母の事、そして父の事…いつかは家族の事

他人のために生きた母の事を自分のために綴ろうと始めたブログです。

母の癌治療開始

2023-01-14 18:12:00 | 日記
県立病院に行くと決め、紹介状を書いてもらい、予約も取ってもらった。そして、その日の前日、実家に帰った。
母は、旦那さんは大丈夫なのか、家は大丈夫なのか、次男は大丈夫なのか、お姑さんは大丈夫なのかと1日に何回も心配して訊いて来た。
嫁いだら嫁ぎ先が最優先だと思っている世代。いつも、主人に気を遣っていた。

その反面、なぜ姉がしないのかと言う不満も漏らした。そして、最近ではあまり姉が訪ねて来ない事も不満に思っていたようだった。

翌日、高速を使って1時間弱、県立病院に着いた。駐車場の係の人に車椅子を用意してもらった。この時点で、車椅子じゃないともう歩けないのか…と言うのもショックだった。

初診の手続きや予診であっちこっちに行った。大きな病院なので分業が進んでいる。
『次はどこに行けばいいのかとか自分達みたいな年寄りには全然分からん。姉ちゃんも分からないはず。だから、お前に頼んだんだ。』と母は妙に納得していた。

予診係の看護師さんは、偶然にも実家近くの出身で、母のかかりつけ病院にお父様がかかっているとの事だった。もちろん、母と方言でやり取りしている。しかも、なぜか母にとって私の声より聞き取りやすかったようで、耳が遠い事に気付かれないくらいスムースにやり取りしていた。やはり、こっちにして正解だったと安堵した。

しかし、予診で37℃台の微熱がある事が分かった。実は、これも後々大きく影響して来るのだが、母も私もあまり気に留めていなかった。

やっと担当医の診察の番になった。信頼できそうな女医さんだった。先生からは、コロナ禍のせいで現状あまり手術は行っていない事。それは、若い人でも同じで、なるだけなら薬で抑える方針である事が説明された。かかりつけ医は手術適応だと思い紹介状を書いていたので、このような説明になったのだと思うが、わざわざ若い人でも…と説明されたのが、逆にやはり年齢のせいなのか…と思えてならなかった。なので、『先生、私は母は100歳以上生きると思ってます。だから、積極的に治療してほしいのですが』と言った。後悔のないように、言いたい事を言おうと思っていた。そこで、先生は、母に『手術はどう思いますか?』と訊いた。母は、『必要ならしますが、なるだけなら、今更痛い思いはしたくないです』と答えた。なんで手術したいって言わないんだ!と内心思った。
『ですよね。やはり、まずは薬で様子を見ましょう。もちろん、年齢にしては、とてもお元気なので、必要なら手術も視野に入れますね。』と言った。

そして、その日は、血液検査と尿検査、薬が効く癌であるかどうか調べるために、もう1度組織を採る事になった。
かかりつけでの組織採取が痛くて、ひどく内出血している事を伝えると触診し、『本当ですね。高齢になると血管が脆くなり、こうなる事もあるんですよね。もしかしたら、うちでも同じようになるかもしれません。』と言われた。母は、ちょっと嫌そうだった。

採尿する時は、一緒にトイレに入った。親子とは言え、ひどく踏み入ってる気がしたが、考えないようにした。トイレットペーパーを用意してあげていると、そんなに使わなくていい!と怒られた。こんな風にずっと辛抱して来たんだろうなぁと切なくなったが、ダメだよ、もっと使わないとと言い返してしまった。
組織の採取は、今回は痛くなかったと喜んでいた。

血液検査と尿検査の結果を待つ間、母は既に疲れており、寒いと言い始めた。念のために薄手のカーディガンを持って来ていて助かったが、それでも、寒い、待ちくたびれたと言っていた。病院に着いてから3時間程経っていた。私は、飲み物を用意して来なかった事に気付き、慌てて買いに行った。

しばらくして、また診察室に呼ばれた。内科的には何の問題もなく、先生が驚いていた。母もそれが嬉しく、また自慢でもあったので、『そうなんですよ。病気など今までした事なくて、入院したのは出産の時と膝の骨折の時だけで、乳癌なんて言われてびっくりしたんですよ。』と微笑みながら話していた。

『ただ、尿検査と血液検査の結果、どうやら尿路感染症になってるようです。熱も、そのせいだと思うので、清潔にしておいてください』と言われた。ただ指摘されただけで、薬の処方もなかった。

組織検査の結果は、3週間後に出るとの事だった。都合よくお盆前だったので、8月12日に予約をして帰った。

その日は実家に泊まった。しっかり洗うんだよと言って、母にシャワーをさせた。洗ってあげるのもはばかれる部位なので、1人でシャワーさせた。シャワーを終えた母は、しっかり洗ったと言った。
でも、今思えば、しゃがむ事もできないのに、きれいに洗えてるはずがなかった。しかも、母はなぜか、昔から、そこだけは石鹸で洗ってはいけないと言っていたのだ。
そんな事にも気付かず、毎日ちゃんと洗うんだよと念押しして、翌日、自宅に戻った。

