ウェブ社会を堅く考えてみた

インターネットの無限ともいえる空間の中で、人々は何を考え、どう行動したいのか、ちょっと学問的に見てみようと試みるブログ

どうなる?鹿児島県知事

2016-12-30 02:27:46 | 日記
今年、鹿児島県知事選挙が行われその当時現職だった伊藤氏を破り、元テレビ朝日コメンテーターの三反園氏が当選しました。

民間からの初の知事の誕生と胸躍るようなマニュフェストの数々がありとても期待しておりました。

川内原発において熊本地震の影響から即停止を求める意見書を九州電力社長宛てに提出しましたが「特別点検は実施するが停止はしない」といった回答が返ってきて即停止とはいきませんでした。

そして今後もこの活動をしていくと思っていたのですが、先日「知事には川内原発を停止する権限は無い」と発言し、周りからはこれは公約違反だと知事を批判する意見が相次ぎました。

また原子力検討委員会の設置についても詳細については発言せず、結局川内原発は再稼働しました。

またその他の公約には鹿児島ユナイテッドFCの環境整備、ドーム球場の建設、指宿スカイラインの無料化実現、アウトレットモールの誘致など沢山のマニュフェストを上げていますが今現在も具体的な話は出ていません。

疑問に思ったのはドーム球場の建設なのですが、現在プロ野球の公式戦は年に1~2回しか行われずドーム球場を建設する意味はないのでは?と思ってしまいます。

それよりもいち早くサッカーJ3鹿児島ユナイテッドFCの新スタジアム建設を優先的に実行すべきではないかという声もあります。

今後4年に任期が務まるのか、不安定な県政にならないかとても心配です。

強制両替が必要だったミャンマー

2016-06-04 19:52:46 | 日記
15年前にミャンマーを訪れたことがあります。

この当時私は約10日間の日程で旅行に行ったのですが、期間に関係なく、ミャンマーに入国するときには、日本円にして約2万円の強制両替が必要な時代でした。

当時のミャンマーはとても物価が安く、日本円で2万円というとあまり使いきれる金額ではありません。そのため両替をしたお金をどのように使用しようかとても悩みました。

両替をしたところは空港。そこで、入国した人はみんな両替をしなくてはいけないのです。

ミャンマーは軍事国家だったために、空港内も銃を持った軍人でいっぱい。何だか恐ろしいような雰囲気。そして高額の両替にもかかわらず、両替所で文句を言っている人は誰一人としていませんでした。

文句を言えるような雰囲気でもありませんでした。そして空港を出ると、景色は一変。そこには、本当にのどかなミャンマーの世界が広がっていました。

私はこの強制両替に納得していたわけではありません。でも一方で、旅行者からは安全料、安心料だと思って支払ったら良い、これもまた経験だと言われて納得することができました。

結果、私はこの強制両替のお金を使うために、結構いい旅行が計画できたのです。

本当は電車で行くようなところをタクシーチャーターで行ったり、あとは馬車に乗って遺跡巡りを楽しんだり…。強制両替をしたおかげで、いろいろなことも経験できて、本当によかったと思います。

外国人だから、お金を持っていると思われるかなと思っていましたが、そんなこともあまり感じませんでした。

時は流れてミャンマーも大きく変化しました。選挙も行われ、かつて軟禁されていたスーチー氏も新たな政府のメンバーとして表舞台に出てきています。これからどうなるのかは、かなり気になります。

少年事件の報道に思う

2015-03-04 00:27:39 | 日記
川崎市で起きた残虐な事件。

13歳の中学1年生の男子生徒を、18歳の少年がリンチの上殺害したという疑いが持たれています。
逮捕された少年については、氏名も顔写真もわかりません。少年法に則って報道機関が自主規制をかけているからのようです。

