信徒の部屋・青草の原・・・詩文によるキリスト教入門

讃岐にあるキリスト教教会の信徒による詩文集です。
各信徒が思い思いに詩文を連ねていきます。

暦による俳句 1月から3月

2012-06-04 08:27:15 | キリスト教
              守屋さん


一月  初旅といふときめきのフルムーン

一月  寒紅や淋しき顔は見せまじく

二月  大勢を静かにしたる初音かな

二月  出歩いてゐる間に春の風邪癒えし

三月  引き止めて置きたき心春炬燵

三月  いい旅になりさう阿蘇の山笑ふ

魅惑の小豆島

2010-10-13 08:54:51 | キリスト教

魅惑の小豆島        まっちゃん

 今年の夏は本当に参った、この原稿を書いている9月初めも気温が35度まで上がっている。こんな猛暑の夏であったが私たちの教会では恒例のファミリーキャンプを小豆島でおこなった。
 私は個人的に小豆島には思い入れがある。20年以上前に2年間の単身赴任生活を余儀なくされた島でもあるからである。
昔から島に赴任する者に対する言い伝えがある。「泣く泣く行き、泣く泣く帰る。」という言葉である。島に赴任辞令が出ると泣く泣く行くものの、いざ島に赴任してからは島民の人情に絆され、島を離れるときは別れが辛くて泣く泣く帰るということである。私の人生で島の2年間はとても濃い時間であった。今回のキャンプでは、小豆島に初めてキリスト教を伝道した記念の「平和の十字架塔」があることを知った、また島の唯一の産業である醤油会社の訪問学習も有意義な体験であった。まだまだ小豆島には多くの魅力が詰まっているようだ。   

朝まだき  短歌四首

2010-08-26 21:24:17 | キリスト教
朝まだき
               うさぎ

朝まだき海岸清掃ボランティア
    終えて礼拝捧げるすがしさ


週はじめもどるところは出発を
    するところなり兄弟姉妹と


教会にもどればそこに父母がいる
    妹もいる弟もいる


教会の集いに似合う良きことは
    笑顔に歌う讃美歌七番

 

「この夏のゴウヤ物語」 

2010-08-19 21:18:57 | キリスト教
「この夏のゴウヤ物語」    by みちこ

 この夏出会った本には、「人はなぜ、こんなにも庭仕事で幸せになれるのか -初めての庭の物語」(エイミイ・スチュワート著)という題が付いている。初めての庭仕事で出会った花々や野菜、人々との出会いなど、新鮮な感動と体験が素直に書かれていて、暑い夏に一服の清涼剤のようなさわやかな余韻が残っている。
 
 我が家では寝室の窓辺に、この夏初めてゴウヤ(苦瓜)を3本鉢植えで育てている。多度津駅の駅舎や、近所の畑でよく見かけてはいたが、ネットを吊す手間などが億劫で何となく敬遠していた。しかし6月中旬、思い切ってゴウヤの苗3本とネットを買ってきたのである。これもまた植物との出会いなのだろう!20センチほどの苗にはすでにとても細いつるが伸びてきていた。そっとやさしくつるをネットに絡ませてやった。そして毎朝カーテンを開けると一番にゴウヤを観察するのがこの夏の日課となった。

 ゴウヤ達はお互いに競うようにすくすくと育ち、アッと言う間に窓から部屋の中を覗き込むようになり、さらにはぐんぐん伸びて遂には屋根の瓦にまで届いたのである。そして、一面緑の美しい葉が窓を覆い、私が憧れていた緑のカーテンとなったのである。「ヤッター!」思わず叫んでしまった。久々の感動である。
 
 辞書によると、ゴウヤは同茎に雌花と雄花が咲くらしい。小さな黄色い花も愛らしくて、どんな風に実をつけるのか楽しみになってきた。やがてどこからか蜂たちもやってきて交配を手伝ってくれている。花が咲いた後、すぐにゴウヤの実が現れるかと待っていたのだが、いっこうに見えないので心配になってきた。夫は「実がならなくても葉っぱと花がきれいだから良いじゃないか。」とのんきに言っている。野菜作りが得意な友人に話すと「心配しなくても夏の日差しが強くなったら実が出てくるよ。」と教えてくれた。
 
