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Unknown (土八路)
2012-03-18 09:04:59
打田先生と横山先生
曾强∕作文 陈尚士∕翻译
私の四十年ぐらいの人生は、多くの先生を経験したことがあります。その中には、小学とか中学とか中等専門学校とか大学とかの先生もあれば、予備干部養成とか炭鉱頭の資格養成とか文学指導とか芸術特長とかの先生もあります。その中の先生を数えれば、百人も超えています。けれども私に深い印象を与えてくれたのは、打田と横山という二人の日本人の先生です。
その方々は私が中等専門学校で読んでいた頃の先生です。
あの頃、私が“農民の服”を脱いで入った学校は、普通中等専門学校だったけれども、国際連合アジア開発署が中国石材工場の発展を援助する為に、初めてこの学校を建てたのです。全国の範囲で学生を招き、外国の専門家によって授業をします。このような規格の中等専門学校は、たぶん全国でも一か所しかないでしょう。これはあらゆる同級生を含んだ1980年代の、世の中を知っていない私達を驚かしました。当時の噂によると、われわれの学校は採鉱を驕った山西鉱業学院に統合されようとするそうです。私達はたいへん幸運に恵まれて自動的に中専生から大学生に昇格する可能があり、暖かい春風にからかわれたように、心に野草を込めて本当なことだと信じました。
国際連合の援助してくれた外国の石材専門家は打田先生です。
打田先生は日本の埼玉県の方です。お体が高く、顔付きが角々しく、道歩きがドンドンの音を出します。一目で見れば“武術稽古人”のようです。お顔にはいつもしなやかな笑いが溢れています。この笑顔には傾聴したり賛美したり激励したりしてくれるものがあれば、善良だったり謙遜だったり尊重だっりしたものもあります。世故に長けるものは少しも無くて、恰も誠実寛容で親切にしてくれる年配者です。打田先生の話した話が特にユーモアで、趣きに富むものです。多くの指導者の光臨していた入学式でも、打田先生は両国文字の発音が近似しているのを利用して、冗談を言って、“名誉”という校長の彼は、つまり “没有”という意味の校長です。彼は “心配なくそのまま訳し出してください”と通訳さんに言いつけました。それでそこにいた国家、省、学校のある指導者が気不味くなって、ハハハとお供して笑わざるを得なくなりました。
打田先生の姓名もとても可笑しいですが、最初の授業時間で自己紹介をしてくれたのは、このようです。復姓の打田は彼の姓で、名は勇で、合わせて言えば農家から出身した力を持った労力だという意味です。彼は逞しくて自由でたっぷりしたジャケットも好きです。打田先生はそう言いながら腕の筋肉を高くして男の健康美の形で誇張しました。打田先生がこのように通俗的に自嘲した解釈を通じて、外国人と初対面した私達の緊張感を忽ち解消してしまって、クラスの全員が誰かも束縛されないようになりました。
もちろん、打田先生の授業はさらに面白かったです。彼の授業した内容は専業性が強過ぎて、国内にはそれに関する読本がないので、自分で刻印した日本語のテキストを採用して講義してくれます。実は石材に触れたことがなくて、日本語を習い始めた私達にとっては、ちっとも読み取れませんでした。そのうえに、打田先生の授業はテキストを離れて講義を展開することもあるので、通訳まで理解できない場合もあります。こうすると、彼の講義した内容は、ばらばらで日本語もあれば、英語もあり、偶には中国語の単語も挟んでいました。そして板書した絵や体の仕種やいろいろな音響などを一括に組み合わせて授業します。授業がこういう風になると、打田先生のいた教室現場では謎々遊びをしたり人を笑わせたりする意味もあり勝ちです。動きが好きで好奇心が強い私達は特に打田先生の“勢い付け”のような授業が聞きたいです。
