真理を求めるあなたに

聖書を紐解き御言葉の意味を読み解きながら真理を探っていきます

イエス様の洗礼と私たちの洗礼

2024-06-30 14:47:05 | イェシュアについて
先ず、イエス様の聖書箇所を読んでみましょう。

【[マタイの福音書 3:15,16,17]
しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」】

イエス様は30歳になった時に、ヨハネから洗礼を受けられました。
ご自身は罪のないお方でしたから、罪の悔い改めの為にではありません。
イエス様は処女マリアが聖霊によって身籠ったことによって生まれましたから、既に、内側に聖霊は内住されていました。
けれども、公の宣教活動に入るにあたって、洗礼を受けて聖霊のバプテスマを受ける必要があったのです。
洗礼後、天から降った聖霊の傾注と御父の声は、イエス様の公的生涯における働きの任職式を意味します。御父の声は「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」です。「愛する子」とは御父にとって「アガペートス」αγαπητος(愛してやまない愛する者)という意味です。また「喜ぶ」は、満足している、意にかなっているという意味で、そのような御父の声をしっかりと聞いて歩むことが、与えられた使命を全うしていく力の源泉となります。御父の愛の声を、日々あらゆる時に聞いて歩むことで、御父を信頼し、与えらられた使命を全うすることができたといえます。


では、次に、私たちに与えられる洗礼の意味も確認していきましょう。


【[マルコの福音書 16:16]
信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。】


一言で洗礼の意味を言い表すとすれば、イエス様を救い主であり、神であることを信じたことを公けに表明する為のものですね。
イエス様を信じてバプテスマを受けるなら、何から救われるのでしょうか。
イエス様を信じる前には、神と断絶していた者が、イエス様を信じたことで神との和解が為されて、永遠の滅びから救われて、永遠のいのちを持つことが許されます。
一方、この世は悪しきものの支配下に置かれています。
この世は神を敵としています。この世は神の御前で罪に定められています。
ですから、バプテスマは、永遠の滅びからの救いではありますが、罪に定められているこの世から救われるということでもあるのです。


【[ヨハネの福音書 12:31]
今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。


[ガラテヤ人への手紙 4:3]
同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。


[エペソ人への手紙 2:2]
かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。】


今見てきたように、私たちはこの世の霊、諸々の悪しき霊の支配から救われたのです。


また、バプテスマは罪の赦しを受けるためには、必ず受けなければならないものです。
次の御言葉がそれを明らかにしています。


【[使徒の働き 2:38]
そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。】


悔い改めるとは、神の方向に向き直り立ち返るという意味です。


罪の赦しのみならず、罪の洗いのためにもバプテスマが必要です。


【[使徒の働き 22:16]
さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』】


「罪の洗い」は「原罪」(単数形の罪)に対するものです。これは表面に現れる諸々の複数形の罪とは違います。実際に犯してしまう諸々の複数形の罪には赦しが必要であり、原罪と呼ばれている単数形の罪は洗われる必要があります。
旧約聖書の中にもある動物のいけにえも、諸々の罪に対するものと単数形の罪には別の種類のコルバンが必要でした。
コルバン(ささげもの)なしに、人は神に近づくことはできません。キリストが私たちに代わってこの「五つのささげ物」を完全に献げてくださったので、私たちは神に近づくことが出来るのです。「神に近づく」とは「救い」と同義です。
(1)「全焼のささげもの」神と神の御心に対する全き従順と全き信頼と全献身を表す自発的な行為を表すもので、これが主にとって香ばしい香りとなります。
(2)「穀物のささげもの」神の言葉の真意を悟り、それを分かち合うためのささげものです。神の御教えの中にパン種をいれることなく、純粋な御言葉を味わう為にささげられました。
(3)「交わりのいけにえ」主が選ばれた場所で、家族と共にレビ人も招いて、子の前で食事をし感謝を持って喜び楽しむことです。
(4)「罪のきよめのささげもの」「罪祭」とも言われます。
「罪」(単数、原罪)の為のいけにえです。
(5)「代償のささげもの」このささげものは、複数の罪、つまり、様々な行いの罪の赦しの為のものです。