 猛暑日が続いた7月末のある朝、いつものようにカーテンを開けて、緑のカーテンを観察していると何と5センチほどのゴウヤの実がぶら下がっているではないか!まるで「初めまして!お早う!」と言っているみたいに・・。「早く、早く。来て見てごらん!」と夫を呼び、二人でしばらく見とれていた。今年はゴウヤ達からこれほどの楽しみと喜びをもらうとは思ってもいなかった。たくましくどこまでも伸びるつたと緑の葉っぱ、黄色い花、そして見かけはイボイボのあまりきれいでない実ではあるが何ともいえない味。ジュースに、おかずに、漬け物にと食卓を豊かにしてくれている。「ゴウヤ達、本当にありがとう!」そして、「すべてのものを育ててくださるのは主である。」と、改めて感謝を覚える日々である。

短歌五首

2010-08-07 15:45:46 | キリスト教
短歌五首         なずな


予約募るバレンタインの愛すチョコ
    iceと気づくに遅きわが齢


新聞の休刊という些事ながら
    私の朝のリズムが狂う


椎の葉を裏返し吹く一陣の
    風ある時に山は光りぬ


飛び立てる鳥にあふられ蝶の群れ
    吹雪くがごとく舞い上りたり


独り居の厨に立つは寂しという
    友に贈らむ花布巾刺す





讃美歌を     短歌五首

2009-04-26 12:21:40 | キリスト教
讃美歌を   短歌五首
               うさぎ

讃美歌を声のかぎりに歌いつつ
       車走らす至福の時間


大勢の兄弟姉妹に囲まれて
       過す幸せ日曜の朝


若き師はパテシィエのごと旨き菓子
       われらにふるまい福音を告ぐ


み言葉に養われつつ牧師の焼く
       ケーキにもまた養われいる


祝祷を受けて出でゆく会堂に
       神の子としてまた帰り来む

金毘羅の・・・・・五句

2009-02-11 21:21:16 | キリスト教
金毘羅の・・・・・五句
               守屋さん

金毘羅の歌舞伎名残りの雨の花

愛さるる事を覚えし仔猫かな

お遍路にまじり平和の鐘を撞く

出歩いてゐ間に春の風邪癒えし

流さるる運命の雛と思ひ抱く


信仰生活と習慣(下)

2008-10-17 22:26:18 | キリスト教
随想     K生

1  信仰生活と習慣(下)

