先ず、イエス様の聖書箇所を読んでみましょう。
【[マタイの福音書 3:15,16,17]
しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」】
イエス様は30歳になった時に、ヨハネから洗礼を受けられました。
ご自身は罪のないお方でしたから、罪の悔い改めの為にではありません。
イエス様は処女マリアが聖霊によって身籠ったことによって生まれましたから、既に、内側に聖霊は内住されていました。
けれども、公の宣教活動に入るにあたって、洗礼を受けて聖霊のバプテスマを受ける必要があったのです。
洗礼後、天から降った聖霊の傾注と御父の声は、イエス様の公的生涯における働きの任職式を意味します。御父の声は「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」です。「愛する子」とは御父にとって「アガペートス」αγαπητος(愛してやまない愛する者)という意味です。また「喜ぶ」は、満足している、意にかなっているという意味で、そのような御父の声をしっかりと聞いて歩むことが、与えられた使命を全うしていく力の源泉となります。御父の愛の声を、日々あらゆる時に聞いて歩むことで、御父を信頼し、与えらられた使命を全うすることができたといえます。
では、次に、私たちに与えられる洗礼の意味も確認していきましょう。
【[マルコの福音書 16:16]
信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。】
一言で洗礼の意味を言い表すとすれば、イエス様を救い主であり、神であることを信じたことを公けに表明する為のものですね。
イエス様を信じてバプテスマを受けるなら、何から救われるのでしょうか。
イエス様を信じる前には、神と断絶していた者が、イエス様を信じたことで神との和解が為されて、永遠の滅びから救われて、永遠のいのちを持つことが許されます。
一方、この世は悪しきものの支配下に置かれています。
この世は神を敵としています。この世は神の御前で罪に定められています。
ですから、バプテスマは、永遠の滅びからの救いではありますが、罪に定められているこの世から救われるということでもあるのです。
【[ヨハネの福音書 12:31]
今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。
[ガラテヤ人への手紙 4:3]
同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。
[エペソ人への手紙 2:2]
かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。】
今見てきたように、私たちはこの世の霊、諸々の悪しき霊の支配から救われたのです。
また、バプテスマは罪の赦しを受けるためには、必ず受けなければならないものです。
次の御言葉がそれを明らかにしています。
【[使徒の働き 2:38]
そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。】
悔い改めるとは、神の方向に向き直り立ち返るという意味です。
罪の赦しのみならず、罪の洗いのためにもバプテスマが必要です。
【[使徒の働き 22:16]
さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』】
「罪の洗い」は「原罪」(単数形の罪)に対するものです。これは表面に現れる諸々の複数形の罪とは違います。実際に犯してしまう諸々の複数形の罪には赦しが必要であり、原罪と呼ばれている単数形の罪は洗われる必要があります。
旧約聖書の中にもある動物のいけにえも、諸々の罪に対するものと単数形の罪には別の種類のコルバンが必要でした。
コルバン(ささげもの)なしに、人は神に近づくことはできません。キリストが私たちに代わってこの「五つのささげ物」を完全に献げてくださったので、私たちは神に近づくことが出来るのです。「神に近づく」とは「救い」と同義です。
(1)「全焼のささげもの」神と神の御心に対する全き従順と全き信頼と全献身を表す自発的な行為を表すもので、これが主にとって香ばしい香りとなります。
(2)「穀物のささげもの」神の言葉の真意を悟り、それを分かち合うためのささげものです。神の御教えの中にパン種をいれることなく、純粋な御言葉を味わう為にささげられました。
(3)「交わりのいけにえ」主が選ばれた場所で、家族と共にレビ人も招いて、子の前で食事をし感謝を持って喜び楽しむことです。
(4)「罪のきよめのささげもの」「罪祭」とも言われます。
「罪」(単数、原罪)の為のいけにえです。
(5)「代償のささげもの」このささげものは、複数の罪、つまり、様々な行いの罪の赦しの為のものです。
