の場面などは、篤胤は忌避するだろうから、その確認を行ってみたい。

・・・いやあの、結論から言うと、全然書いてなかった。もしかして、「成道」という悟りの場面について、理解出来なかったのだろうか。例えば、以下のような一節はどうか。

偖悉多は山に入て右の如く坐禅観想を為て、終に其道を成就したると云て、山を出たる年が三十歳の時で有たる故、是を三十成道と云でござる。俗に出山の釈迦の像とて破れ衣を身にまとひ痩さらぼつた、いが栗坊主が山を下りながら、風に吹れて後を振返り見ているすごいやうな図が在は、此とき成道して山を出る時の形を書たものでござる。是は二十五のときより三十までじやによつて、ちやうど六年の修行でござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』54頁、漢字などは現在通用のものに改める


実は、釈尊成道の場面について、大したことが書かれていないことに気付いた。そして、おそらくは上記の一節のみの印象である(場合によっては、後に成道の場面が再度語られる可能性がある)。

そして、上記の一節から釈尊の成道に繋がったのは、「坐禅観想」だとしている。しかし、以前の記事でも紹介したように、山中での坐禅観想は、神通の発現に繋がるという指摘だったはずだが、ここでは成道にも繋がっている。その両者に展開した意味について、篤胤は何も指摘していない。

よって、内面的な考察は説示の中に挙がってこない。これは、2つの意味がある。1つはそもそも考察していない、2つは相手が在家の一般人(或いは、国学を文献で学ぶ者)が多かったので、挙げる必要が無かった、等が考えられる。もし、禅宗批判などが必要な場合には、遠慮無く挙げたのかもしれない。

それを思う時、『出定笑語』でも、諸宗批判の中に禅宗批判を入れている篤胤だが、或る意味それを中心に行った説示として『悟道弁』が知られている。『出定笑語』は一説に文化8年の説示だったとする見解がある。一方で『悟道弁』は文化9年だという記述があるので、その通りであろう。つまり、両書は次期が近く、篤胤自身の一連の思索や研究が見て取れる。

その『悟道弁』は悟道を重視した禅宗批判の文献だと言って良いが、釈尊の悟道については、以下のように指摘されている。

扨あれほど苦んで悟つた釈迦も、命もわづか七十余、そして身は乞食ぢや、さすれば悟つた程の事もない、
    『悟道弁』巻下・32丁表、カナをかなにするなど見易く改める


実際、『悟道弁』は、禅宗批判の他に、江戸時代の国学者批判などを行うためか、仏教そのものへの言及が意外と少ない。それで、上記の一節も、釈尊の悟道そのものというより、その姿などを批判することで、悟道の意義を減少させる目的があったと思われる説示である。

しかし、ここからも、篤胤が釈尊の悟道そのものを論じないという傾向があったことを確認したのみであった。次回以降は、釈尊による弟子の接化などに話が移っていく。

【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し

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