打田先生は学生との関係が溶け合うだけでなく、日曜日になると、学生の本籍によって数回で別々に私達を招いてお宅でご馳走を招待してくださいます。打田先生は運城市の最高級の運城ホテルに配置され、日本式のユニット部屋に泊まっています。木質の床、玄関、畳、それに閑静でやや沈鬱な音楽が人々を異国他郷に置かれているようです。その時、まず出迎えに出てきたのが、打田先生の奥さんです。奥さんは偶には授業をして日本語を教えてくれます。奥さんは実際の年齢が50歳前後ですが、見た目は多くとも40歳と見えます。顔付きが白くて美しい、容姿端麗な彼女は、唐代の美人のようですね。奥さんと打田先生は“よく似ている顔”を持っていて、いつも優しくて丁寧でニコニコしている様子です。ずっと世間を知らなかった私は、心が暖かくなり、感激してならないのです。雁北地区に属する男性学生の私達は、打田先生のお宅で餃子を作ったり、清酒か水を混ぜったお酒を飲んだり、日本語で物語を語ったり、笑い話を話したりして、笑い声が部屋に一杯になって、その楽しみが和やかで、丸で楽しい大家族のようです。
ところで、日本語を教授してくれた横山先生が打田先生全然違うのです。
横山先生の全称は横山雄一と言い、日本の東京に生まれた人で、曾て大学の教授でした。横山先生は顔付きが白くて綺麗で、気品を持った金箔枠の眼鏡を掛けているので、更に学者の風格が現れています。横山先生は日本語の発音が純正で、人柄が謹厳実直で真面目な人間ですから、人に対しての要求も厳し過ぎて、勝手に学生と談笑することがないのです。
山西では運城という所が囲炉裏と言われています。夏になると大変暑くて堪りません。少し動かすと汗が流し出してしまうのです。それにしても、横山先生が決して襟を解いたり袖を巻いたりサンダルを履いたりすることなどをしないです。それだけでなく、私達にも“契約三条”を取り決めて、教室ではスリッパを履いてはいけない、短いズボンを穿いてはいけない、チョッキを着てはいけない。そんな行為は決して教養のある文明人のやることではないと、横山先生に強調されました。
“契約三条”を決めてから程なく、ある午後、横山先生の授業中のことですが、静かで鬱陶しい教室に、突然慣れっこになった痰吐き声が高く聞こえてきました。ある同級生の喉が激しく涌き、口から力を出したと共に“あほーぺ!”声のデシベルがやや心を驚かすほど響いたらしいです。幾つかの座席を隔たる私さえも、無理すぎる行為だと思って、吐き気をさせるまでの感じがしますけど、私が習慣のままで笑おうとするのを我慢できず、ほとんど笑い出そうになったのです。私は笑声を出すのを抑えて、びくびくして事態の発展を待つように、板書をしている横山先生のほうへ注目しました。横山先生ははっと身を回してきて、顔付きが変形してしまって、目付きが酷く変わって、恐ろしい形相で“馬鹿野郎!中国人、馬鹿野郎!……”と罵ったと共に、手に持った伸縮できる筆型教鞭を、容赦なくあの痰を吐いた同窓へ投げ付けました。
クラス全体が驚いて厳粛な色に正して、誰でも思わなかったのは、横山先生がこんな激しくて荒っぽい狂った対応をしてくれたのです。今になっても私が尚疑いを持っており、我々の中国人や醜い中国人に対して、横山先生の内心には深い軽蔑感があるのではないでしょうか。
私が中国人としての尊厳を守りたいと思いますが、いっそう分かるようになったのは、堅い文明基礎から支えていない尊厳とは、力がそんなに欠けていて、まるで潰れてきた敗残兵のようですね。そうしたら、軟弱だったり屈辱を受けたり黙認したりしなくてはならないのです。それから何年かを経っても、私が習慣的に不文明な仕打ちをした後、思わず横山先生の鋭い乃至悪辣な目付きを思い出して、その目付きが私などの“醜いもの”を照らし続けています。