【[マタイの福音書 3:15,16,17]
しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」】
イエス様は30歳になった時に、ヨハネから洗礼を受けられました。
ご自身は罪のないお方でしたから、罪の悔い改めの為にではありません。
イエス様は処女マリアが聖霊によって身籠ったことによって生まれましたから、既に、内側に聖霊は内住されていました。
けれども、公の宣教活動に入るにあたって、洗礼を受けて聖霊のバプテスマを受ける必要があったのです。
洗礼後、天から降った聖霊の傾注と御父の声は、イエス様の公的生涯における働きの任職式を意味します。御父の声は「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」です。「愛する子」とは御父にとって「アガペートス」αγαπητος(愛してやまない愛する者)という意味です。また「喜ぶ」は、満足している、意にかなっているという意味で、そのような御父の声をしっかりと聞いて歩むことが、与えられた使命を全うしていく力の源泉となります。御父の愛の声を、日々あらゆる時に聞いて歩むことで、御父を信頼し、与えらられた使命を全うすることができたといえます。
では、次に、私たちに与えられる洗礼の意味も確認していきましょう。
【[マルコの福音書 16:16]
信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。】
一言で洗礼の意味を言い表すとすれば、イエス様を救い主であり、神であることを信じたことを公けに表明する為のものですね。
イエス様を信じてバプテスマを受けるなら、何から救われるのでしょうか。
イエス様を信じる前には、神と断絶していた者が、イエス様を信じたことで神との和解が為されて、永遠の滅びから救われて、永遠のいのちを持つことが許されます。
一方、この世は悪しきものの支配下に置かれています。
この世は神を敵としています。この世は神の御前で罪に定められています。
ですから、バプテスマは、永遠の滅びからの救いではありますが、罪に定められているこの世から救われるということでもあるのです。
【[ヨハネの福音書 12:31]
今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。
[ガラテヤ人への手紙 4:3]
同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。
[エペソ人への手紙 2:2]
かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。】
今見てきたように、私たちはこの世の霊、諸々の悪しき霊の支配から救われたのです。
また、バプテスマは罪の赦しを受けるためには、必ず受けなければならないものです。
次の御言葉がそれを明らかにしています。
【[使徒の働き 2:38]
そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。】
悔い改めるとは、神の方向に向き直り立ち返るという意味です。
罪の赦しのみならず、罪の洗いのためにもバプテスマが必要です。
【[使徒の働き 22:16]
さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』】
「罪の洗い」は「原罪」(単数形の罪)に対するものです。これは表面に現れる諸々の複数形の罪とは違います。実際に犯してしまう諸々の複数形の罪には赦しが必要であり、原罪と呼ばれている単数形の罪は洗われる必要があります。
旧約聖書の中にもある動物のいけにえも、諸々の罪に対するものと単数形の罪には別の種類のコルバンが必要でした。
コルバン(ささげもの)なしに、人は神に近づくことはできません。キリストが私たちに代わってこの「五つのささげ物」を完全に献げてくださったので、私たちは神に近づくことが出来るのです。「神に近づく」とは「救い」と同義です。
(1)「全焼のささげもの」神と神の御心に対する全き従順と全き信頼と全献身を表す自発的な行為を表すもので、これが主にとって香ばしい香りとなります。
(2)「穀物のささげもの」神の言葉の真意を悟り、それを分かち合うためのささげものです。神の御教えの中にパン種をいれることなく、純粋な御言葉を味わう為にささげられました。
(3)「交わりのいけにえ」主が選ばれた場所で、家族と共にレビ人も招いて、子の前で食事をし感謝を持って喜び楽しむことです。
(4)「罪のきよめのささげもの」「罪祭」とも言われます。
「罪」(単数、原罪)の為のいけにえです。
(5)「代償のささげもの」このささげものは、複数の罪、つまり、様々な行いの罪の赦しの為のものです。