テキトー日記

自主制作監督日記

川島雄三2

2005年12月04日 | 日記
さてこの川島雄三という人は生涯50数本の作品を残しているんだけど、なんといっても「幕末太陽伝」が一番有名で出来がいい。
映画史にのこる名作なんだけど、これと「洲崎パラダイス」「貸間あり」がこの監督のベスト3だとおもう。

個人的な思い入れだと他にもあるだろうけど、一般的にもこのあたりだろうと思う。
ラーメン博物館に以前、「居残り屋雄蔵」という店があったんだけど、川島雄三のあだ名が「居残り雄三」と言われていたんで、きっとここからいただいたのだろう。
ほかにもたくさんの当時の有名人からもじった名前の店や表札があるのだ。

居残り屋とはそもそも吉原などの遊郭の用語で、たとえばグループで遊郭であそんだものの、お金がなくなってしまい、一人だけ残してお金を取りに行くのだが、もどってこずそのまま人質に残った人が居残ってしまうのが居残り。
これもいろいろな段階があって、ただいついてしまうのはいいほうで、しまいにはその遊郭でフランキー堺の「居残り佐平次」のように仕事をして、じぶんで商売をはじめてしまう段階までいってしまうひとがまれにいるらしい。

ここまでいくとやっと「居残り」の称号がいただけるらしい。
まあ遊郭にとってはやっかいものだが、揚げ代がもらえないとわかった段階で少しでも稼いで、返してもらわないといけないのだからじっとしているよりはいい。

映画のようになかなか調子のいい達者な人もけっこういたらしい。

そういえば「洲崎パラダイス 赤信号」のほうの三橋達也と新珠三千代の2人はなんだか懐かしいような気がするのは、どこかうちの叔父夫婦を思い出すからなのだろうか。
僕の知っている叔父は見た目も性格も勝新ににていて、行動も似ている。おかげでうちの父親とはそりが合わなかったようだ。

うちの叔父もそうとう勝新と三橋達也の役を足して2でわったような人だったようだらしい。
若いときはかっこよくって、相当女を泣かせたし、親兄弟もおかげで苦労させられたという。
なんだか三橋達也と新珠三千代の関係をみているときっとうちの叔父夫婦も若いときはこんな感じだったんだろうなあと思ってしまった。
ちょっとうらやましくも思う。
親兄弟にとってはとんでもないだろうけどね。
ただもうこういうあじのある昭和の匂いのする人達はいなくなってしまったというのはチト寂しい気もする。

まあそれはさておき、あの一杯飲み屋「千草」の轟夕起子の商売や状況が祖母に似ているし、いまはもう見られなくなったような昭和の匂いがする主人公2人が懐かしく、リアリテイを感じるのはそのせいなのだと気が付いた。

そもそも川島雄三の映画を見るようになたのは、以前付き合っていた女性が映画好きで、同じ趣味をしていたところからなのだった。

なかなかの美人なうえにかなりマニアックな女性で、今村昌平編「サヨナラだけが人生さ」を持っていて(もちろん今売っている再販前なのだから相当マニアックだとおもう)
それを貸してもらってからなのだ。

彼女のおじさんというのも相当マニアックで、その影響が大きかったようだ。

けっこういろんな映画を一緒に観た。
僕のマニアックな映画趣味についてこられたのは今までで彼女くらいなものだろう。

僕の趣味に古書めぐりがあって、最近は行っていないが、神田の古本街をいっていたのだが、だいたいが付き合いきれず、表で彼女が待つ羽目になることが多い。
しかし彼女は唯一一緒に古書屋めぐりが出来る女性でもあった。
役者をやっていたこともあって、よく芝居や映画の話をして過ごした。

生の黒澤明を見かけたときは二人とも声がでないほど喜んだものだ。

ほとんどビデオ化されていない川島作品を持っていて、そのなかでこの作品のビデオは借りたままになっている。

「洲崎パラダイス」の名前を見るたびに、うちの叔父とその頃の彼女を思い出してしまうのでした。




川島雄三を見に行く1

2005年12月04日 | 日記
さてさて、11月26日は新文芸座に行って川島雄三監督の「幕末太陽伝」「洲崎パラダイス・赤信号」を見に行く。

幕末太陽伝は明治維新まであと5年という幕末の時代の映画。
品川の遊郭で大判振るまいの佐平次(フランキー堺)は実は一文なしで、居残りとなって腰を落ち着けることに。
もう一組の居残り組は高杉晋作(石原裕次郎)をはじめとする勤王の志士たち。佐平次は彼らと仲良くなり、やがては廓(くるわ)の人気者になっていくが…。