……
その後、私たちはこの事の話に花が咲いて、皆さんが心が穏やかでなく、ぷんぷんとして“あの戦時の頃、横山がきっと中国侵略の戦争に参加した罪の許されない日本人に違いない”と認めました。まもなく卒業になる日が来て、私達は既に“没有”という校長の打田先生とよく知り合い、親しい関係になったから、話をする時、避けることは何もなくなったのです。雰囲気が活躍していた教室のことですが、“年配が先生のような日本人の人々は、きっと中国への侵略戦争に参加したことがあるでしょう”という私達の質問に対して、打田先生がすぐ厳粛にしてきて、過ちを悔やむ顔付きが出てきました。さらに“戦時ごろ横山先生がたいへん悪い日本の侵略者じゃないか”と聞かれた時、打田先生がすぐ左右へ振り返って見ながら、別のことを言い換えるようになりました。いつも楽天的な打田先生は、あの一日ずっと顔が鬱積していたようです。
打田先生は心からこれらの中国学生の私達を捨て去ることができないので、2004年わさわさ奥さんを連れて、日本から山西に来られていました。80歳近くになった打田先生は、気宇が相変わらず元のままで、元気が一杯で、動作の鈍いことは全くなく、ただ記憶力が減っただけです。打田先生の奥さんも、陶磁人形のように風姿が当年より劣らず、15年ぐらい時間が経ったのに、お見舞いに来たそれぞれの学生の名前も言い出すことができます。その日に、私が心に埋めた多年の疑念を解きたいと思ったが、何度も躊躇って先生の中国行きの興味を背けることは、したくなるから、今になっても打田先生と横山先生は、戦時頃中国へ侵略したことがあるかどうかは知らないわけです。その間、横山先生の近況も伺いたいですが、口下手ですから、日本語でどう話しますかは、分かりません(申し訳ないですが、私の日本語は多年使わなかったから、もう忘れてしまって、幾句か簡単な挨拶しか話せません)。別れる際にして、打田先生夫婦が何度も“お便りを書いてくれ”と言い付けて下さいました、けれども、私が会話さえも出来ず、手紙は自然に書けないはずで、書く勇気までもありませんでした。
このようにして、この二人の日本人の先生を思い出す限り、私の目の前に絶えず揺れたり、織り合ったりする二つの影像がはっきり現れてきます。一人は和やかで寛容な打田先生で、ご夫婦が霧の立った蜃気楼の仙人国から微笑んでゆっくり私のほうへ歩いて来ました。もう一人は横山先生なのです。ずっと先生と称えてきたのは、一つは彼は確かに私を教えたことがあって、私の真実な先生なのです、一日でも師としてくれれば一生涯で尊ばなければなりません。もう一つは、彼には確かに尊敬する価値のあるものが多くて、例えば規則とか厳密とか……しかし、中国人の陋習に対して彼が激しく怒ったり憎んだりして、決して疎かにしない様子とか、中国人を馬鹿にするような様子とかは、いつも私の心を縺れさせています……
細心な家内がこの文章を読み終わると、鋭く問題を見つけました。日本が降伏した頃、これらの先生は十歳ぐらいの子供に過ぎないね……私の様々な疑惑がはっと解いてしまいました。でも、間もなくある物がやはり浮かび上がってきて、打田先生と横山先生が日本の二つの極端に組み合わせていると思います。
 
 
 
Unknown (土八路)
2012-03-18 09:08:15
打田先生和横山先生
文∕曾强
我这四十多年,经历过很多老师。小学的,中学的,中专的,大学的,后备干部培养的,矿长资格培训的,文学指点的,艺术特长的,等等,一路数来,不下百位。但对我印象最深的,却是两位日本老师,打田先生和横山先生。
