つらつら日暮らし

『無畏三蔵禅要』に見る受戒作法について

この記事で採り上げる『無畏三蔵禅要』という文献は、現在では『大正新修大蔵経』第18巻に収録され、密教部に分類されている。元々インドのマガダ国の王族に生まれ、唐の時代の中国にやって来た善無畏三蔵(637~735)が、中国の禅僧と、当時のインドに於ける禅定について対論したものとされる。それで、どうしてこのブログで採り上げるかといえば、理由については本書の序文などをご覧いただければ分かると思う。

 (善無畏三蔵は)嵩岳会善寺大徳禅師敬賢和上と共に、仏法を対論し、略ぼ大乗の旨要を敘す。頓に衆生の心地を開き、速やに悟道せしむ。及び受菩薩戒羯磨儀軌、序いで之れ左の如し。
 夫れ大乗の法に入らんと欲する者は、先ず須く無上菩提心を発し、大菩薩戒を受けて身器の清浄ならしむべし。然る後に法を受く、略して十一門の分別と作す。
 第一発心門 第二供養門 第三懺悔門 第四帰依門 第五発菩提心門 第六問遮難門 第七請師門 第八羯磨門 第九結戒門 第十修四摂門 第十一十重戒門
    『大正蔵』巻18・942頁b-c、訓読は拙僧


このようにあって、本書の中には、大乗の中心となる教えとともに、菩薩戒を受ける際の儀規が示されていることが分かる。拙僧が今回見ていきたいのはその部分であり、残念ながら「禅要」の方では無い。それを見たい人は、ご自分でそうしていただきたい。

さて、本書に於ける「受菩薩戒羯磨儀規」であるが、以下に簡単に説明していきたい。

第一発心門:発心した者は、一切の諸仏・諸大菩薩・大菩提心に対して帰依し、自ら修行し、涅槃に入ることを願う。
第二供養門:発心した者は、一切の諸仏・諸大菩薩・大菩提心に対して、生涯にわたり供養することを誓う。
第三懺悔門:発心した者は、それまで自らの身口意の三業で犯した無数の罪を悔いて、懺悔し、2度と行わないことを誓う。
第四帰依門:発心した者は、「今身より菩提道場に坐するまで」三宝に帰依をすると誓うのだが、三宝の言い方が「帰依如来無上三身・帰依方広大乗法蔵・帰依一切不退菩薩僧」と、普段我々曹洞宗などが唱える文言とはかなりの相違がある。
第五発菩提心門:この場合は「発心」よりも深く踏み込んで、「発菩提心」となり、一切の衆生を救うことを誓う。具体的には「五弘誓願(四弘誓願では、衆生・煩悩・法門・仏道の4つだが、本書では衆生・福智・法門・如来・仏道の5つである)」の形を取る。
第六問遮難門:いわゆる「七逆罪」の有無を問い、もし犯したことが有る場合には懺悔させた後に受戒出来るという。菩薩戒の根本聖典として扱われてきた『梵網経』では七逆罪への授戒は認められなかったが、日本では栄西禅師が、懺悔した者への授戒を認めていたと道元禅師が伝えている。この辺が典拠だったのだろうか?!
第七請師門:発心した者は、一切の諸仏・諸菩薩を拝請して戒を受けようとするのだが、特に戒師の和上として釈尊を、羯磨阿闍梨として文殊菩薩を、そして証戒師として十方諸仏を拝請し、一般的な教授阿闍梨たる弥勒菩薩が拝請されていない。
第八羯磨門:発心した者へ、「三聚浄戒」を授ける。
第九結戒門:受戒の弟子に対して、三聚浄戒を護持するよう示す。
第十修四摂門:まず、受戒の弟子に対して、改めて発菩提心し、菩薩戒(三聚浄戒)を受けた意義を示し、その上で「四摂法及び十重戒」を修することを示す。当段では四摂法を示す。
第十一十重戒門:前段を受けて受戒した弟子に対して、「諸仏子、菩薩戒を受持す。いわゆる十重戒は……」として、「十重戒」を持つように示す。


そして、受戒作法は十重戒を授けた段階で、改めて受戒の弟子に対して、菩薩戒を護持するように説くのみで終わってしまい、本書後半に於ける「大乗の妙旨」の獲得へと続く。よって、受戒作法として見ておくのは、先の事項までとなる。

さて、この内容を受戒作法という観点でいうと、以下の通りとなる。

・懺悔
・三帰戒
・三聚浄戒
・四摂法
・十重戒


「四摂法」が入っているものの、それは戒ではなくて菩薩の行いの基本といえるから除外することも可能といえる。そうなると、残りは懺悔と三帰戒・三聚浄戒・十重戒となって、宗門で行っている「十六条戒」になる・・・と最初は思った。そして、この辺が、よく分からない宗門十六条戒の典拠か?とも考えたが、結果は異なり、特に末尾に出てくる「十重戒」が、『梵網経』由来の十重禁戒ではなく、全く別の「十重戒(密教系)」だったことが大きい。せっかくなので、該当する全文を訓読しつつ挙げておきたい。

・一つには応に菩提心を退せざるべし。成仏を妨ぐるが故に。
・二つには応に三宝を捨てて外道に帰依せざるべし。是れ邪法なるが故に。
・三つには応に三宝及び三乗の教典を毀謗せざるべし。仏性に背くが故に。
・四つには甚深の大乗経典の通解せざる処に、応に疑惑を生ぜざるべし。凡夫の境に非ざるが故に。
・五つには若し衆生の已に菩提心を発さん者は、応に是の如き法を説いて、菩提心を退き二乗を趣向せざらしむべし。三宝の種を断ずるが故に。
・六つには未だ菩提心を発さざる者、亦た応に是の如き法を説いて彼をして二乗の心を発さざるべし。本願に違う故に。
・七つには小乗人及び邪見人の前に対し、応に輒く深妙の大乗を説かざるべし。恐らくは彼れ謗じて大殃を獲るが故に。
・八つには応に諸の邪見等法を発起せざるべし。善根をして断たしむるが故に。
・九つには外道の前に於いて、応に自ら我れに具る無上菩提の妙戒を説かざるべし。彼をして瞋恨心を以て是の如き物を求むれども、弁得すること能わず、菩提心をして退かしむ。二乗に損有るが故に。
・十には但だ一切衆生に於いて、損害及び利益無き所有らば、皆な応に及を作し教えて人の見を作し随喜を作さしめざれ。利他の法、及び慈悲心に於いて相違背するが故に。
    訓読は拙僧


このように、あくまでも大乗の菩薩としての生き方を示すのみで、いわゆるの「十重禁戒」では無いのである。そうなると、言い方などは似ていても、やはり宗門の十六条戒とは似て非なるものとなる。無論、この教えそのものは極めて重大であるし、我々も見習うところが多い。

それで、詳しくは分かっていないのだが、本書の位置付けなどを考えた時、中国の禅宗でも参照した形跡があるところが気になっている。具体的にどう参照されたのかは、今後の研究課題ではあるが、もしこれが参照されていたとすれば、十六条戒に繋がる可能性が見出せるためである。もちろん、直接的には乖離が激しい。曹洞宗所伝の『仏祖正伝菩薩戒作法』は、明らかに『梵網経』の思想下に於いて成立しているためである。ただ、「十六条」という数字のみを求めていっても、この辺は何も分からないのかもしれない。

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