さかなの眼

眼からうろこが落ちる「さかなの眼」です。

[乱歩の土蔵」

2005-01-29 | Weblog
よく言えば牙の鋭い深海魚が潜む濃紺の深海、悪く言えば憂鬱な
濃紺の色で覆われた散らかり放題の部屋。気分次第で部屋の雰囲
気が変わっていく。週刊誌から始まって月刊誌、建築の本、経済
経営の本、エッセイ集それにあんまり読まなくても小説と、何で
もありのそれこそごちゃ混ぜの世界。自分の部屋の事である。何
年か前に「捨てる技術」(題名不確か)みたいな本がベストセラー
になったけど立花隆が一生懸命に反論していたことが思い出され
る。もちろん立花隆の世界ほどでもなくても似たようなもの。2150mm
の天井高に壁と天井がつや消しの濃紺色、寒冷紗総パテしごきで
塗り上がっているからおかしな部屋と言えばおかしい。気分次第
で海の底で世の中を窺い戦う気分になったり、暗い憂鬱な青の気
分になって落ち込んだりする。本が溢れ出したベッドの上で本を
掻き分けながら、今夜も小さなノートパソコンに向かって書いている。
 今日の話は「機能」と「かたち」、もう少し言えば「アクティビティー」
と「場」、後は「屋根裏の散歩者」でも思い出してもらえれば・・・・・。

  「乱歩の土蔵」

「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」江戸川乱歩の「幻影城」。
東京西池袋にある乱歩が「幻影城」と自称した面影そのままの土
蔵がある。豊島区が土蔵を管理維持していく費用負担がかかりす
ぎ、立教大学に移管することになったと先日のテレビで報道され
ていた。戦災で焼け野原となった中でも乱歩邸は生き残り、書庫
として執筆活動に使われた土蔵はそのままのかたちで残っている。
昭和9年から31年間71歳で倒れるまで乱歩はこの地でこの土
蔵で書き続けた。そして一本のロウソクの火を灯しながら乱歩の
世界をかたちづくり、「幻影城」の書物の世界を彷徨ったと言わ
れている。

 「書斎があれば書物の世界に耽ることができる」。誰でも自分
のスペース、書斎が欲しい。自分の好きな本に囲まれて休みの日
は読書三昧か、好きな趣味の世界に浸りきれるスペースが欲しい。
そしてたまには毎日の気になったことを書き留めておくことので
きる小説家の使っているような大きな文机へと思いは果てしなく
拡がっていく。ところがなかなか住宅事情が許さない。狭い敷地
に家を建てるならば真っ先に削られていく。総予算の枠組みから
あっさり消えていくのも欲しかった書斎。「書斎があれば書物の
世界に耽ることができる」思いだけが引きずられていつも残っていく。

 「書斎がなくても書物の世界に耽ることができる」。「仕切ら
ずに暮らす」(住宅特集、03‘4月号特集)。DINKSに象徴され
る家族の生活スタイルも多様化、個としての家族がそれぞれの自
立した生活スタイルで生活していく。1970年代に前衛的な住
居として取り上げられた「個室群住居」。個室から外部へと直接
出入り自由、個室を結び付けているのはホール、後は好きなとき
に個人個人で食事をするスペース、水廻りがあるだけ。個として
の生活スタイルが変化したなら行き着く先は「個室群住居」だっ
た。現実は逆、個としての存在を主張するはずの壁まで殆ど取り
払われできるだけ広いワンルーム、一室空間的住居(難波和彦)
へと向かっている。大きなワンルームの中にリビング、ダイニング、
寝るスペース、そして透明ガラスで仕切っただけのバストイレが
組み込まれている。書物の世界はリビングに居ながら、食事をし
ながら、音楽を聴きながら、寝ながら耽る一室空間的住居。

 「書物に耽るから、かたちとしての書斎が生まれてくる」。「形態
は機能に従う」、「機能的なものは美しい」。機械主義の延長と
しての無駄なものは省く、「機能」と「かたち」、生産システム
と一体になった思潮が建築の近代主義。透明な均質空間。勘違い
してきたのが戦後の住環境の向上の名の下に呈示され続けてきた
モダンリビングの概念、「N―LDK」。そこで行われるであろ
うと予測された「機能」付けられたスペースの組み合わせが「N-
LDK」。「機能」だけが浮き彫りになるからつまらない。今と
なっては古臭い平面プランと感じてしまうのも「N-LDK」。
書斎、応接間、居間といった機能を明示する部屋名のパズルから
抜けられない。台所で原稿を書いていたのは脚本家橋田寿賀子、
「幻影城」の乱歩の土蔵も一人歩きしていく。乱歩の子息平井隆
太郎、「おやじはいつも自分の部屋の寝床で、腹這いになって書
いていましたよ」。

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (もふ)
2005-01-29 10:43:56
○○をする場、と定義づけられた空間ばかりになってきているのは町の中でも同じことですね。

いわゆる「空き地」とか「原っぱ」はなくなって、きれいに整備され「野球をしてはいけない」公園が出来上がるか、土地の有効活用のため駐車場になっていくかです。

今日のエントリーを読んで、日本の家屋に「縁側」の存在がなくなったという事実を考えました。ああいったラフな交流の場、空き地の存在もそうですが、そういう家の中なのか外なのかハッキリしない場所がなくなっていったことで、誰かの家を訪問するにはきちんと呼び鈴を押し、手土産持参でないといけないような風潮が出来上がったわけです。



本を読むのに決まった空間はないけれど、私は電車に揺られながら読書するのが一番好きですね^^
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Unknown (さかなの眼)
2005-01-29 11:09:52
インターホンも押さないでいきなり台所まで入ってくるような社会にはうんざりする。話は戻って「冬ソナ」のラストシーンの両側個室、真ん中が屋根だけ架かった半外部の空間構成は建築に携わった人間なら誰でもやってみたい空間構成です。廻りの細部のディーテールが「冬ソナ」ではいまいちですが・・・。
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混沌から生まれるもの (五代裕作)
2005-01-29 19:09:29
安部公房の初期短編集「夢の逃亡」の中に収められた短編「名も無き夜のために」という小説を読んだことがある。昔に読んだのでよく覚えていないが戦後すぐの貧しい時代,金の無い主人公が際限なくひたすら回り続ける山の手線の中でリルケの「マルテの手記」を読みふけるシーンがあったように思う。記憶違いかもしれないが。大江健三郎の「我らの狂

気を生き延びる道を教えよ」しかり太宰治の「晩年」しかり,後に文豪と呼ばれる人々の初期の作品に私は惹かれる。成熟期の作品よりも多少,話の構成は拙く文章のスタイルが確立していなくても,ギラギラした才能だけが先走り,苦闘しているように感じるからだ。「牙をもった深海魚」。実に結構なことだと思う。読書においては秩序だった読書よりも混沌(乱読)から新しい発想やアイデアが生まれることはよくあることである。もちろん国家秩序が無くなっては困るわけだが・・・。
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Unknown (さかなの眼)
2005-01-29 21:43:46
場の事を考えればいろいろありますが、付け加えて言えば、例えば半外部と内部と外部いろんな場が一義的ではなく複雑に、トポロジカルな空間の反転が繰り返されれば面白い。外部であって内部、内部であって外部と言う事だと思います。後は「屋根裏の散歩者」の映画の最後のシーンは強烈だった。廃墟となった都市の中で手漕ぎの井戸から出ているのは水でなくて血。一生懸命押しながら終わるラストシーンはその後ずーと引きずった。こういった映画がほんとに一時期広まった。
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