つらつら日暮らし

『受十善戒経』「十悪業品第一」を学ぶ(1)

本経典は「後漢失訳人名」とあって、おそらくは古い時代の翻訳ではあると想われるが、詳細が良く分からない経典である。ただし、内容からは、授戒作法に係る一節が見られるので、この記事ではそれへの興味を持ちながら、学んでみたい。

 一時、仏、舎衛国祇陀林須達長者美称夫人精舎中に在りて、大比丘衆一千二百五十人と倶なれり。
 爾の時、世尊、慈梵音を以て舎利弗に告ぐ、「今、汝等の為に、十悪不善業報を除くことを説く。諦聴して、諦受して、一心に憶持して、慎んで忘失すること莫れ。
 十悪業とは、一つには殺生業、二つには偸盗業、三つには婬欲業、四つには妄語業、五つには両舌業、六つには悪口業、七つには綺語業、八つには貪欲業、九つには瞋恚業、十には愚痴業なり。
 舍利弗、汝、今、応当に普ねく衆生を教えて、清浄身業・清浄口業・清浄意業にして、五体投地し、和上に帰依せしめよ。
 誠心に此の三悪業を懺悔すべし。是の如く三説す。既に懺悔し已れば、身業清浄・口業清浄・意業清浄なり。
 次第に応当に自ら其の名を称うべし、「仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依す」。是の如く三説して、仏に帰依し竟り、法に帰依し竟り、僧に帰依し竟んぬ。是の如く三説すれば、復た応に問うて言うべし、「善男子・善女人、汝、能く持つや不や」。
 若し「能く持つ」と言わば、復た応に問うて言うべし、「汝、今、身心に過患無きや。身の過患とは、出仏身血し、殺阿羅漢し、破和合僧し、誹謗断善し、仏の正法に逆らうや不や」。
 若し「不」と言わば、復た当に問うて言うべし、「汝、心中に五逆を作し、正法を謗ずることを欲することを念ずるや不や。汝、曾て仏の物、法の物、賢聖僧の物、現在僧の物、招提僧の物を偸盗するや不や。母、姉、妹、比丘尼の辺に於いて不浄を作すや不や」。
 若し「不」と言わば、復た当に更に教うべし、「汝、今、是の如く身心清浄なり、大徳、憶念せよ。我れ今、十善業戒を受けんと欲す、十不善業、我れ已に懺悔す。唯だ願わくは大徳よ、我を慈愍するが故に、我が受持を聴せ」。
 爾の時、応に教えて、「優婆塞某甲・優婆夷某甲、汝、今、応当に一心に数息して、繋念、前に在り、過去七仏・現在釈迦牟尼尊仏、及び弥勒等の未来諸仏なり」」と。
    『受十善戒経』「十悪業品第一」


まず、本経典では、上記のような十悪業(十善業)とともに、本品の後半部分に出てくる八斎戒を得て、そして持戒の生活を送るべきことを勧めている。なお、ともに在家信者向けともいえるので、まずは在家信者向けの制戒であり、また、そのための授戒作法であることを理解すべきである。

そこで、世尊が舎利弗に対して示された教えとは、まず、十悪不善業による結果(報)を除くことであった。そして更に、身口意の三業を清浄にし、和上に帰依をすることを説く。

次に、身口意の三業の悪事を懺悔するという。これなどは、現代的な作法では、「懺悔文読誦」などでも良いのだろうか。

三帰依については、いわゆる三帰・三竟の形式である。しかし、三帰依の後で、「善男子・善女人、汝、能く持つや不や」と聞き、しっかりと作法化されていることが特徴である。

それから、三帰依の後は、五逆罪の有無を尋ねている。これは一種の「遮難」として機能しているのだろう。更に、身の五逆、心の五逆を尋ねていることが特徴的である。

更に、遮難を終えてから、十善戒を受けたいと願い、懺悔して受持したのである。そして、更にその後は、数息(坐禅)することで、三世の諸仏を念じたのであるが、受戒と諸仏を念ずることがどう関係があるのか、個人的には非常に興味があるのだが、それはまた機会を改めて検討してみたい。

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