つらつら日暮らし

『梵網経』で喩えに使われた「事火婆羅門」について

以前、【明恵上人と高座について】の記事を書いたときにも指摘したが、『梵網経』の中に「事火婆羅門」の喩えが指摘されている。然るに、同経典の原文では、同事象について名称のみ紹介され、実態としては何も書かれていない。

そこで、今回は同事象を掘り下げてみて、何故この箇所の例えとして用いられているのかを検討してみたいと思う・・・その前に、『梵網経』は近年、中国成立ということで学会では決着を見ていると思うが、同様の経典に『菩薩瓔珞本業経』というのがある。これも、菩薩戒について軽重を挙げて述べているのだが、その一節に以下のように見える。

仏子よ、十戒を受け已れば、復た聴者の為に教えて法師を供養せしむ。常に天上の無量の華香、百千の灯明、百千の天衣瓔珞、百千の妓楽、百味の飲食、屋宅・経書、一切の所須の物を以て、皆な悉く給与せよ。弘通の法師は、当に仏を敬うが如く、父母に事えるが如く、事火婆羅門の法の如くすべし。
    『瓔珞経』巻下「集散品第八」


このように、『瓔珞経』でも、やはり受戒をしてくれた法師に仕えるときには、「事火婆羅門」の法を用いるべきだとしている。このことを思う時、余程この「事火婆羅門」の作法とは知られてものだったのか?と思ったのだが、この字句で検索などをかけてみても、大した結果は出ていない。ただ、以下のようにあるのは見出した。

 爾の時、如来の衆中に、一りの婆羅門有り。先ず月神に事う。
 世尊、彼の婆羅門の為に、伽他を説いて曰わく、
  若し人能く法を了ずれば、老と少とを論ずること無く、
  当に須らく起ちて恭敬すべし、猶お月の初めて出ずるが如し。
 爾の時、会中に、一りの事火婆羅門有り。世尊、復た為に頌を説いて曰わく、
  若し人能く法を了ずれば、老と少とを論ずること無く、
  当に須らく起ちて恭敬すべし、火の能く穢を浄ずるが如し。
    『根本説一切有部毘奈耶出家事』巻2


こちらに、釈尊が「事火婆羅門」のために法を説いた様子が見られる。ここの内容からすると、釈尊はただ、「事火婆羅門」の行為自体を肯定しつつ、「火」の機能が、「穢を浄ずること」であるとしつつ、おそらくは、婆羅門自身に「浄(煩悩の否定)」を勧めたと思われる。

そうなると、上記の教えでは、「事(仕える)」についてというよりは、その対象となる「火」のことを挙げているので、『瓔珞経』で指摘した、「事」のことはやはりよく分からないことになる。それでは、「事」に関する用例はあるのだろうか?色々と見てみると、「古先より伝習した法」であるとか、「婆羅門最勝の法」であるとか、そういう表現がある。

それで、具体的な方法については、「過失の意を起こせば、故らに火事と作る」とあって、慎重に「火」を取り扱うべきことを指示している。そうなると、この場合「火」は煩悩の譬えになる。ということは、煩悩を慎重に扱うことで、火事などにならないようにすべきだといえよう。

ただ、これもやはり、「火」の側が注目されていて、「事」はそれほどでもない。結論としては、曖昧となってしまった。

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