これに対し、被害者の少年については、氏名はおろか、顔写真、家族構成、略歴、果ては卒業文集のコピーまで、これでもかというほどに情報が毎日報道されています。

とても違和感を感じます。被害者のプライバシーは尊重されていないのでしょうか。
それに、こういった情報が出てくるのは、誰かがマスメディアに話しているからです。

勿論、情報を発信することは大切です。
ただ、事実を把握して再発防止を考えるためには、関連情報を知ることが大切です。

では、なぜ加害者(と疑われる)少年については報道がされないのでしょうか。

少年法は、未成年者の可塑性、すなわち、更生して社会復帰する可能性が成人より高いことを根拠に、少年について報道することを規制しています。

具体的には、少年法第61条において、「家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であること推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。」と規定しています。
これを踏まえ、昭和33年、新聞協会は「少年法第61条の扱いの方針」を策定し、原則として「20歳未満の非行少年の氏名、写真などは、紙面に掲載すべきではない」としています。

しかし、これはもう半世紀以上も前の話です。少年犯罪の凶悪化が進んでいる昨今、報道のあり方も含めた少年犯罪の見直しが必要ではないでしょうか。

大雪のバレンタインデー

2014-03-06 00:15:21 | 日記
2014年2月14日、ホワイトバレンタインデーだと喜んだ人はいなかったと思います。

日本の広い地域、特に関東でも大雪となり多くの被害をもたらしました。

普段雪の降らない地域は、行政の対応も後手後手で結果的に被害を大きくする形になったように感じる部分もありました。

道路封鎖の遅れによって立ち往生した車が二次災害的に渋滞を引き伸ばし、物資輸送の停滞がおこったことで食料品が品薄になったり、雪の重みにつぶされたカーポートや落雪による事故。特にひどいのは農家のビニールハウスや農産物です。

冬の今の時期に出荷を迎えるネギやブロッコリーなどの露地野菜。それらを育苗したり、春や夏の出荷に備えて準備をするためのハウスが軒並み雪の重みによって押し潰されてしまいました。

被害額がうん億円になりましたと言う報道を見ていて思うのは、まだ雪をどかせもしない農家が沢山いるのが実情なのでまだまだ被害額は増えるだろうと思うのです。

雪がやんだ後、道路に積もった雪を掻き出そうにもホームセンターからスコップはなくなり似た形状のチリトリまでなくなる始末で、もう手に負えないとはこうゆうことだと痛感した人も少なくなかったと思います。

大地震や津波の被害に比べれば大したことはないのかもしれませんが、今回のこの大雪は立派な自然災害であると認識しなければいけないと思うのです。

道路上で動けなくなった車から出て歩いて帰ろうとした人が凍死したり、屋根から雪を下ろそうとして転落したり、落雪に埋もれてしまったり、豪雪地でしか起こらないと思っていたような事故が私たちの身近な場所で起こってしまったのです。

予想外、想定外では済まされない事態だと思いました。

行政や政治家を責めてもしょうがないことかもしれませんが、私たち自身がそう言った自然災害に対して普段から備えなければいけないのだと思います。


東日本大震災からもうすぐ丸3年を迎えます。

あの時に感じた恐怖や不安、悲しみや苦しみを教訓にしなければいけないのです。

夏には集中豪雨や竜巻、落雷なども起こります。

どうやって対処するのか、もう一度真剣に考えていかなければと感じた大雪のバレンタインデーになりました。

アイデンティティが持つ「リスク」

2014-02-14 14:24:59 | 日記
長らくまた記事を書かない日々が続きましたが、今まで溜めていた予定がひと段落したので、今日は久々に投稿します。


2014年に入り、日本の政治の舞台や社会では、新しい現象が起きているように思えます。

それは、いわゆるネット右翼(ネット保守)と呼ばれる人々の政治活動の活発化です。

先日の都知事選においても、彼らの支持を背景として一定の票を集めることに成功した候補がいたようです。

彼らは保守的な政治を志向する側に分類されますが、主に朝鮮半島にルーツを持つ人々の排斥や、軍事力の極端な強化など、旧来よりも急進的な主張が目立ちます。

その名前の通り、彼らはインターネットが普及したこの時代ならではの存在です。

既存の政党が得意としているような、組織的な政治活動を行うわけではありません。中には「デモ」という形の直接行動を取る個人や集団もいますが、政党との結びつきは希薄です。

