※「国境の町」〜1934年(昭和9年):KIINA.2009年
https://m.youtube.com/watch?v=l_ynVNhjkCg
当時この歌を聴いた人には、この「国境」がどこを表すのかすぐに想像がついたはずです。
日清・日露の両戦争で勝利した日本は中国大陸でロシアが所有していた鉄道の権益を手に入れ、南満洲鉄道(満鉄)として会社組織を整備していきました。
昭和6年の満州事変を機に日本はこの地に満洲国を設立、昭和9年には辛亥革命で清国皇帝の座を追われた愛新覚羅溥儀氏を皇帝に迎えて満洲帝国の名乗りを上げました。
言うまでもなく皇帝とは名ばかりで、満洲帝国は全くの日本政府の傀儡政権。国際連盟の主要列強はことごとくこれを国家として認めず、やがて日本政府は国際を脱退して自ら孤立の道をたどることになりました。
そんな満洲帝国に、日本国民は様々な希望や可能性を抱いて渡って行きました。
商才のある者は新天地での成功を、貧しい農民は政府の(真実は棄民政策だったのですが)「王道楽土の新天地」という宣伝を信じて奥地の原野の開拓を、利権を求めて満洲国政府や関東軍に食いつく輩も多かったでしょう。
なかにし礼先生のご両親は牡丹江で造り酒屋を営み、先生は大変贅沢な幼少時代を送ったと書いていらっしゃいましたね。
その土地は全てかの国の人々から武力で奪い取ったもの。開拓農民の人たちが「自分の畑が持てる!」と移住した場所も、そこで生活をしていた農民を無理やり追いやって与えられた農地でした。
現在の私たちはそんな満洲国が欺瞞に満ちた砂上の楼閣に過ぎなかったこと、そこに暮らしていた日本人が敗戦によってどんな悲惨な結末を迎えたかを、歴史上で知っていますが、少なくとも昭和9年の時点では多くの日本人はこの国の広い大地に夢とロマンを抱いていたのでしょう。
「国境の町」を歌った東海林太郎さんは秋田県のご出身。今でも秋田県随一の名門校である秋田高校(旧秋田中学)を出て早稲田大学に進学しました。
本当はクラシック音楽を勉強したかったのですが、満鉄社員だったお父様の大反対でその道を諦め、大正12年に同じく満鉄に就職しました。
ところが時節柄というのもあったのでしょうか、産業組合について執筆した論文が「左翼的である」と目をつけられ満洲の片田舎の図書館長に左遷されてしまいました。
仕事上のミスではなく思想を危険視されての左遷では、この先出世の見込みはありません。
昭和5年、東海林さんは意を決して満鉄を退職し日本に帰国、本格的に声楽を勉強し、その後流行歌の歌手としてレコードデビューしました。
昭和9年3月に発表された「赤城の子守唄」は大ヒット、同じ年に出されたのが「国境の町」でした。
雪の荒野を走る橇も鈴の音も、山を越えた先にある他国も、東海林さんにはきっと馴染みの深い光景だったのでしょう。
多くの聴衆は東海林さんの朗々たるバリトンの歌声に、海を渡った先にある広い大陸に夢やロマンを抱いたことでしょう。
その東海林さんご本人は、ご自分の夢を叶えるために満洲を捨て日本に帰ってきました。東海林さんの夢は満洲ではなく日本にあったんですね。そのことに何だか皮肉なものを感じてしまいました。