エジプトからナザレへ

2024-06-29 08:34:41 | イェシュアについて
【[マタイの福音書 2:13〜21]
 彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、
ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。
 ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。
そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。
  「ラマで声が聞こえる。
  むせび泣きと嘆きが。
  ラケルが泣いている。その子らのゆえに。
  慰めを拒んでいる。
  子らがもういないからだ。」
 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。
「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」
そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。】

神は歴史を創られたシナリオライターであるから、後に起きることを予め知らせてくださっていて、神が神であることを証明するために、預言を成就していかれるのです。
いずれ、イエスがエジプトからイスラエルに向かうことになることになることは、予め預言されていたことでした。
しかし、ユダヤ人たちは、出エジプトした後も、そのような大きな奇跡を体験した後なのに、神に逆らい続けました。
エジプトに大きな災いをくだし、イスラエル人を去らせ、紅海を渡らせ、天からマナを降らせて養ってきたのに、肉が食べたいとか偶像を作ったりして逆らい続けましゅた。
結局、第一世代は死に絶え、約束の地であるカナンに入ることができたのは、ヨシュアとカレブだけでした。
彼らは所詮、アダムの子孫で罪がある故に、決して、御心通りに歩くことはできなかったのです。
それは、全ての人間に通じることで、誰一人神の御心を忠実に果たせる者などいません。
けれども、それを成し遂げてくださった唯一のお方がイエスキリストなのです。
彼は第二のアダムと言われています。
アダムの堕罪によって、人類に罪が入ってしまったけれども、罪のないイエスキリストは、第二のアダムとなって天から地に降りて来てくださり、罪故に人が成し得なかったことを成し遂げてくださいました。
荒野の試みにおいて、神の御心に反することなく、その後も罪を犯さなず、律法を成就してくださったのです。

【[コリント人への手紙 第一  15:47]
第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。】

【[ローマ人への手紙 8:3〜11]
肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。
肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。】


イエスの誕生

2024-06-27 07:59:09 | イェシュアについて
【[ルカの福音書 2:1〜11]
1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
3人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
4ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
5身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
6ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
7男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
8さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。】

1️⃣「アウグストゥス」について

イェシュアの誕生したのは「パックスロマーナ」(ローマによる平和)といわれる、華麗なる奇跡とも称される平和な時代です。

「パックスロマーナ」とは、平和と秩序の女神パクスの名に由来するのですが、
(平穏な 200 年の期間(BC27~180 年間) ローマ帝国は最大の領土を獲得し、人口 7000 万人、 )
当時の世界人口の三分の一がローマに所属していまし た。 戦争ばかりの地中海世界で( ローマ帝国が覇権を確立したことで、) 超大国ローマによる平和な時代が始まりました。

100 年に渡る内戦続きのローマでしたが、(最後の戦いであるアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラとの両者を破った)アウグストゥスが勝利をおさめ、ローマに帝政をひいて初代皇帝となり、パックスロマーナを成し遂げました。

しかし、パックスロマーナは、力によって打ち立てられた平和です。人々は、皇帝アウグストゥスをすべての戦争終わらせた救い主(ソーテーリア)だと信じていました。ところがその頃、もう1人の救い主がダビデの町、すなわちベツレヘムに誕生したのです。その方がイエス・キリストでした。

パックスロマーナ(ローマによる平和)と謳われてはいましたが、実際は、破壊と掠奪と殺戮が横行していました。そんな中、皇帝たちは自身や先代の皇帝を神格化していきました。皇帝を神と讃えることで、間接的に自身の政治力も高めようと考えたのです。初代皇帝アウグストゥスは、神として祀られます。

「 アウグストゥス(尊厳ある者)」は元老院から送られた尊称です。そして、皇帝アウグストゥスのために、カレンダーを変え、彼の誕生月を年の初めとしました。ローマ歴で、8月(Augastus)を新年としたのです。人々は皇帝の誕生日を世のためのエヴァンゲリオン(福音)の始まりだと考えたからです。

アウグストゥスが住民登録の命を出さなければ、イェシュアがベツレヘムで生まれることはありませんでした。アウグストゥスの存在は、イェシュアの誕生に大きな意味をもたらしました。

