横隔膜雑録 (横隔膜のたわごと改め)

我思う、故に我あり。
ことばを愛おしみ、己をかたらう。
北海道からのささやかな自己主張。

酌量の余地はない、だが

2010年01月28日 | gooにコメント
「誰かに止めてほしかった」=返事なく、犯行実行-検察側冒頭陳述・秋葉原事件(時事通信) - goo ニュース
初めに申し上げますが、加藤被告は極刑に相当します。
心神耗弱状態だとしても、計画性は十分備わっています。
極刑からの減刑を考えるのは、どう考えても難しい。

その上で、敢えて申し上げます。
加藤被告を、ネット社会の弱者、被害者として捉える論点が必要です。

弱いからこそ”便所の落書き”にも等しい掲示板・プロフの陥穽にはまり、
ついには自らを追い込まざるを得なくなってしまった。

対面での人間関係の構築に、難しさを抱える人は多い。
僕も20代の頃は、自分をうまく出せなくて苦しんだ時期があった。

あの頃はネット社会といってもせいぜいパソコン通信。
僕のように貧乏人は、そのインフラを手にする機会も持てなかった。

結局、もがきながらいろいろな人間関係を持ち、
その中で自分をすくい取ってくれる人間関係を見いだし、
自分に無理をかけない自己表現のスタイルを確立した。
だから、今はよほどの圧力的存在がいない限り、様々な人に対応できる。

加藤被告は、一足飛びにネット社会に飛び込んでしまった。
ネット社会は裾野が広いから、ユニークな存在でも対応してくれる。

だが、それがオフラインでの対面に繋がった時、
ネット上の饒舌さは失せ、対面での過剰な緊張が生じ、関係作りに失敗することがある。

あるいは、あくまでオンデマンドだから、都合の悪い相手とのつながりは最大限絶てる。
直接の対面関係だったら、いやでも会わねばならぬこともあるが、ネットにそれはない。
一度レスのあった人が、不快を感じた瞬間、二度と関わりを持たなくなる。

加藤被告は、まさにネット社会の「負のスパイラル」にはまってしまった。
最初から悪意に満ちた人物ではなかったはずだ。

カール・マルクスは、「人間疎外」の状況を訴え、共産主義社会の実現を説いた。
資本主義は人間疎外を生む。
この点に限って言えば、マルクスの予言はネット社会の出現によって極まったといえる。

大人の責任、とも言えないのがネット社会の難しい所だ。
環境さえ整えば、誰でも、いつでも、何処ででも、ネット社会への仲間入りが果たせる。

加藤被告のような究極の弱者の誕生を、どのように食い止めるか。
ネットの監視役のような者が現れ、加藤被告のような方に手を差し延べるか、
ネットに繋がる前に、徹底して対面的人間関係を鍛え上げる社会の仕組みを作るか。

攻撃的でもない人が、攻撃性を持つに至る、ネット社会の危険性。

奇しくも先週、世界初のTwitter絡みの殺人事件が、米国で発生した。
ネットがなくたって起こりうる、と言うなかれ。
ネットは負のベクトルを増幅するのだから。

こんな僕でも、ブログのカウントが低い時は、ちょっとへこむしね。


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