洲崎パラダイスは実際にあった赤線地帯で、映画は金も無く、行くあてもない男女のカップル(三橋達也・新球三千代)が勝鬨橋の上で隅田川を眺めているシーンから始まる。
洲崎橋の手前の一杯飲み屋「千草」が舞台になっていて、そこに立ち寄る赤線の女たちと、そこに遊びに来る男たちの模様を描いている。ラストもこの場所でおわる。
ふたつの作品ともラストはその場所から去っていくところで終わる。
これは監督の逃避願望からきているのか?
事実この監督は先天性の病気を持っていて、そのことから逃げたいという願望からなのだろうか?
「幕末太陽伝」の本当のラストは逃げていくフランキー堺はそのままセットを走り抜け、スタジオを走り抜け、現代の町を走り抜けていくところで終わるはずだった。
しかし当時のスタッフや映画会社は反対し、今のようなラストになった。

今観ると現代(昭和31年当時)の品川が紹介されるタイトルロールはそのままラストに繋がるのだった。そのラストのアイデアのかけらが残っている。
もしそのラストが実現していれば、きっとさらに違った映画になっていたのだろうと思うと残念でならない。


これは撮影監督の高村倉太郎特集だったのだが、この2日ほどまえに本人が亡くなられたのはざんねんだった。
本が出版されたばかりだったのだが・・・

さて久々に見た2作は、やっぱりビデオで見るのと全然違うし、感動も違った。

以前、黒澤明の「影武者」を見たときもそうだけど、面白いのに途中で眠くなってしまった思い出があった。
しかし後日大スクリーンで見たときの感動は大きかった。
全然印象がちがったのだ。
また、黒澤作品はカラー作品以前と以後の評価は分かれる。
特にカラー作品は監督の心境の変化もあって、引きの画が多くなるのでなおさらスクリーンで見るのとはちがう。
とくに撮影所育ちの監督作品はもともとTVの画面で見るようになっていない作品がおおいので、この現象は今の監督以上のものがある。

今回の川島作品はその役者たちの表情から受け取れる印象が相当違った。
この両作品はビデオで持っているのだけど、こんなに微妙な表現を役者たちがしていたとは思わなかったのだった。

特にフランキー堺の居残り佐平次は結核で少しずつ襲ってくる死を予感させる演技がすごい。古典落語の「居残り佐平次」、「芝浜」、「品川心中」などのネタをドタバタギャグに仕立てているが、それだけでなく、優れた文学作品のような奥行きがある映画でもある。

しかし文学は人物の心情を表現できるが、映画は文字で表すことはできない。ましてや台詞で言ってしまうと陳腐になってしまう。

それをこんなにまで複雑に上手に表現する映画は稀だと思う。
そしてこの人数の出演者をうまくまとめてみせる演出力にぐうの音もでなかった。

洲崎パラダイスの三橋達也のだらしがない男っぷりもそうだ。
恋人の新珠三千代がお客のラジオ修理屋にべたべたしているのを不機嫌そうにしている演技は、同じようなシーンが繰り返されるにも関わらず、あきさせない。

ううん・・・今回は映画の表現について大変勉強になったのだった。










無声映画をみにいく

2005年11月18日 | 日記
前から楽しみにしていた無声映画上映を池袋の文芸座までみにいちゃっやったのだ。
稲垣浩監督昭和6年作品の「瞼の母」昭和5年作品「諧謔三浪士」
弁士は女性弁士で有名な澤登翠。
この人は数々の賞やテレビで取り上げられているから知っている人もいるだろうけど、弁士という絶滅しかけていたジャンルを再び継承し、エンターテイメントとしてよみがえらせた人でもある。

彼女の師匠の松田春翠は最後の弁士と言われたひとで、全国に残っている、散らばっている無声映画を掘り起こし、集めてきては保存に努めた人でもある。
現在残っている数多くの戦前の映画はこの人のおかげといってもいい。大体この時代の企画モノでマツダ映画社という文字が入っているのはこの人が収集したものである。
ちなみに街頭紙芝居もけっこうのこされている。

この松田春翠の弁士は名調子で、いまでもビデオやレコードにのこっているのでぜひ聞く機会があったらどうぞ。
僕の持ち物のなかには、大河内伝次郎の「丹下左膳」の弁士入り映画説明のCDと、大河内伝次郎の名場面集の弁士入りを持っていて、これでファンになった。