 当初、この「随想」は二ヶ月毎に更新する予定でありました。
二ヶ月で無理なら、せめて三ヶ月以内には原稿を渡せるだろうと
考えておりました。しかしながら、第二回目に早くも原稿提出が
遅れ、編集者にご迷惑をかける羽目に陥りました。
 その理由は、第一回目に公表した私の「聖書日課」に躓いたと
いわざるを得ません。この「聖書日課」は、規則正しい信仰生活
を送るための一つの方便として思いついたものでありまして、新
約聖書を一章ずつ、旧約聖書を二章ずつ、毎日読み続けるという
ものです。計画通り行けば、新約は一年以内に、旧約は二年以内
に読破できるという算段でした。
 初めのひと月半ほどは、「聖書日課」は順調に進んでいきました
が、やがてその聖書の読み方に疑問がわいてきたのです。ふた月
も、規則正しく定められた分量を読み進むうちに、それが習慣化
し、いつしか読むことそれ自体が目的となってしまったのです。
習慣化することは歓迎すべきことでしょうが、読破することが第
一の目的であるかのような「聖書日課」に、戸惑いを感じてきた
のです。
 「そういう聖書の接し方があってもいいではないか。聖書を読
み、祈ることは、キリスト者にとって呼吸するようなものなのだ
から」、と主張するむきも、きっとあるでしょう。
 ここに至って、私は考えてしまいました。キリスト者は聖書を
どのような目的で読むのだろうか。それとも、呼吸をするように、
何の目的もなく日々接するものだろうか、と。
 いずれにしても、今私が行っている聖書の読み方私には、疑問
が湧いてきて、それを抑えることができませんでした。二ヶ月が
経過した頃には、ついに、「聖書日課」を一時中断せざるを得なく
なりました。
 第一回目の「随想」で、規則正しい信仰生活を維持するための
中心的柱として、「聖書日課」を掲げたのでした。それを中断した
ということは、根本的な方針転換を余儀なくされた訳でありまし
て、当然のことながら、その後の修正なり、始末の付け方を報告
するのが筆者の義務であると思いました。こういう次第で、第二
回目の「随想」の掲載が大幅に遅れた訳であります。
 そもそも「聖書日課」の計画を練る段階から、早晩このような
事態が起こることは予測の範囲内であったはずです。私は、教師
という職業に長年ついておりまして、書物と向きあうことが日常
生活の一部であった訳ですが、ほとんどの場合、調査研究のため
の書物といっても過言ではありませんでした。もちろん、調査研
究の目的以外の書物も存在することは言うまでもありません。例
えば、娯楽や喜び、あるいは感動を求めて読書するのは誰しも経
験するところです。
 私は、学生時代から漱石の小説が愛読書となり、今日まで繰り
返し漱石の文章にふれてきました。その時その時の自分の気分に
より、「今度は漱石のどの小説を読もうかな?」と自問自答の末、
漱石全集の中から一冊を選び出すのです。
 気分によって一冊を選び出す以上は、何らかの目的なり動機が
があることは確かです。では、それはどのようなものでしょうか。
明確な回答はなかなか困難ですが、一つはっきりと言えることは、
感動や、慰めや、あるいは悲劇による心の浄化、こういったもの
を期待する部分が心のどこかにあるということです。
 無意識に呼吸をするように聖書を読む。キリスト者が聖書に接
する理想の姿かも知れません。しかしながら、たいていの場合は、
難解な聖句に出会って悪戦苦闘する、というのが一般信徒の読み
方と言えるでしょう。それでも、「聖書日課」を掲げて聖書に接す
るのは、それなりの目的があるからでしょう。少なくとも私には、
その「目的」が読破することではない、と強く感じられるように
なったのです。
 今はこれ以上この問題にはふれません。聖書を読むことについ
て、もう少し考えがまとまってきたら、また改めて書きたいと思
います。
 さて、暫時中断となった私の「聖書日課」を、どのような形で
あれ、維持したいという思いは変わりません。試行錯誤を繰り返
して、自分の納得のいくものがみつかれば報告いたします。それ
が次回であるかどうかは約束できかねます。

雲流れゐて 

2008-09-02 21:12:28 | キリスト教
  雲流れゐて           古川さん


近々と仰ぎゐしビル不意に動く
            気配覚えぬ雲流れゐて


現し身は遺伝子乗せる乗り物といふ
            われを選びし遺伝子哀れむ


人ならば心ゆるせる友とならむ
            たねつけばなの咲くたたずまひ


指先に土筆弾けば吐息のごと
           淡き緑の風にただよふ


水張りし朝の田の面にあかあかと
          紡錘形の陽が昇りゐつ


                  2008年7月19日 

苦難の意味

2008-07-20 23:16:49 | キリスト教
久々の更新です。今回は最近読んだ本の紹介です。

 キリスト教における苦難の意味を書いた本ですが、
ホスピス医療の専門家が書いた本らしく、主として
ほとんど極限的な苦難とキリスト教の関係について
書かれた、正統的な書物だと感じました。大きな苦難に
向かい合うとき、信仰はどんな意味と力を持つか、
実例を挙げながら本書は説きます。

 苦難の中での当人は、どのような苦難であれ
自分だけが最悪な状況に感じられる性質が
あります。そのように感じられるときの良き
手引きになると思います。

 一言言いますと、キリスト教と苦難は本質的に
切り離せない関係にあります。何故なら
キリストの十字架の出来事自体が、
最大の苦難の出来事であるからです。
この意味を古来信者は心の
糧にしてきたのです。

    書物名 「隠されたる神 苦難の意味」
    著者   山形謙二
    出版   キリスト新聞社
    
    

              編集子哲男