さて、聖書において、数字の8には、とても大きな意味があります。
8はイェシュアの数です。
オクタヴィアヌスという名の皇帝が誕生月の8月である 「アウグストゥス」という尊称を与えられていたことと、真の王であられるイェシュアの数字が8であるというのは、なんと皮肉なことでしょう。しかし、それこそが、イェシュアが本当の王の王であり、救い主であることを暗示しているということにならないでしょうか。
「アウグストゥス」は、戦争を終わらせた「救い主」だともてはやされていましたが、そんな時代に真の救い主が現れたのです。
「八月」が称号となっている「アウグストゥス」ですが、「イェシュア」の数字が「八」であるというのも、本当の救い主の姿を際立たせていると言えないでしょうか。

今日は、イェシュアの数字が8であるという理由を紹介します。

①「過越の祭り」(第1月の14日)の後の安息日の翌日は「初穂の祭り」です。
「種を入れないパンの祭り」(第一月の15日)は、過越の翌日から七日間にわたってなされる祭りですが、「初穂の祭り」とは「過越の祭り」の後に来る安息日の翌日(週の初め)になされる祭りで、大麦の初穂を祭司の所に持って行かなければなりませんでした。

(「過越の祭り」の八日目に行われたのが初穂の祭りなのです)

イェシュアが十字架で死なれた後の最初の安息日の翌日(週の初め)に、死から復活されたように、よみがえりのからだが与えられるという福音の預言的なメッセージが含まれています。「八日目」は新しい週の1日目であり、よみがえりに型があるのです。
これが、8がイェシュアの数字といわれている理由の一つです。
八日間の「過越の祭り」を通して、イェシュアの受難と死、そしてよみがえりという深い意味が隠されているのです。

(それから七週[7×7=49日]、すなわち、「過越の祭り」から50日目には「五旬節の祭り」という主の例祭があります。これも「八日目」に通じる象徴的な位置づけにあります。つまり、五旬節(ペンテコステの日)に天からの火である聖霊が注がれたという出来事の型が、レビ記8~9章にあると考えることができるのです。
イスラエルの主の祭りにおいて八日目に行なわれた祭りは、「初穂の祭り」と「仮庵の祭り」でした(レビ23:36, 39, 民29:35)。特別に、「仮庵の祭り」はやがて地上に現わされる栄光に満ちた「千年王国」の型と見ることができます。)

(「過越の祭り」は、過去の出来事を想起して感謝するだけでなく、キリストのからだと血にあずかる聖餐の奥義を深く味わう時としなければなりません。イスラエルの民がそうであったように、そのために八日間の祭りが必要であったことを思い起こす必要があります。)

② 「仮庵の祭り」の八日目は、「祭りの大いなる日」と呼ばれていて、きよめの集会が持たれていました。この日は聖なる日なのです。特別な大事な日だったのです。このことも、8がイェシュアと言われる所以です。

【[レビ記 23:33,34,35,36]
 主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。
 この第七の月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。
最初の日には、聖なる会合を開く。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。
七日間、あなたがたは食物のささげ物を主に献げなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは食物のささげ物を主に献げる。これはきよめの集会であり、いかなる労働もしてはならない。】

【[民数記 29:35]
 八日目に、あなたがたはきよめの集会を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。】

仮庵の祭りは7日間続きます。8日目も同じく休みの日ですが、「祭りの終わりの大いなる日」と呼ばれています。

[ヨハネの福音書 7:37]
 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

ここに書かれている「祭りの大いなる日」というのが、8日目なのです。 この日に、イェシュアは、ご自身が与えることのできる御霊の満たしについて語られたのです。8と言う数字は神と人との新しい契約を象徴する意味があるのです。

【[ネヘミヤ記 8:18]
神のみおしえの書は、最初の日から最後の日まで毎日朗読された。祭りは七日間祝われ、八日目には定めにしたがって、きよめの集会が行われた。】

このようなことから、「仮庵の祭りの終わりの大いなる日」である8日目を聖なる日として特別に祝う事はとても意味あることなのです。

レビ記9章によれば大祭司と祭司たちの任職のための聖別期間7日間が終わって、8日目に定められた通りにその職務が執行した後、主の栄光が民全体に現れました。

このこともイェシュアの数字が8であると考えられる大きな理由の一つです。

【[レビ記 9:1]
八日目になってモーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び寄せ
[レビ記 9:23,24]
モーセとアロンは会見の天幕に入り、そこから出て来て民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現れ、
火が主の前から出て来て、祭壇の上の全焼のささげ物と脂肪を焼き尽くした。民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した。】

