2018年8月18日の記事・加筆改訂(無断引用・転載を禁ず) ロシアやスラヴ諸圏の楽曲出版物の誤訳、誤植について③
「村のハンの木」って何?
かつて飯塚書店という出版社から『ロシア民謡集』という歌集が出版されていました(現在は絶版)。お持ちの方もいらっしゃるかと思われます。
さまざまな曲を日本に紹介した功績には大きいものがありますが、一方で、パイオニアにつきものである間違いが多々見られるのも事実です。 その一例。 本書p.228に『村のハンの木』という題名の曲が載っています。
訳詞は楽団カチューシャ。言わずと知れた、ロシア楽曲紹介のわが国のパイオニア。しかし、この題名には大きな問題があります。訳者は三重の誤りを犯しました。
その1。原題は В деревне было Ольховке
どこにも"ハンの木"なる訳語に対応する原語はありません。
それらしいのは Ольховке ですが、この語は大文字で始まっていることからも明らかなとおり固有名詞。この場合は地名です。小文字で始まる普通名詞の "ハンの木" ではありません。訳者はまず、語学上の基本問題としてこれに気づかなくてはなりませんでした。 前置詞 в ヴ は英語の in に相当。деревня ヂェりぇーヴニャ は英語の village の意味。つまり В деревне ヴ・ヂェりぇーヴニェ は英語なら in the village の意味です。было ブィロは英語のbe動詞の過去形wasに当たり「…にあった」という意味になります。
その2。訳者は Ольховке を主語のように扱っていますが、違います。もしもこの語が主語であるならば、動詞 было が中性名詞に対応するものであることと一致せず、文法的に矛盾します。 なぜなら、この語 Ольховке (この語形は前置格で、場所「~」を示す) の主格は Ольховка であり、女性名詞だからです。女性名詞 Ольховка の要求する動詞は было ではなく была ブィラでなくてはなりません。 実はこの題名は語順転倒・入れ替え・語の省略が起こっているのです。解りやすい語順で書くならば (Это) было в деревне Ольховке. (It was in the village Ol'khovka.)とでもなるところです。 問題は Ольховке オリホーフケの語です。деревне ヂェりぇーヴニェとОльховке オリホーフケが離れているために、訳者はこの語が前置格に格変化していることを見失い Ольховке オリホーフケを苦し紛れに主語であると錯覚・誤解したのです。
こうして固有名詞である地名 Ольховка "オリホーフカ" と普通名詞 ольха "ハンの木"とが取り違えられてしまいました。
つまりこの曲は「村のハンの木」という題名ではないのです。では、何という題名か。
В деревне было Ольховке を試訳するならば
「オリホーフカ村でのことだった」とでもすべきものでしょう。 ※「オリホーフカ」で検索するとロシアだけでも30ヶ所以上あることが分かります。 その3。そもそも、楽団カチューシャによる訳詞それ自体にも「ハンの木」はまったく登場しません。訳者はなぜ、これに疑問を持たないのか。不思議としか言いようがありません。歌詞の面からも誤りに気づくことができたはずでしたが、このチャンスも失われてしまいました。
さて、楽団カチューシャの訳詞では、リフレイン部分が 咲いた 咲いた カリーナ エフ 咲いた 咲いた カリーナ エフ カリンカ アイ マリンカ 茂みのかげで うぐいすうたう エイ エー エフ となっていますが、ロシア語歌詞にはこのような内容はありません。当該部分のロシア語歌詞の大意は次のようなものです。
ああ、わらじ、あなた、わらじ、私のわらじ わらじとわらじ あなたは私のわらじ 菩提樹の皮で作ったわらじ あなたは歩く、歩く 親父は菩提樹の皮の束を蹴って 新しいわらじを編む (中島章利訳)
多少の無理を承知で「わらじ」と訳したのは「ラプティ」のこと。靭皮(じんぴ)製の履き物、樹皮でできた百姓靴。靭皮とは植物の内皮のこと。甘皮。
《ラプティ》 この歌は、村の若者と娘の軽妙な恋の歌ですが、楽団カチューシャの訳者は、おそらく「ラプティ」を含むロシア語原詩の訳では聞き手に内容が伝わらないと考えて、「カリンカ」とよく似た内容の歌詞を当てたのではないかと中島は推測します。
《ボーカルトリオ・レリークト》 動画の中にさまざまな「ラブティ」が登場する。
《セルゲーイ・レーメシェフ》[1902-1977]