这是我读中专时的两位老师。
我当年脱了“农皮”考上的学校虽系普通中专,可它是由联合国亚洲开发署为援助中国石材工业发展而新建的学校,全国招生,外国专家授课。如此规格的中专,怕在全国都绝无仅有。这就叫1980年代的没怎么见过世面的我,包括我的所有同学,都大吃一惊。以至于当时风传,我们学校要归并到以采矿著称的山西矿业学院,我们可能十分荣幸地自动从中专生升格为大学生,犹如馨暖的春风般撩人,我们都心怀野草,信以为真。
联合国援助我们的这位外国石材专家,便是打田先生。
打田先生是日本玉县人。他身材魁梧,长相楞楞角角,走路咚咚有声,一看就像个“练家子”。他脸上总挂着轻轻盈盈的笑。在这种笑意里,有的是倾听、赞赏和激励,也有的是和善、谦逊和尊重,但绝无一丝世故,俨然是一位真诚而宽厚的长者。他说话呢,特别风趣幽默。即使在一大堆领导莅临的开学典礼上,都利用两国文字谐音开玩笑说,他这个“名誉”校长,就是“没有”校长!他还安慰翻译不要担心,照原意说。这就让在场的我们国家、省和学校的一些领导,只好呵呵呵尴尬地不得不陪着笑。
打田先生的姓名也很怪,他第一节课给我们自我介绍就说,他复姓打田,名勇,就是出身农家的一个好劳力的意思,所以他勇武有力,也喜欢穿宽大随意的夹克式工装。他这样说着,还做出大臂肌肉高高隆起的健美男的夸张造型。“没有校长”这样下里巴人般的自嘲而通俗的解释,一下就化解了我初次直面外国人的紧张感。全班同学谁都不再拘谨。
当然,打田先生讲课更有意思。由于他讲得内容过于专业,国内没有相关书籍,课本就用他自己刻印的日文简册讲义。对于从未接触过石材和初学日语的我们,其实根本看不大懂。加之打田先生讲课,往往超讲义发挥,因此有时连翻译也莫名其妙。这样,他的课,往往东一句日语,西一句英语,偶尔还夹杂个别汉语单词,并且,板画,全身动作,各种声响等能配合的一起上,于是,他的课堂就颇有现场互动猜谜逗趣的意思了,这就叫猎奇好动的我们,都特别愿意听打田先生“造势”般的讲课。
不仅课堂关系融洽,打田先生还每个星期天分批次、分地区邀请我们同学去他家就餐。他被安排住在运城市最高档的运城宾馆的日式套间,木质的地板、玄关、榻榻米,还有清哑而略带沉郁的音乐,仿佛使人置身异国他乡。这时,打田夫人首先就迎出来了。打田夫人偶尔也给我们讲课,教日语。她实际年龄应该在五十五上下,但她面容白美姣好,丰腴如唐朝仕女,看上去最多四十,她跟打田先生颇有“夫妻相”,而且也从来都是笑吟吟客客气气和和善善的样子。这就叫过去一直“山汉”的我,心里特别暖和,感动。我们一帮雁北男生在打田先生家里,包饺子,喝清酒、或者兑了开水的汾酒,用日语讲故事,说笑话,笑声一片,其乐融融,宛如快乐的一家。
但教授日语课的横山先生就不一样了。
横山先生全名横山雄一,日本东京人,曾系大学教授。他面皮白净,戴一付斯文的金边眼镜,更显学者风范。他日语口音纯正,不苟言笑,一本正经,而且要求苛刻。从不跟学生随意说笑。
运城,有着山西火炉之称,夏天特别炎热,动辄汗泼流水。但纵使这样,横山先生不仅自己绝不松开衣领、挽起衣袖或穿双凉鞋之类,而且对我们也约法三章:上课不准穿拖鞋,不准穿短裤,不准穿二股筋背心。他特别强调,这绝不是一个有教养的文明人所为。
大约就在“约法三章”不久,那天下午,横山先生讲课。静静的沉闷的教室里,突然传来我们过去都觉得习以为常的响亮的吐痰声。随着那个同学喉咙强烈的涌动和口腔发力,“啊呼,呸!——啪!”分贝巨大得似乎有些惊心。隔几个座位的我都觉得有些过分,甚至恶心,却又习惯地几乎忍不住要笑。笑,当然是不敢的,就惴惴不安等待下文般的看正在板书的横山先生。只见横山突然扭转身子,面容完全变形,目露凶光,嘴里恶狠狠地咒骂着“巴格牙鲁!中国人巴格牙鲁!……”同时,他手中的笔型伸缩教鞭毫不容情地就摔向了那个吐痰的学生!