神格化されたアウグストゥスに縁の深い「八」という数字でしたが、真の神であるイェシュアにとっては、本当の意味で「八」が重要な意味を持っているのです。
聖なる日である8日目に主の栄光が民全体に現れたとレビ記には書かれていますが、イェシュアの誕生を告げようとして主の使いが羊飼いのところに来た時にも、主の栄光が周りを照らしたのです。

[ルカ2:9]すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

8日目は新しい週の1日目であり、ここには、よみがえりの型があります。イスラエルの主の祭りにおいて8日目に行われた祭りは初穂の祭りと仮庵の祭りでした。(レビ23:36 〜39と民数記29:35)。
特別に仮庵の祭りは、やがて地上に表される栄光に満ちた千年王国の型と見るることができます。

(「過越の祭り」に続く「種の入らない祭り」では七日間続き、七日目に「聖なる集会」が開かれますが、「仮庵の祭り」では「八日目」にきよめの集会がなされています。「八」という数字は「七の」後に来る永遠の安息を示唆する数で、深い意味があります。)

③ 三つ目の理由として、イスラエルの民が行なっていた割礼の日程があげられます。

イスラエルの民が新しく誕生した男子のに神の民としての契約の印である割礼を施したのは生後8日目でした。割礼とは肉の体を脱ぎ捨てることを意味します。(コロサイ2-11〜13)。
これもある明らかによみがえりもたらすものの型です。神の創造は何日間で終わりだったでしょうか。7日目には創造のわざを休まれました。しかし、8日目があるのです。8は御国が完全に実現する救いと神の新しい創造を象徴する数でもあるのです。真の割礼の意味とは、肉に死に、新しく霊のいのちに生きる者となるという意味があるからです。

④四つ目の理由として、8に大きな意味があるということが、メノーラに表されています。

神殿には金で出来た七つの枝を持った燭台「メノーラ」(מְנוֹרָה)が置かれていますが、「ハヌカの祭り」で用いられる燭台は九つの枝で出来た「ハヌキヤー」と呼ばれる燭台で、ハヌカの祭りにしか使われない、いわば期間限定使用の燭台なのです。9本ある蝋燭のうち8本は正規の蝋燭ですが、あとの1本は火種としての蝋燭です。八日間にわたる祭りにおいて第一日目は1本、第二日目は2本・・と、日を追うごとに蝋燭に灯される蝋燭の火の数で明るさは増し、祭りの最終日にはすべての蝋燭が灯されることになります。このことを別の視点から見るならば、「ハヌキヤー」は奥義としての神のご計画の悟りが、終わりの日が近づくにつれて、時の経過と共に光の量が増し加えられて開示され、やがて八日目には、神のご計画の全体が完成するという預言的なしるしとしての燭台とも言えます。

聖書には7日間という声がしばしば登場しますが、7日間の後には必ず8日目があるということです。8日目は週の初めの日であり復活を表す特別な日なのです。

2️⃣「ベツレヘム」について

さて、次に、イェシュアがお生まれになった土地であるベツレヘムについて考えてみたいと思います。

ミカ書の預言を読んでみましょう。

新改訳聖書と共同訳聖書では、一節、記載の章がずれています。新共同訳はヘブル語聖書と同じです。なぜか、新改訳は4章の最後の節を5章の最初に置いています。

(それはメシアが生まれる場所である小さな村ベツレヘムと、包囲されて打たれ、滅ぼされて神のさばきを受けるエルサレムとを対照させるためと思われます。)

【ミカ書4:14〜5:3 共同訳
4:14 今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。 敵は我々を包囲した。 彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ。
5:1 エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。 
5:2 まことに、主は彼らを捨ておかれる 産婦が子を産むときまで。 そのとき、彼の兄弟の残りの者は イスラエルの子らのもとに帰って来る。 
5:3 彼は立って、群れを養う 主の力、神である主の御名の威厳をもって。 彼らは安らかに住まう。 今や、彼は大いなる者となり その力が地の果てに及ぶからだ。】

【新改訳2017[ミカ書 5:1,2,3,4]
  1 今、軍勢をなす娘よ、勢ぞろいせよ。
  包囲網が私たちに対して設けられた。
  彼らは、イスラエルをさばく者の頬を
  杖で打つ。

