著者 : SeeCore 物事の本質を考えています。

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仏教:前世における結果として今があるのなら、運命は変えられず、努力する意味がないのではないか。

2013年08月16日 | 仏教

今回は仏教ですが、自分の運命だからとか、人生はあらかじめ決まっていて、なるようにしかならないとか、というようなことを聞いた事があると思います。運命が決まっているのだから、その運命に身を任せておけば良いのでしょうか。その辺のことを仏教的視点に立って、検討してみたいと思います。

著者:今回は、運命について少々考えてみたいと思います。このような議論は、おそらく、中程度以上のレベルの内容になると思います。そこで、本日は、お釈迦様の側近中の側近、智慧第一と賞されたシャーリプトラ氏においで頂きました。シャーリプトラ氏は、般若心経に舎利子(シャリシ)として登場してくる大変に有名な方です。よろしくお願い致します。

シャーリプトラ:わしは、神の世界をはるかに超えた、永遠なる静寂と絶対的な楽と幸のある世界へ住しており、人間界に降りてくるなんてことは普通叶わないことなのじゃが、向学心ある人たちが大勢いるようだから、飛んできた。わしに遠慮は要らぬ。何でも聞いてよいからな。

著者:ありがとうございます。仏教においては、神々は、お釈迦様やシャーリプトラなどのような方達の下に位置すると捉えられ、簡単に言えば、神以上の位の方なので、本日は、緊張してしまいます。

著者:さて、質問ですが、仏教においては、因果応報、前世において良い事・悪いことをすると、来世においてその結果を受ける、という原因結果の法則・縁起の法を説きます。この原因結果の法則は、如実にまた、正確に反映されるとしますので、今現在我々が生きて受けている苦楽は、前世の原因の結果であり、現世においてどんなに努力をしても、あまり意味がないのではないでしょうか。逃れられない運命に、無謀なあがきをしているだけではないのでしょうか。

シャーリプトラ:あれがあればこれがあり、あれがなければこれもない。これは、仏教の根幹の悟り内容だ。うん、確かにそのような疑問が生じてくることは、自然のことのように思える。運命が決まっているのだから、現世ではだらだら、何も考えずに、運命に身を任せて、ただ生きるだけ、というより、そうするしか方法はないのではないか、と考える衆生もいるものと思う。だがまず、こういうことを考えてみようか。現世の運命が決まったのは、前世だね。では、その前世の運命が決まったのは、いつだね。
著者:それは、縁起の法則に従えば、前世の前の前世ということになります。

シャーリプトラ:そうだね。その通りだ。じゃあ、前の前の前世は、いつの前世が作用しているのかな。
著者:それは、前の前の前の前世です。
シャーリプトラ:うむ。そうだね。そんな感じで、どんどんとさかのぼって考えてみると、例えば、大昔の前世でしたことが、その後ず~っと現世及び来世にまで作用することになる。
著者:え、どういうことでしょうか。

シャーリプトラ:前世で起こった事が、来世に作用し、その来世ですることがさらにその次の来世での運命に作用する。でも、運命であるとするならば、現世で生きている中、鎖に縛られたように、自由意志がなく、まるで人形のように運命に従っているだけ。それが原因となり、次の生においても同じような生存をし、さらにそれが原因となり、同じような来世を形成していく。それが、変化することなく、続いていくと考えられるということだ。運命云々を信じるならばね。
著者:(ドキッ) そ、そうですね。つまり、運命であるならば、現世の自分の振る舞いは決まっており、その決まったことが原因でさらに来世の結果が決まる。その来世も、既に運命によって決まっているのだから、同じような振る舞いをする。運命を信じるならば、確かに人形、全く同じような生存を繰り返している、繰り返すしかない、その運命から外れるなんてことは、あり得ない、ということになりますね。

シャーリプトラ:そうであるならば、君達は、大昔も今も決められた同じ線路の上を毎回毎回、飽きることなく、走っている、走らされているということになるね。そして、怒ったり、殺人を犯したり、淫欲に溺れる、なんてことも運命だから、やってもいいのだ、と開き直るのだろうか。自分ではどうしようもない運命なのだから、運命に縛られた自分には、責任はない、とでも思うのだろうか。

著者:(ドキドキッ) 私も、若い時分には、一瞬ですが、そのようなことを考えたことはあります。しかし、感覚的ですが、何か違う、人間の努力を考えると、運命なるものはあるにせよ、100%我々を規定するものではない、と思ったのです。努力することも運命によって決まっていた、と思えなくもないのですが、そうだとしても、やはり100%ではないと直感したのです。
シャーリプトラ:うむ。わしは、もちろん、運命は信じない。運命的は信じるがね。
著者:運命的とは。