どこの病院にするか…

2023-01-14 11:52:00 | 日記
手術のできる大きな病院に行くように言われたものの紹介してくれる訳ではなく、こちらで決めたら紹介状を書いてくれるとの事。

ここで姉から言われたのは、治療の間だけでも私が引き取ったらどうかと言う事だった。

上の姉は、離婚しており、子供達も独立し1人暮らしをしていたが、ある事にハマり、そのために本業に加えアルバイトを掛け持ちしていた。そして、時には体調不良の下の姉を遠くの病院に連れて行ったりしていた。多忙を極めていたのだ。そのため、母の事は、実際二の次になっていた。もちろん、月に1度の母の病院には付き添い、買出しもしてくれていたが、私の主人が母に宅配のお弁当を送るようになってからは、あまり顔を出していなかったようだ。

でも、理由はそれだけではなく、姉達は父の連れ子で、母と血が繋がっているのは私だけだった。これが1番大きな理由だと思う。

最後の親孝行だと思って、引き取ってみないかと姉に言われた時、即答できなかった。

母は、数年前に膝を骨折し、家では歩行器を使って歩いていた。実家は、田舎にある昔ながらの和風な家で、段差もなく、歩行器で歩くのに差し支えないくらいの広さがあった。
一方、私が住んでる家は、主人がこだわり建てたもので、お風呂が2階にあり、母を引き取るには大きなネックとなった。リビングもステップフロアになっており、足の不自由な母には住みづらい造りだった。

言葉も大きな壁になっていた。
私の故郷は方言が独特で、主人や子供達は、私の両親が話す言葉が3割程しか理解できなかった。
コロナ禍での入院となると、面会もできない。そんな状況で方言しか話せない母は心細いのではないか。しかも耳が遠い。病院側とコミュニケーションが取れないのではないかと思った。

父の供養の問題もあった。まだ納骨しておらず、父の遺骨は実家にあった。母は、毎日欠かさず、ご飯を炊いて供えていた。

今となっては、どれも言い訳でしかない。私の中にめんどくさいと言う気持ちがあった事、自分に介護ができるだろうかと言う甘えがあった事は事実で、私は本当に最低な娘だ。

それでも、一応、自宅近くの病院もリサーチし決めてはいたのだが、結局、実家のある県の中央部の病院に決めた。
意地になっていた私は、乳癌の治療に関しては私が動くと姉達に宣言した。

母の胸のしこり

2023-01-13 17:04:00 | 日記
もうすぐ父の一周忌を迎えようとしていた昨年7月初旬、母が胸にしこりがあると言っていると上の姉からLINEが届いた。
寒気がした。そして、いくら1年経ったからと言って、ばあちゃん(母)を連れて行かないでくれ…と父に祈った。
父は、母がいないとダメな人だった。
良く言えば夫唱婦随、悪く言えば共依存な夫婦だったかもしれない。

私は4人姉妹の末っ子で、実家とは車で4、5時間程の所に離れて暮らしている。
真ん中の姉は、既に他界しており、上と下の姉が実家近くに住んでいる。
しかし、下の姉は更年期障害のような体調不良が続き、母の付き添いは、いつも上の姉がやってくれていた。

ちょうど月に1回の定期検診が近かったので、かかりつけの病院で相談する事にした。
健康自慢ではあったが、染髪中に気を失い救急車で運ばれた事があった。その後も、たまに目眩がする事から、父と一緒に定期的に診てもらっていた。
かかりつけの病院は、内科がメインだとばかり思っていたが、調べてみると、副院長先生が乳腺の専門医であり、マンモグラフィーの読影ができると書いてあった。
この時点ではラッキーだと思った。母は助かるに違いないと思った。

でも、この時しこりに気付いていなければ、母はもっと長生きできていたかもしれないと、今は思っている。

マンモグラフィーの結果、まず癌で間違いないだろうとの事で、細胞の検査をする事になった。この組織の採取がとても痛かったらしく、真っ黒に内出血していた。

父の一周忌の法要で実家に数日滞在し、母と2人で過ごした。私は、母の胸を確認するのが怖くて、母がその話をしようとすると話を逸らし、触る事もしなかった。

私が自宅に戻った数日後、細胞診の結果が出た。やはり癌だった。しかし、癌は癌だけど、完璧な癌ではないとの説明。いずれにせよ、この病院では手術ができないので、大きな病院に行くようにと言われたらしい。

回顧録開始

2023-01-13 09:58:00 | 日記
昨年末、母が亡くなった。
93歳…大往生と言う人もいるが…

人様の目に触れるかもしれないと言うのは甚だ恥ずかしい事だが、ずっと誰かのために生きて来たように見える母の事を文章で残したたかった。

健康自慢だった母が入院したのは、昨年の9月6日。施設に入所したのが10月21日…そして、亡くなったのが12月26日。
老衰による多臓器不全。
今でも信じられない。
100歳までは生きると言っていた母が、1番信じられないでいるかもしれない。