もともと男性がほとんどだった弁士のなかに入った澤登さんが入って依頼、いまや女性の弟子が多いくらいになった。
この人の弟子の方が諧謔三浪士をやったのだが、なんといっても片岡千恵蔵が若い!
どうも片岡千恵蔵というとむっくりしたあの顔が思い出されるが、この頃のかれは目鼻立ちがくっきりとした、やせてスマートなモダンボーイだったからおどろきだ。
どうも千恵蔵というと、「血槍富士」や「多良尾判内」のイメージが強いけどね。
あと「諧謔三剣士」はあの三銃士もヒントにつくったコメディで、このころから3人組の武士はコメデイ担当の役は槍が得意技らしい。
この後の「春秋一刀流」「三匹の侍」「三匹がゆく」までこのタイプの3人のパターンは続くのだった。

しかしやっぱり侍役は女性にはきついかなと思うところがあったけど、さすが澤登翠さんのばんになると、この違和感はなくなってくる。声は女性でも、べらんめえ口調や声を少ししわがらせて感じをだすので、聞いているうちに自然に物語りの中にひこまれていった。

レンタルビデオ屋に松田春翠弁士入りの映画があるのでよかったらみてください。小津安二郎の無声映画時代のやつはけっこうおいているので。

帰りにラ博以外のラーメン屋でラーメンたべてすぐに帰ったのでした。

上方落語と街頭紙芝居2

2005年11月18日 | 日記
さて、上方落語は久々に桂米朝の著書「私の履歴書」と「米朝集成1」を読んだので思いついたことを書いてみた。

というのは今やっている紙芝居をもう少し技術やお話をより向上してみたいんだけど、なかなかその壁がぶち破れないからなのだ。
それは一つに紙芝居がないというのが一番大きい。

本来紙芝居は半分使い捨てのような感じであったから残っていないのだ。
しかも印刷はお金がかかるので、手書きのものを貸し元が所有して、レンタルしていたからその物自体がひとつしかない。
街頭紙芝居の歴史は意外と浅く、昭和に入った頃に始まったのだ。
紙芝居自体は江戸時代から存在したが、字のごとく紙が芝居していることから始まる。
たとえば桃太郎の絵があって、それを切り抜いて棒をさして、くるっと回せば違う表情や何かに変身するといったもので、いまでいうペープサートみたいなものだった。
でもこれは登場人物分の人形と場面ぶんの舞台を用意しないといけないのでなかなか技術がいる。
これを焼き鳥焼くときみたいに横に寝かし、鏡に反射させて客席から見えるようにする。
すると1人で何本も動かすことができるのだ。

たしか随分前に昭和14年頃ののらくろ少尉のマンガで見た気がする。
みんなが知っている紙をめくって見せるのは専門的には平絵といって、保育園や幼稚園で見るのは教育紙芝居という。

だから紙芝居の歴史はそんなに古くない。
しかし活動写真の弁士や落語、浪曲、講談、浄瑠璃のように日本は話芸という土壌があるので受けいられやすかったのだと思う。
またたくまに街頭紙芝居は広がっていったわけで、おかげで近所の駄菓子屋からクレームがついた。
だって子供が少ないお金で買いにきているのに、それを全部紙芝居屋が持っていってしまうのだから。

そこで国は都道府県ごとに街頭紙芝居は許可を必要とすることとなり、鑑札をつけていない人は紙芝居ができないことになってしまった。

おりしもTVの影響で街頭紙芝居はすっかり廃れてしまった。昔は共産主義者が紙芝居を使って活動をしていたり、紛れ込んでいたりした。
紙芝居をやっているとよく刑事が張り込んでいたなんてことがあったらしいが、それもすっかり今は昔のこととなってしまった。

もうひとつは紙芝居自体が子供と時代に合わなくなってしまったのだろう。
いくつか街頭紙芝居の実演やビデオなどを観る機会があったが、正直な話あまりおもしろくなかった。
御幣があっては困るが、これは紙芝居という分野がかつてあれだけ子供たちのこころを引き付ける力があって、メジャーな分野だったというレベルの話なのだ。

紙芝居は奇想天外、ナンセンスなものもいっぱいあって、おもしろい。しかし今の人には古い。
当時のやり方では珍しくても2回3回とかつてのように引き付けるのには、かつての上方落語のように
再構成してギャグを新しくしないといけない。

幸いラ博の紙芝居をやっている連中も自分のスタイルを持ち、今の人に受けようと、切磋琢磨しているとおもう。

歌を取り入れる人もいれば、お笑いを取り入れたりする人もいる。
ぼくが一番参考になったのは上方落語で、笑いと情緒がうまくそろっているので、僕向きだと思った。

とくに米朝、枝雀は参考になった。

枝雀は笑いの割合が多い、しかも身振りなどのアクションとテンションがうまく取り入れられ、マンガ的な笑いの中にも物語の面白さを見せていく芸風だと思う。事実枝雀はマンガが大好きで、中でも手塚治虫のファンでもある。自分の番組にゲストとして来て貰ったこともあるほどだ。