  2「ベツレヘム・エフラテよ、
  あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。
  だが、あなたからわたしのために
  イスラエルを治める者が出る。
  その出現は昔から、
  永遠の昔から定まっている。」

 3 それゆえ、彼らはそのままにしておかれる。
  産婦が子を産む時まで。
  そのとき、彼の兄弟のほかの者は
  イスラエルの子らのもとに帰る。
 4 彼は立って、主の力と、
  彼の神、主の御名の威光によって群れを飼う。
  そして彼らは安らかに住まう。
  今や彼の威力が、地の果ての果てまで及ぶからだ。】

4節の御言葉を読んで胸が打ち震えるようです。
ベツレヘムでお生まれになったイェシュアは御国を治める統治する王の王にまでなられるお方なのです
ミカ書には、出生からメシア王国までが預言されている貴重な書です。

(共同訳では、「イスラエルを治める者」の頬が杖で打たれるエルサレムと、「イスラエルを治める者」が出るエフラタのベツレヘムが対照されています。
新改訳では、それぞれ、「イスラエルのさばきつかさ」(5:1)と「イスラエルの支配者」(5:2)と訳されています。)

ミカは、イスラエルを支配する者(イェシュア)がベツレヘム(=エフラテ)で生まれると預言しています。この預言が、ここにおいて(ルカ2:11)実現しました。

小さな氏族、小さな者が、神のために大いなるものとなっているのです。これを神の「昔から、永遠の昔からの定め」であり、不変の神の定めなのです。

この原理原則は新約時代にも息づいています。

【[コリント人への手紙 第一  1:26,27,28,29,30,31]
 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。】

ここには、神が弱い者や小さき者を選ばれたのは「自らを誇ることがない為で、誇る者は主を誇れ」と書いてあるのですが、イェシュアは、ご自身が主なのですから、誇っても良いわけですよね。それなのに、王の王、主と主となられる方が、小さき者としてお生まれになったのは、何故でしょうか。
それは、謙遜の極みとなって、神が人となり、贖いを通られる為でした。
神は、人とならねば、第二のアダムとして新しいいのちを与えることができなかったのです。
また、もっと言うならば、人としての弱さをご自身も身に受けて、全人類の弱さを包括的に担う為だったのではないでしょうか。

【[へブル人への手紙 4:14,15,16]
 さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。】

ベツレヘムから「イスラエルの支配者になる者が出る」という主の約束は、イェシュアの誕生(初臨)によってある意味において実現しました。しかしそれは、「イスラエルの支配者になる者」がベツレヘムから生まれ出るという意味においてです。しかし真の「イスラエルの支配者」となるということは、これからの事(再臨)です。

ミカ書5:3「産婦が子を産む時まで」までというのは、期間限定で、神はご自身の民を敵の手に渡されることを意味します。それは神の民が霊的に生まれ変わる時までです。敵の手とは、反キリストによる大患難を預言しているのです。

「今や彼の威力が、地の果ての果てまで及ぶからだ」とは、大いなるメシアの威力は、全世界に及び、イスラエルの民は集められて、羊の群れとして養われ、安らかに住まうようになるということを指しています。

ルカ2:10の「この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」とは、終わりの時代にイスラエルが民族的に救われ、イェシュアのご支配、統治の元に、集められ、メシア王国が目に見える形で現されていくことの預言なのです。

以下は、イスラエルの残りの者について預言しているものです。

[ミカ書 5:7,8,9]
  そのとき、ヤコブの残りの者は、
  多くの国々の民のただ中で、
  主のもとから降りる露、
  青草に降り注ぐ夕立のようだ。
  彼らは人に望みを置かず、
  人の子らに期待をかけない。
  ヤコブの残りの者は異邦の民の中、
  多くの国々の民のただ中で、
  森の獣の中の獅子、
  羊の群れの中の若い獅子のようだ。
  通り過ぎるときには、踏みにじり、
  かみ裂けば、助け出す者はいない。
  あなたが敵対する者に向けて御手を上げると、
  あなたの敵はみな絶ち滅ぼされる。

ミカ書5:4「彼の神、主の御名の威光によって群れを飼う」とは、主権者、支配者としてのイェシュアの姿を言い表しています。「威光」という表現からは、黙示録の箇所を連想させられます。

