つらつら日暮らし

洞山良价禅師に見る出家論(1)

中国禅の系譜を探るとき、1つ、唐の武宗(在位:840~846)が起こした「会昌の破仏」への対応なども気になるのだが、そういえば、洞山良价禅師(807~869)なども、まさにその同時代を生きた禅僧であった。そこで、破仏が起きた時代の人という観点でその教えを見てみると、中々興味深いものがある。

例えば、次の教えはどうか。

 名利を求めずして栄を求めず、只麼に縁に随いて此の生を度す、
 三寸気消せば誰れか是れ主、百年身後謾りに虚名す、
 衣裳破れて後重重に補し、糧食無き時旋旋に営む、
 一个の幻躯能く幾ばくが日ぞ、他の間事の為に無明を長ず。
    『洞山録』「自誡」項


「自誡」とある通り、洞山禅師ご自身の誡めというべき文章である。そこで、簡単に訳しながら、意図するところを学んでみたい。まず出家者という存在は、名利心を求めず、栄誉なども求めずに、ただひたすらに縁に随って衆生を度すのである。ここから、大乗仏教の菩薩の自覚があったことも理解出来る。

そして、三寸の気というのは、自ら自身の魂のようなものであろうが、それが消えれば(=死ぬこと)、どこに主があると言えるだろうか。百年が経って、みだりにその虚名ばかりを残しても意味は無い。衣裳(=袈裟)が破れれば、それを重重に直し、食べ物がない時には回らせるのみである。

この一箇の幻のような肉体が保たれるのは、どれほどの日数であろうか。他の余計な日常を過ごしている間に、無明を長大ならしめてしまうのである(よって、そうならないように注意しなくてはならない)、とでも出来ようか。

以上のことから、洞山禅師の出家観としては、名利心の否定と、枯淡な生活そのものの肯定を促していることが分かる。また、自己自身の人生がどれほど長いのかは無常観に裏打ちされつつ、長生きのみを期待しない様子も理解出来よう。

非常に簡単ではあるが、出家に対して、余計な力を入れず、ただ自給自足的に淡々と生きる様子が分かるが、その中でも無明を更に増やさないように、注意される人生を目指したといえよう。

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