シャーリプトラ:あえて言うならば、ということだが、縁起の法は、前世にしたこと言ったこと思ったことが原因となり、来世に結果として作用してくるというものだが、これは、来世が前世によって規定されると言う点では、運命のようにも見えるだろう。確かに縁起の法においても、原因が如実に結果として表れる。だが、それを受け取る者にも、若干の努力する余地がある。つまり、その後の運命を変えられるという余地が存在するのだ。

著者:ああ、そういう意味で、運命的と仰ったのですね。運命論の方は、運命を受け取るだけ。一方、縁起の法では、運命を受けるが、その後の運命を変えることができる、ということですね。運命という言葉がやっかいなのですが、運命論の方の運命は、人間には何も手出しは出来ず、受け入れるだけというニュアンスがあり、縁起の法による運命とは、前世の身口意(行為、言葉、心や思い)の行為が原因となり、来世において結果として如実に表れるというニュアンスがあり、人間の努力の余地を予感させます。
シャーリプトラ:だから、こう言った方がいいだろう。前世において行った行為が原因で生じた来世の結果は、避けることは出来ない。しかし、未だ来ていないそのまた先の来世の結果は、変える事ができる、ということだ。普通、運命は変えられないものだが、変えられるのだ。将来においてではあるが。

著者:少しずつですが、仰っている意味が分かってきました。そのことが本当なのかどうか、という議論も出来ると思いますが、それをすると複雑なものになるので、今回は、それを信じるとして話を進め、どのようにしたら来世を変える事ができるのかについてお聞きしたいと思います。

シャーリプトラ:ここからは、さらに仏教の教えの色を濃くしていくよ。方法だが、2つのことを伝えよう。1つ目は、原因結果の結果を受けたとき、耐えるということ。2つ目は、来世のよりよき結果を得るために今原因として良きことをしていくことだ。つまり、原因及び結果の双方においての所作を伝える。ヨクヨク聞くのだよ。
著者:はい。私も人並み以上に仏教に関する本を読み漁りましたが、きっちりと前世と来世と原因と結果についての記述が明確になったものはありませんでした。日常の理不尽な仕打ち、それへの対応法。来世を信じ、自分をより良い存在にしていくと考えている人には打って付けの内容ですね。

シャーリプトラ:まず一つ目から行こう。一つ目は、原因結果を受けたとき耐えることだ。これは、原因結果のうち、結果について対処法を言っている。現在受けていること、つまり人間であるという境遇、時代、人間関係、性格、能力等々、自分に関わるあらゆることが前世が原因で、このような結果として結実している。全てのものには、原因があり、それは前世であり、簡単に言えば、自分自身の責任で今の結果がある。変な言い方をすれば、今苦しんでいることは、身から出たさび、ということだ。今、外見上は、人が原因で自分が苦境に堕ちているということもあるだろう。しかし、それさえも、本当の原因を仏教的に説明するならば、前世における自分自身の振る舞いの悪さであるのだ。

著者:少々、愕然としてしまいます。何から何まで自分が蒔いた種であるということですね。そして、その種は、徐々に大きくなり確実に結果という花を咲かせる。理不尽な理由で痛い仕打ちを受けようが、それは理不尽なんかではなく、原因結果の法則、縁起の法で説明される、とても合理的に生じたものなのだ、ということですね。
シャーリプトラ:さあそれで、例えば、いきなり見ず知らずの男が当たってきて、暴力を振るわれた場合、君は、どうしますか。どう反応しますか。

著者:はやり、何の理由もなくそんなことをされたので、すごく理不尽に感じて、怒り、反発すると思います。少なくとも、身口意のいずれかにおいて、発散しようとすると思います。
シャーリプトラ:まあ、そうだろうね。それが普通のことだ。だが、もう言ったことだが、そうなる真因は、自分にある。それにもかかわらず、君は反発、反撃するというのかね。

著者:だって、頭にきてしまうんですもの。怒りって自然のもので、どうしようも出来ないものだと思います。
シャーリプトラ:うむ。正直な意見だね。じゃあ、こう考えてみようか。君が暴力に対して、反撃をしたとすると、その反撃は悪いことだ。その悪いことが原因で、来世以降さらに悪いことは起きるとは考えられないかね。もう一度言っておくよ。自分に関わるものは、全て自分が前世に蒔いた種だ。生じた結果に対して、同じように反発したら、同じような種を蒔き、同じような結果が生まれ、さらにさらに、同じように・・・・。ということで、永遠にこの苦しみのサイクルは、終わりはしないと思わないかい。少なくとも、原因結果の法則、縁起の法に照らしてみて、永遠に続き得る苦しみとは言えると思わないかい。