【[ヨハネの黙示録 5:12,13,14]
12彼らは大声で言った。
  「屠られた子羊は、
  力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を
  受けるにふさわしい方です。」
13また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。
  「御座に着いておられる方と子羊に、
  賛美と誉れと栄光と力が
  世々限りなくあるように。」】
アーメン、御国における真の主権者であり、支配者であられる主だけに栄光があります。

3️⃣「キリスト」について

最後に「キリスト」の意味を簡単に、説明しておきたいと思います。

11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれに成りました。この方こそ主キリストです。】

「イエス・キリスト」、ヘブル語では「イェシュア・ハマシーアッハ」です。
「キリスト」とは、神の働きのために特別な力と権威を授けるため、「油を注がれた者」を意味します。旧約では、「王」「大祭司」「預言者」にのみ任職の油が注がれました。したがって、「イエス・キリスト」とは、イエスが神からの任職の油を注がれた「王」であり、「大祭司」であり、「預言者」という告白的表現なのです。
アラカルトの1で学びましたように、「イェシュア」とは「主は救い」という意味ですから、「イエス・キリスト」とは、「油注がれた救い主」ですね。

受胎告知

2024-06-26 08:43:19 | イェシュアについて
【[マタイの福音書 1:18〜25]
 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
  「見よ、処女が身ごもっている。 そして男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。】

【[イザヤ書 7:14]
それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。】

イエス」は、原語のヘブル語では、「イェシュア」で、「救い」を意味します。
神は人を永遠の滅びから救い出す為に、イエス様の贖いを備えてくださったのです。
インマヌエル」は、「神が私たちと共におられる」という意味です。そして、まさしく、これは、イエス様が我々の内側に内住しておられることを指し示しているのです。
要するに、イエスという名前と、インマヌエルと呼ばれるということの中に、「救い」すなわち贖いと、そして、「インマヌエル」すなわち、御霊の内住という二つの要素が隠されているのです。

これは、モーセの時代の幕屋の構造の中にも表されています。
幕屋の中の祭壇が贖いを表していて、その頃は律法での規定に従って動物がいけにえとして捧げられていました。
ところが、神であられるイエス様が、自ら人となって地上に降りてきてくださって、その後、贖いを成し遂げてくださったのです。
それで、もう、何回も動物のいけにえを捧げる必要もなくなったのです。

また、大祭司だけが、神と直接お会いできる場所である至聖所は年に一度入ることを許されていましたが、今や、私たちの内側に至聖所はあり、三位一体であられる聖霊なる神(父なる神と子なる神イエス様も)が共にいてくださるのです、そうです、絶えず、いつでも、インマヌエル、主が共にいてくださるのです。

【[コリント人への手紙 第一  6:19]
あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。】

イエス様が十字架にかけられ、死と復活を通り抜け、贖いが成就した時、聖所と至聖所の幕が真っ二つに破けて、神と人とを隔てていた幕が取り去られ、私たち、信じる者は自由に神と交わることができるようになりました。

【[マルコの福音書 15:37,38]
しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。】

すべてのこの世の悩みは神との分離から起こります。聖なる神と人とのあいだには罪という壁ができています。罪と咎とが人を神から引き離しているのです。イエス様は反抗と闇と不安の国から平和と安息と光の国へ扉を開いてくださったのです。
イエス様は、このことをご自身の血をもって、ご自身が屠られたことを通して成し遂げられました。悪魔の奴隷となっていた私たちを贖って解放してくださったのです。
主と自由に親しく交わることができるようになったことを喜び感謝します。

追記

イエスというお名前のヘブル語である「イェシュア」には救いという意味があり、もう一つのお名前である「インマヌエル」には、「主が共にいる」(主と共に住む))という意味があります。
「救い」と「主と共に住む」という言葉の中にのは、神のご計画と神の目的が込められているのです。
イェシュアは神のご計画と目的の全てなのです。

【[ルカの福音書 1:26〜33]
 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」】

これから生まれる方は、メシア王国を治め、その国に住む国民を育てるためにきたのです。
そのメシア王国に住みたいと思っていなかったら、救われてはいないでしょうね。


世の終わりの前兆11(安全保障条約)