米朝は関西でも大阪出身ではなく、姫路の神社出身ということもあって、大阪にありがちなどぎつい笑いに走らず、落語にも江戸落語のように情緒と笑いのバランスが絶妙だと思う。
だから大阪人が笑いのほうに割合が大きくなりがちなのと違い、品がある。
長いことこの人は京都の旦那衆の家系なのかなあと思ったほどだ。

芝居仲間でもある廣島屋さん(http://homepage3.nifty.com/hiroshimaya/ )
は江戸落語を、中でも志ん生、志ん朝系の影響が強いと思うのだけどいかがなものだろうか。


さてこの紙芝居、べつに次世代を担うなんてこれっぽっちも思っていないし、そんなにうまくない。
ただ、昔の人に負けたくないとうい思いだけはあるかな。
出べそがしゃべる「ぺちょこちゃん」やはだかんぼうのデブの小僧がいたずらする「スカンク小僧」
そしてヒーロー「黄金バット」などいろいろやっているので、興味ある人は一度ラーメン博物館に来てもらえればと思う。

あ、ちなみに平日1:30~・3:30~・7:30~の3回やってます。

上方落語と街頭紙芝居1

2005年11月18日 | 日記
最近ドラマの影響で落語ブームらしいけど、ぼくは江戸落語より上方落語が好みなのだ。
なかでも桂米朝がひいきで、CDからビデオから、はたまた昔だしたレコードまで持っている。
著作も数冊もっていて、独演会にも足をはこんでいる。

きっかけはマイミクで、同志でもあるしょうごさんことウメちゃんから借りたテープだった。
まだ高校生だったころ、桂枝雀とともに貸してくれた。
落語は関西では今でもけっこうテレビでやっていて、よく見ていたが、やはり時間の制限もあってか、CDで聞くのとは全然違う。

中でもおすすめなのは「地獄八景」だ。

これは大ネタで演じると一時間もある大作。
同じ演者でも時と時代によってちがうからおもしろい。
米朝でも同じネタでもレコードを出した時期でちがう。
落語は生ものだから変わってくる。
しかも米朝はそれまでマイクに向かって録音していた落語を、ライブ録音したのを出しているので、寄席にいっている気分になる。

やはり演じるとは客の前とマイクの前では変わってくる。
まあこの日記は舞台関係者か経験者が読んでいるのがほとんどだからわかると思うけど、不思議なもので全然エネルギーがちがってくるのだ。

絶滅しかけていた上方落語を復活させたのは他でもない桂米朝や六代目松鶴、春団治、文枝の人達が戦後新人として登場したことにはじまる。
昭和4年にエンタツアチャコがしゃべくり漫才を開発して以来、関西の寄席は漫才一色になってしまったのだ。
それまでイロモノとされていた寄席の番組が漫才を占めてしまったときから、笑いを人情やストーリーでみせていく落語はどうしても地味なものになってしまう。

派手ごのみな大阪人にとっては漫才のほうが喜ばれるのだろう。
次第に忘れられていった上方落語も、東京ではすっかり滅びたと思われていた存在になっていた。

そこに現れたのがこの四人だったわけで、以後上方落語は今や200人以上にもなる演者がいる大所帯になったのだ。

さてようやくここからが本題。

笑いとは時代によって左右される。
落語もそうで、古典と思っている作品はかなりの手が加えられて、この人達が、話の断片を古い落語家から聞いて集めてきた話を再構成し、新しいクスグリをいれて仕上げたものがけっこうある。

やはり今の時代にあわなかったり、言葉が通じないオチも多いからだ。
落語は能や狂言、歌舞伎とちがって、定本というのがない。
だから時代に合わせて自由に変化していく。

それはいま僕がやっている街頭紙芝居にも関係する。
すでに街頭紙芝居は絶滅していて、かろうじて本当の路上でやっている人が残っている程度だ。
しかも紙芝居を紙芝居屋に貸し出している貸し元が大阪に一軒を残すのみ。
(ちなみに三色会といって大阪の中ノ島あたりにある。紙芝居は本来紙芝居屋が持っているのではなく、この貸し元に毎日レンタルしに行き、そこで駄菓子と今日の分の続きの紙芝居を仕入れてくる。
そして近所の町内をまわるのだ)

それはやはり街頭紙芝居が時代に会わなくなっているからで、なくなって欲しくないものなのだが、こればっかりは仕方がない。
時代にそぐわなくなってきているからだ。

ラーメン博物館で僕たちは紙芝居をすることになった。
しかし正直、街頭紙芝居なんか見たことがない連中ばかりだった。
やり方さえもわからない。
どうしようかとなやんだ。
そんなときに思いついたのが落語だった。

さてどうしたかというと、それはまた次回に続くのであった。