つらつら日暮らし

「諺註」という題名について

江戸時代初期の浄厳律師の『梵網菩薩戒諺註』という文献を学んでいた時に、そういえば、「諺註」という題が付いているな、と思っていたが、その後も、新義真言宗『密厳院発露懺悔文諺註』という文献も手元にあったことを思い出し、ここで「諺註」って何だ?という話となった。

例えば、【日本古典籍総合目録DB】で「諺註」で検索かけてみると、40本以上の文献がヒットする。見た目的に、「註釈書」であることは間違い無いと思うのだが、中国ではこの「諺註」というタイトルを仏典で用いた例は、余り見ないようである。

そうなると、日本で用いられた表現かな?という話になるのだが、意味はどうなるのだろうか?「註」は註記・註釈のことだろうが、「諺」は以下の意味がある。

・ことわざ、教訓や伝承を含んだ言葉

・・・だよな。ついでに、「諺とは、俗言なり」(『維摩経略疏垂裕記』巻3)という指摘もあるし、更には「俗諺」という表現もある。「俗諺に云わく「使賊捉賊(賊をして、賊を捉えしむ)」なり」という感じである。そうなると、「諺註」については、「ことわざで註をした」という話になるのだろうか?

すると、以下のような一節を見付けた(というか、これがあったからこの記事を書いた)。

・因て一信士の為に、太賢古迹に就て、其の戒題を掲げて、俚諺を其の下に加へて、将に秉持に便りにせんとなり。
    『菩薩戒諺註』浄厳律師自叙、52丁表
・況や此の頌文、未だ註解を見ず。何ぞ今、始歩を企てんや。是に於て逼請数回、更に拒むを許さず。強て固陋を探て、漫に俚諺を綴り、鉅海の涓滴を註し、間亦、己が意を附して、小子が日用を策す。誰か大人の謗を顧みん。
    『密厳院発露懺悔文諺註』「叙」9丁裏


まず、前者の「自叙」は延宝3年(1675)に、後者の「叙」は元禄5年(1692)に書かれたものとされる。そこで、「俚諺を其の下に加へ」という部分や、「漫に俚諺を綴り、鉅海の涓滴を註し」が「諺註」に対応することが分かる。意味だが、「民間のことわざをその下に加え」や「みだりに、民間に伝えられたことわざを綴り、大海への一滴を註した」というくらいの内容である。

これらが、本来は出家者が用いるべき文献に対して題されていることを思うと、要するに民間でも理解出来る言葉で書いたとかいう話になるのだろう。また、ともに用いられていた「俚諺」という表現も少し気になった。「俚語」という題を持つ文献もあるためである。「俚」とは「いやしい」とか「いなかじみた」とか「ひなびた」とかいう意味があるようだが、端的に「民間の」という意味もある。この辺が「俚」であろう。

後は、本文で「ことわざ」感が強い文章などを見ておきたいと思うのだが、以下の一節などはどうか?

無価の栴檀を以て、得易きの凡木に代ることを。
    同上、本文9丁表


こちらなどが、ことわざっぽい教えといえるだろう。意味は、持戒をしっかりしていないと、せっかく自己自身が保持している「無価の栴檀」の如き仏性が汚れてしまう、というくらいの意図で使われている。そして、実は、少し探すのに苦労した。別段、ことわざを多用し、例話などをもって文章を作っているわけでは無かったためである。結局のところ、「分かりやすい註釈」くらいの意味で把握するのが良さそうだ。そうなると、『梵網経』に対する太賢の註釈では各戒の題を付けているのだが、浄厳律師はその題の下に「俚諺」を付けたとしている。例えば以下の通りである。

談他過失戒第六〈ヒトノトガヲカタルコトヲ戒ルナリ〉
    『菩薩戒諺註』7丁裏


これは、十重禁戒のいわゆる「第六不説過戒」についての説明だと思っていただければ良いが、太賢の題に基づいて、それを分かりやすく訓じたものだといえる。よって、この辺の言葉の組み方が「諺註」なのだろう。

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