2024-06-25 11:42:07 | 黙示録
患難時代の前には、10個の前兆があるということが聖書には書かれていますが、今日まで、そのうちの9個の前兆を見てきました。
今日は最後の10個目の前兆について見てみたいと思います。
10個目の前兆は反キリストが有効期限7年の安全保障条約をイスラエルと結ぶということです。
それが10個目の前兆です。
この反キリストとイスラエルとの安全保障条約が結ばれるのが患難時代スタートの合図です。
患難時代の初日には、この条約が結ばれて、人間は患難時代に突入するということです。
後半の3年半には反キリストが本性を現します。
彼は全人類に対して自分の名前を表す666という刻印を受けさせます。
そして、抵抗して受けないような者を皆虐殺したり迫害したりします。
政治を握り、経済を握り、人間をコントロールするような恐るべき時代です。
この恐るべき時代はいつまでも続く事はありません。
7年きっかり2520日きっかりで終わります。
いや終わらせる方が登場するのです。
それがイエスキリストの地上再臨です。
イエス・キリストのの地上再臨は、2520日目になります。
これによって反キリストの国が強制終了されます。
シャットダウンされてしまうというわけです。
さてこの反キリストの7年契約について聖書では2カ所で語られています。
1つ目はダニエル書の9章27節です。
ここに、イスラエル民族とエルサレムに対する神のご計画について書かれてあります。

【[ダニエル書 9:24,25,26,27]
  あなたの民とあなたの聖なる都について、
  七十週が定められている。
  それは、背きをやめさせ、
  罪を終わらせ、
  咎の宥めを行い、
  永遠の義をもたらし、
  幻と預言を確証し、
  至聖所に油注ぎを行うためである。
  それゆえ、知れ。悟れ。
  エルサレムを復興し、
  再建せよとの命令が出てから、
  油注がれた者、君主が来るまでが七週。
  そして苦しみの期間である六十二週の間に、
  広場と堀が造り直される。
  その六十二週の後、
  油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない。
  次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する。
  その終わりには洪水が伴い、
  戦いの終わりまで荒廃が定められている。
  彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、
  半週の間、いけにえとささげ物をやめさせる。
忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる。そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる。」】

そして、このところでイスラエル民族とエルサレムに関して、70週ですべてのプログラムが終了するというふうに預言されています。
「多くの者と堅い契約を結び」と書かれているのは、反キリストのことです。
前後の文脈を見たら明らかです。
そして、「一週の間」と書かれていますが、この「一週」というのはヘブライ語では、単位を表すのです。
ここでの「一週」とは、は7年を表すわけです。
ですから、反キリストは7年の間多くの者と堅い契約を結ぶと預言されているわけです。
「多くの者」というのは、全人類のことではないのです。
あくまでもユダヤ民族とエルサレムについての七十週の預言中で語られているものなので、ここでここで語られている「多くの者」というのは、イスラエルの地の民族の多くの者という意味です。
そして、この「多くの者」とか「堅い契約を結ぶ」というふうに書いてあるのは、7年ですが、この7年契約とは一体どのような契約なのでしょうか。
もう1カ所イザヤ28章14節15節を読んでみましょう。

【[イザヤ書 28:14,15]
  それゆえ、嘲る者たちよ、主のことばを聞け。
  エルサレムでこの民を治める者たちよ。
  あなたがたがこう言ったからだ。
  「われわれは死と契約を結び、
  よみと同盟を結んでいる。
  たとえ、洪水が押し寄せても、
  それはわれわれには届かない。
  われわれは、まやかしを避け所とし、
  偽りに身を隠してきたのだから。」】