全班惊肃,正色。我的每一个同学都绝没想到,横山先生竟然有这样激烈而粗暴的疯狂回应。以至于直到现在,我都怀疑,横山的骨子里,是不是对我们中国人,我们丑陋的中国人,有一种深深的,不屑!
我想捍卫作为一个中国人的尊严,可我更知道,没有坚实文明基础支撑的所谓尊严,是那样的乏力,犹如溃退的败兵。于是只能软弱,只能忍受,只能默认。这就叫我在多少年后作出很多习惯不文明小动作的时候,都不由得想起横山那犀利甚至有些毒辣的目光,继续刺亮我的这些“小”来。
 
 
 
Unknown (土八路)
2012-03-18 09:09:37
后来我们同学议论起此事,都忿恨地认定,横山当年,一定是一个参加过侵华战争的十恶不赦的“小日本”。快毕业的时候,我们跟“没有”校长打田先生早混熟了,说话有时就不避讳什么。有次气氛活跃,我们问打田先生,你们这些人,一定都参加过侵华战争吧。打田先生马上正容,颇有悔过神色。再问横山老师当年是不是一个很坏的日本鬼子时,打田先生马上顾左右而言他。我发现,那天,一贯乐天的打田先生,好像一直郁结着脸。
……
心中割舍不下我们这帮中国学生的打田先生携夫人,2004年又专程从日本来山西。年近八旬的打田先生气宇依旧,面容不改,精神矍铄,全无老态龙钟,只是记忆稍差。打田夫人也瓷人般风采不减当年,十五六年过去了,她竟还能一个个叫来所有去看望他们的学生的姓名。那天,我想证实一下心存多年的疑虑,犹豫再三,还是不愿拂逆老师中国之行的兴致,于是,至今不清楚打田先生和横山先生当年是否确切曾入侵过我们中国。其间还想探问一下横山老师的近况,可我笨舌秃嘴,更不知道用日语如何言说(惭愧,由于很多年不使用,我的日语基本上忘光了,只能说几句简单的问候语)。临别,打田先生夫妇一再嘱咐我们给他写信,但我,会话都不会说,信,自然不能也不敢写了。
这样,只要我想起我的这几位日本老师,眼前总泾渭分明地出现两个不停晃动、交织着的影像。一个是和逊而宽厚的打田先生夫妇,他们伉俪仿佛从氤氲着海市蜃楼的仙国,款款的,一步步微笑着向我走来。另一个就是横山先生。我之所以一直称他为先生,一者,他的确教授过我,是我真正的老师,一日为师,终身必尊;另一者,他也的确有很多值得我敬重的东西,比如规矩,比如严谨……但他那对中国人陋习愤世嫉俗绝不苟且的样子,他那似乎看不起中国人的样子,总叫我内心纠结……
细心的妻子读罢这篇文章,敏锐地发现了问题:日本投降时,这些老师不过都是十多岁的孩子啊……我的疑团猛地开释。但不久,还是也有一种东西泛上来,感觉打田先生,和横山先生,似乎构成了日本的某个两端。
 
 
 
Unknown (土八路)
2012-03-18 09:15:53
曾强の文章を訳しだした。けど日本語が通じていますかどうかは心配です’河本さんのご意見が聞きたいです。
 
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