つらつら日暮らし

師の呼び方について(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・13)

13回目となる連載記事だが、義浄(635~713)による『南海寄帰伝』19番目の項目に「受戒軌則」があり、最近の拙ブログの傾向から、この辺は一度学んでみたいと思っていた。なお、典拠は当方の手元にある江戸時代の版本(皇都書林文昌堂蔵版・永田調兵衛、全4巻・全2冊)を基本に、更に『大正蔵』巻54所収本を参照し、訓読しながら検討してみたい。今回は、師として仰いだ者の呼び方について見ていきたい。

 若し人有て問て云く、「爾か、親教師、其の名、何ぞや」。
 或は問う、「汝、誰が弟子ぞと」。
 或は自ら事至ること有て、須く師の名を説くべきは、皆、応に言ふべし、「我れ事至るに因て、鄔波駄耶の名を説く。鄔波駄耶の名は某甲なり」。
 西国・南海、我と称する、是れ慢詞ならず、設令、汝と道は、亦た軽称に非ず、但だ其の彼此を別んと欲す、全く倨傲の心無し、並びに神州の将て鄙悪と為すに不ず。若し其の嫌はば、我を改て今と為す、斯れ乃ち咸く是れ聖教なり、宜く之を行ずべし、雷同と皂白を分けること無きを得ず、爾か云ふ。
    『南海寄帰伝』巻3・5丁表~裏、原漢文、段落等は当方で付す


ここの問いは、結局、或る比丘が「あなたの師匠は誰ですか?」と聞かれているのである。そこで、もし、答えるのであれば、「我は、事が至ったからこそ、師匠の名前を示す。師匠の名前は○○である」というべきだという。この「鄔波駄耶」とは梵語の「ウパードヤーヤ」を音写したものである。

そこで、ここだけであれば大した話では無いのだが、義浄は「西国・南海」で、自分のことを「我」と呼ぶのは「慢詞」ではないとしており、「汝」というのも軽んじた名前では無いという。これは、ただ、彼とこれとを分けて表現するのみであり、傲った気持ちなどは無いという。いわば、二人称などに、敬称が無いと述べているのだろう。

ただし、もし、こういう表現が嫌なのであれば、「我」を「今」と時間表現にする案も提示しており、それも聖教の教えに従ったものだとしている。

ところで、最後に「雷同と皂白を分けること無きを得ず」とあるが、「雷同」は異なっているのに同じものだと扱うことであり、「皂白」は「善悪」の意味だという。よって、どのような表現が良いか、雷同的なものと、白黒付けるべきことを分けないことがあってはならない、ということなので、義浄としては様々な呼び方は、従うべきルールが有るといいたいのだろう。

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事