このイザヤ書28章、特に後半部分は患難時代についての預言が詳しく書いてある箇所です。
この14章の1行目に「嘲る者たち」と書いてありますが書いてありますが、これは、エルサレムのことです。
「この民を治める者たち」とは、イスラエルの政治的リーダー、総理大臣を始めとするイスラエルの政治的なリーダーの人たちに対する言葉です。
実は彼らは、この意気揚々としており、政治的偉業を達成したということで勝ち誇っているのです。
一体何を勝ち誇っているのでしょうか。
キリストと同盟を結ぶことができたということをこの目上もない素晴らしいことだと思って喜んでいるのです。
なぜそんなに喜んでいるかというと、15節の中間あたりに、たとえ洪水が押し寄せても、それは我々には届かないと思っているからです。
聖書の中に「洪水」という言葉が出てきたときには、いつも軍事的侵略を表します。
この侵略的な戦争侵略行為を洪水と表しています。
「洪水が押し寄せてもそれはわれわれには届かない」というのは、いかなる軍勢がイスラエルに押し攻め込むようなことがあったとしても、それを押し流し、押し返すだけの圧倒的な軍事安全保障条約をわれわれは手にすることができたということです。
この時点で、彼らは、自分たちが条約を結んでいるのが、反キリストだということがわかっていないのです。
それは危ないよ、それは反キリストなのだと言う人がいたとしていたとしても、それに対して嘲ります。
嘲る者たちというふうに語られています。
彼らの目には市長も頼もしい味方に見えている反キリストのことをが聖書の観点で見るならば、「われわれは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる」とあるように、反キリストは、どんなにも頼もしい味方に見えたとしても、最終的に彼は裏切って、イスラエルを闇の世界に引きずり込む者となるのです。
これは、彼と同盟を結ぶべきではないのだという警告の預言なのです。
にもかかわらず、彼らはそれを結びます。
それを結んだ日が患難時代の初日ということになります。
ところで、これが契約である限り、それはギブアンドテークです。
あらゆる安全保障条約には、その当事者たちが負うべき義務と受けることができる特権の両方が書いてあるのです。
日米安全保障条約にもそれそれが書いてありますね。
日米安全保障条約は1960年に、これは有効期限10年の安全保障条約として結ばれたのですが、最小固定期間10年間はこの条約は破棄されないものとして結ばれています。10年契約経過しますと、毎年毎年1年ずつ延長になるのです。
アメリカか日本かのどちらかこの一方がこの日米安全保障条約を破棄すると宣言した次の年に、それは白紙に戻すという契約なのです。
ですから、安全保障条約というのはいつでも破棄することができる、または、その可能性のある条約であることをわれわれは日本人国民は知っておくべきだと思います。
ところで、そうはいっても1960年にこの条約が締結されてから今日まで安全保障条約は長く続いています。
こんなに長く続いていたのはお互いにギブアンドテイクがの関係があったからです。
日米安全保障条約で日本が受け取ることができる特権と権利は何かというと、日米共通の脅威が現れたときに、アメリカの軍事的な介入を要求することができるということです。
またはそれを提供してもらうことができるということなのです。
しかし、同時に義務があるのです。
アメリカが日本に基地を持つ、あるいは練習場やもっといろんな面でアメリカにバックアップするという義務があるのです。
つまり、アメリカも日米安全保障条約から得ているものがあり、お互いがwin winの関係だからなぜ長続きしたのです。
そして世界中のいろいろな軍事同盟あるいは安全保障条約を見ますと全部がギブアンドテークの関係なのです。
聖書の神が人間に与えるような一方的な愛の関係、損得のない関係ではありません。
反キリストとイスラエルのこの軍事同盟条約もギブアンドテークに違いないのです。このイスラエルは反キリストによって保障された強力な安全保障を提供してもらえるというそういう権利をもらっています。
そういう権利をもらっていることができるならば、反キリストもイスラエルから何らかのメリットを受けるに違いないのです。
とにかくwinの関係だからこそ条約締結が始まるわけです。
それが締結されて3年半で打ち切られて裏切られてしまうということになります。
さて、今までの10個の前兆について見てきましたが、10番目の前兆、それが反キリストがイスラエルと安全保障条約を結ぶということです。
この時代に生きている人たちは、誰が反キリストであるかを識別する方法がここに見て取ることができます。
イスラエルと安全保障条約を結んだ人物こそは、反キリストなのです。
さて、この10個の前兆ですが、がこの順番で起きました。

以上、このシリーズでは、高原剛一郎さんのYouTubeを参考にしておりますが、高原剛一郎さんご自身はハーベストタイムの中川健一さんの終末論に関する本からこの大部分の事を受け取ったとおっしゃっています。また、フルクテンバームさんのメッセージからも多くを学んでいると語っておられます。
これはあくまでも、一つの見解です。絶対的に全てが正確な解釈であるかは分かりませんが、聖書の理解に役立ってくださることを願っています。