著者:あ、えーと。はい。そのように冷静に質問されて、冷静に考えると、そうなのだと思います。でも、怒ってしまうんです。つい、汚い言葉が出てしまうんです。つい、手が出てしまうんです。抑えることなんてことは、出来ないんです。理屈じゃないんです。自分の行動を正当化するつもりはありませんが、自然な反応を抑止するなんてことは、凡人である我々にはとっても難しいことなんです。

シャーリプトラ:ふー。まあ、簡単ではないよね。簡単に出来ていたら、君はこの世には生まれ出ていないのだからね。この世で苦しんでいるということは、簡単にはできないのは当然のことだろうからね。でも、抑止できなければ、永遠の苦のサイクルを味わうのだよ。わが師である、仏陀釈尊は、『実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である。』とはっきりと仰られている。自然に沸き起きる怒りの感情などは、抑止することは難しいだろうけれども、不可能ではないと、私は思うよ。元人間であった私が出来るようになったのだから、絶対不可能というわけではないだろう。我慢だ。我慢せよ。耐えるのだ。象が戦場で矢に撃たれても耐え忍ぶように、忍耐をするのだ。

著者:忍耐ですか。最近はあまり聞かなくなりました。聞かなくなったからと言って、価値がないわけではないですね。やはり、我慢するしかないのですね。
シャーリプトラ:その通りだ。じゃあ、次へ行くよ。次は、原因に対する所作を見ていこう。ほとんどの人間は、出来ることなら楽や幸せを受けたいと思っているはずだ。そうするためには、どうしたらよいのか。結論から言えば、良い事をすることだ。悪いことをしたのだから、悪い結果が生じるのだから、良い事をすれば、良い結果が得られるからだ。
著者:良い事をすれば回り回って自分の元に帰って来てその恩恵を受けられる、と説く人は多くいます。聞いたことのある人も多くいると思います。でも、現実は、次のようなものではないでしょうか。いくら自分が相手に笑顔で接し、困っていることがあったら精一杯の努力でその人に報いた。でも、自分は最終的には裏切られ、罵倒され、恩恵など受けた覚えはなく、回って来るなんてことは、絵空事の何物でもない、と思っている人もまた多くいると思います。

シャーリプトラ:うむ、原因結果の法則には、次のように説かれる。原因が固まり、結果が生じるまでには、時間が掛かる。まるで、牛乳が徐々に固まるかのように、と。先ほど出た例では、良いことをしても一向に良くならず、悪いことばかりが起きる、と言っていたが、その良いことは、直ぐには良いこととして結果にならず、来世以降であると見た方が良いだろう。悪い事ばかり起きるのは、自分が前世においてした結果であり、悪いことばかりしてきたからこそ、現世において悪い結果しか起きていないのだ。こういう場合には、とにかく、悪いことが起きても絶望せず、ひたすら耐えて、その状況下でも、継続してよいことをしていく。そうすれば、来世以降において、良い結果を受けることができることであろう。

著者:はい、そういうことですか。つまり、良い原因を作っておくことで、良い結果が生じるのであるから、多くの良い事をするべき、だということですね。そして、原因が結果として結実するまでには大変長い時間が掛かるのであるから、直ぐに結果が得られないからと言って、途中で良い事を止める、ということは良くない事だ。継続して、良いことを愚直に行っていくべきだ、ということですね。

シャーリプトラ:その通りだ。ところで、設問の答えだが、前世においてした行為の結果としての運命は、変えられない。しかし、来世以降の結果は、未だ決まっておらず、現世においての振る舞いによっては、今後はより良くすることができるのだから、来世の喜びを得る為という点においては、現世において努力する意味はあるのだ。
著者:はい、明確なお答え、ありがとうございます。それでは、最後にまとめて頂けますでしょうか。

シャーリプトラ:うむ。日常生活で受けるあらゆる状況の中で、原因結果の法則、縁起の法に則り、衆生が取るべき、最善の行動とは、以下の通りだ。良いことや悪いことに直面しても、天狗になったり相手を恨まないこと。忍耐をすること。また、一方では、継続的に良き事をしていくことである。決して直ぐに結果を求めない態度で行うこと。

著者:まさに、大人な対応ですね。人から罵倒されても、微笑み、決して恨みを持たない。それでいて、自分を罵倒するそのような相手にすら、その相手が恩恵を受けられるように行動する。素晴らしい人間ですね。
シャーリプトラ:うむ、仏教を学び、実践する者は、当然にこのような態度でなければならない。因みに行為とは、身口意(行為、言葉、心や思い)に分類され、その全てにおいて悪い事を抑止し、良い事を行う。ということだ。明日からでも実行してみて欲しい。

著者:分かりました。頑張って努力してみます。本日は、ありがとうございました。とても深遠なお話で、とても為になりました。知識としてだけでなく、実践できるようにしたいと思います。
シャーリプトラ:また、呼んでいいから。わしは、仏教のことなら時間を惜しまないから。
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