また、主張そのものも旧来の保守層との共通点および相違点を整理する必要があるでしょう。

ただ、今日は別に彼らの活動にスポットを当てるわけではありません。

むしろ彼らが常日頃から唱えている主張の源泉には、何が横たわっているのかということについて考えたいと思います。

すなわち、「アイデンティティ」についてです。


2ちゃんねるをはじめとした掲示板や、WEBのニュースサイトにおけるコメント欄で昨今目立つ言説があります。

相手が個人・団体ということに関わらず、批判する対象に対しては「朝鮮」や「韓国」もしくは「シナ」などといった、周辺諸国との結びつきを示唆するというものです。

例えば、「○○は在日だ」といったコメントなどを見たことのある方も、多いでしょう。

こうした言説をひっくり返してみれば、批判しているほうは「正統な日本人」ということになります。

自らの主張を強化するために、自分が住んでいる日本という国または国家を潜在的にちらつかせることで、第三者からの共感を得やすくしていると考えることもできます。

なぜなら、それらの主張は日本語で書かれており、読む側となる第三者も同じ日本人がほとんどであるためです。

そして、彼らの主張には結論が先行しています。

例えば歴史問題についても、「〇〇は存在しなかった、でっちあげだ」といった類の、断定的表現がよく使われます。

主張の裏付けが可能な質量を持つ情報の有無や、その中身の話を飛ばして、です。

プロセスよりも、結果を追い求める姿勢がうかがえます。


先ほども書きましたが、種々の批判は主に近隣諸国へその矛先を向けていますが、あくまで日本という枠の中だけにとどまってしまいがちという点が興味深いのです。

本当に近隣諸国に対して自らの主張の正当性をアピールするのであれば、それこそインターネットの力を生かして、海外向けのサイトを作成したり、海外の掲示板に進出するという手段もあるはずです。

ところが、そうした動きはごく少数(もしくはほぼ皆無)にとどまっています。

言語の壁はもちろんあるでしょうが、自分たちと同じ日本人から共感を得ることに主眼が置かれているならば、現在の傾向はうなずけます。


やはり、アイデンティティという言葉を抜きにしては、昨今のこうした言説を考えることはできません。

過激な政治的主張の背景には、アイデンティティの希薄化があると、私自身は思うためです。

都知事選の結果の限りでは、そうした言説に共感できる人々は、人口が密集している都市部に多い傾向があります。

都市部は人口が多いですが、その分人の流れが流動的であるため、コミュニティは十分ではありません。

所属できるコミュニティがないということは、その分「自分が何者であるか」という問いに対して答えにくい環境下に置かれていると言えます。

そこに明快な答えとして登場するのが、「自分は日本人である」というメッセージです。

社会に表れるさまざまな出来事や個人や集団を全て、日本人とそうでない人に分けることができるならば、なんとわかりやすい世の中でしょうか。

加えてここで使われる「社会」や「世の中」という言葉の範囲が狭ければ狭くなるほど、上記の言説を運用しやすくなります。

そうすれば多様な世界を視界から外すことができるのですから。

そしてこの言説の中に彼ら自身がうまくおさまることができたならば、アイデンティティの問いに対して勝ち(価値)を得たとみなすでしょう。

同時にこの単純な区分によるアイデンティティの確立は、排他性を持っているということも強調しておきます。

区分の枠組みが大きくなればなるほど、「関わりたくない外部」とみなされる者を増やすことになります。

自分たちの属する枠の「内部」に全ての共感と連帯感を求めるという傾向がある以上、なおさらです。

「内部」でのみ生きていく場合は何も支障がなくても、多かれ少なかれ多様な人々と交わらなければならない現代社会において、この言説は非常にリスクを伴うという点を忘れてはなりません。