先日、ご縁をいただきましたご住職様に観音様のお話をして頂きました。
観音様といえば慈悲ですね。
この世界のお話は、よく理解はしていませんが、私たちに安らぎをもたらしてくださいます。
ありがたいことです。
先日、ご縁をいただきましたご住職様に観音様のお話をして頂きました。
観音様といえば慈悲ですね。
この世界のお話は、よく理解はしていませんが、私たちに安らぎをもたらしてくださいます。
ありがたいことです。
久しぶりの投稿です。本人は相変わらずですがおかげさまで元気です。
昨日、コロナ等の影響で休んでいました横浜ユネスコ協会の茶会を再開するために、三渓園に挨拶に行きました。
三重塔です。
ウクライナ戦争、その他各地の紛争を考えるとやるせなさを覚えます。ユネスコ憲章を全人類のバイブルとしたいものです。近年、環境問題が様々の場で議論されますが最大の環境破壊が戦争です。
この環境問題ですが、私も45年前、環境情報科学 6ー3 1977に 環境問題についてーその序論的考察 と題して掲載しており、感慨深い思いがあります。
茶屋で三渓そばと立ち寄ったのですが、つゆなしでしたのでもつうどんを食べて体を温めました。
晩秋の北鎌倉の散策です。晩秋は少し寂しさもありますが好きです。四季は天の恵みですね。
北鎌倉円覚寺の晩秋、師走の風景です。
師走と言えば無事の掛け物ですよね。月1度程生菓子を求め訪れる御菓子司こまきのお店の床です。
円覚慈雲の無事
夏期講習でお話を伺ったこと、散策されていたお姿など偲ばれます。
大船駅構内の銀だこのたこ焼きで酎ハイ1杯です。
気になっていた松永記念館を訪れました。耳庵翁を身近に感じることができたように思え満足でした。一杯付きの美味しいはつ花の山かけそばを食べ、小田原まで歩き、土産はわたしは梅干し、友人はおでんの具材でした。
松永記念館設立六十周年記念特別展を記念して刊行されたお茶をする、遊ぶ、生活する冊子を手にすることができたのは幸いでした。写真をふんだんに編集していて、どの写真も見応えがあります。表紙の写真は何とも言えず、さすがに耳庵翁を語っています。
耳庵翁の言葉も紹介されていて、「男子の快事」に心惹かれました。「自己の心眼より、悟道より、茶趣味より、内観的に静寂な、ある表現を造園に試みるもまた男子の快事ではなかろうか」と耳庵翁は言っています。「快事」何とも言えず心地良い言葉ですね。
翻るに、無い無い尽くしの無様な生き様の独居老人私ですが、快事無縁なのでしょうか?そうです、あります。生きていることですね。これも快事、あれも快事であります。前文の造園を生きることに変えるのも快事です。
「快事」心地良い言葉ですが、ジェンダーの時代、男子のが付いた「男子の快事」更に心地良く正に快事です。
耳庵翁の精神に遊ぶことができましたことも快事です。
薫風の候散策を楽しみました。
前日は横浜の臨海部を、今日は北鎌倉から鎌倉を歩きました。
御菓子司こまきでお持ち帰り6個の上生菓子を求めました。
店内の掛物は昌道老師筆「夏木の森にホトトギス啼く」です。
葛庵を訪ね、お茶をご馳走になりました。
浄智寺から変則で海蔵寺に向かいました。
ホトトギス(ウグイス)の鳴き声が心地良いですね。
浄光明寺で説明を聞き、小町に出て喫茶店で一休みの散策でした。
偶にはいいですよね。
全国紙を購読もせず、時たま日刊ゲンダイを読んだりするだけの私ですが気になることもありますね。
自前のワクチン開発、世界を見渡してのオリンピックの開催の可否、KK事件の宮内庁の対応、近代史と尖閣問題、原発事故処理とエネルギー問題、誠実な拉致問題への対応、その他困ったことに多種多様です。
そうです、一大事です。明日の私か、五年後の私か、今の私ですね。
夏木の薫風に感謝して風呂に入って寝ますか。
新年を迎えましたがコロナ禍、新年会、初釜等中止になり仕方ないですが、寂しいですね。
ご厚意で頂いた着物をどれにしようかと考える楽しみも元旦の一日だけでした。
時には華やいだ日常が待たれますが、政府の政策と私達の自粛ですね。
歌会始のお題は「実」ですので、短歌を読めればいいのですが、禅語に求めました。
「転処実能幽」がありました。朝日カルチャー「禅語教室」に解説されているまぬら尊者の伝法の偈です。
心随万境転 転処実能幽 髄流認得性 無喜亦無憂
心は万境に随って転ず 「転処実に能く幽なり」 流れに随って性を認得すれば 喜びもなく憂いもなしとあります。
髄流認得性ですが髄流斎にも通じ意義深く感じます。
実ですが、実は私の名前でもあります。75歳、漠然とみのるを感じていましたが、中身が備わる、いつわり欠けるところがない、ほんとう、その他熟語を通して自分を律して生きてきたか反省です。
半端物より本物ですよね。
すっかり秋めいて、色づき始めた木々が雨に濡れています。この季節、青空に映える柿の木は日本の原風景です。
坪内稔典は茶道雑誌10月号の季節の言葉「柿」に柿を食べながら別れる芭蕉も惟然も渋い男だとし、
この渋い男ですが見かけが派手でなく、でも、奥深さというか「滋味」のようなものを感じさせる男を指す、と評しています。
この味わい深い「滋味」ですが有り難いことに同門10月号でも出会いました。猶有斎宗匠が巻頭言の不自由の中の自由で引用した即中斎宗匠の一文にあります。
失礼し、さらに引用させてもらいます。
不自由の中に積極的に満足を感じて、充足を覚え楽しさを感じるのである。
平凡なことを平凡にして、しかもそこに自らの妙味を見出すことは一朝一夕ではできない。これを悟れば、すべての日常のことに無限の「滋味」が湧いてくる。
とあります。
この「滋味」ですが、黄昏を過ぎた私に心地良さと力強さを与えてくれる言葉であり一文ですね。
第二日曜日は楽しみです。
円覚寺で横田南嶺管長の日曜説教に参加できることです。 説教はユーモアに富み、迫力もあり、感動頻りで、感謝です。
今月は、涅槃に関係したお話で、感動頻りでありましたが、特性なのか年なのか内容は失念です。 只、「静かに美しく」という言葉はハッキリと残っています。どんな内容だったのか、管長のブログ
で再確認です。
横田管長がお慕いする坂村真民先生のお言葉でした。
前日、小春日和をまったり過ごし、「静かに美しく」に思いを馳せる機会がありました。 墨絵の何枚かが思い浮び、また、「寂」の字が頭を過りました。「寂」ですが寂しいと読むと何か違うなとなります。
柴山全慶は禅心茶話で一字関「寂」を説明しています。
仏教語としての「寂」は涅槃と同義語であり、物が燃え尽きた状態であり消極的な語彙であるが、私達の大乗仏教の涅槃は悟りの世界であり積極的な、創造性、遊戯性を持っており、 禅の妙旨により裏付けられた不思議なはたらきにより、古い風趣をそえた「幽深閑寂な雅致」を表す言葉と変じてきたとしています。
そして、一種の審美的思考を超えて透関底の妙旨を味わい、茶禅一味を体得しなさい教えます。
「寂」の字の讃として閑座して松風を聴くを添えています。素直に「静かに美しく」の風情を体現できます。
また、有名な逸話に「寂滅為楽」があります。
明日は涅槃会、お釈迦様、真民先生を偲び、「静かに美しく」に思いを馳せます。