■ 2021年03月06日 水戸学の道と水戸ロマンチックゾーンを歩く
JR東日本駅からハイキング「水戸でもハイキング~歴史的景観は水戸学の道から~」に参加してきました。この時期、「水戸の梅まつり」で数回、茨城県水戸市を訪れ偕楽園や弘道館も訪ねていますが、今回、駅からハイキングが開催され、水戸市の歴史的景観を整えた水戸学の道とロマンチックゾーンを訪れることができました。
今回歩いたルートは、水戸駅で駅からハイキングの受付後、義公生誕の地~水戸学の道~弘道館~水戸市立博物館~水戸ロマンチックゾーン~偕楽園&好文亭~千波湖~水戸駅で水戸市の街歩きを堪能しました。
▼ ルートマップ
▼ JR常磐線水戸駅
▼ 義公生誕の地(水戸黄門神社)・・・水戸の生んだ不朽の傑人「水戸黄門光圀」(義公)は初代水戸藩主頼房(徳川家康の第11子)の第3子で寛永5年(1628)6月10日、家老三木仁兵衛次の邸に生まれた。(案内板より抜粋)
■ 水戸学の道・・・水戸学は、水戸藩主徳川光圀公(水戸黄門)の「大日本史」編纂が始まりとされる。江戸時代後期には徳川斉昭公らが天皇のもと国全体で諸外国に立ち向かう「尊王攘夷」論を示した。藩を越えて国家的視野から様々な課題に対応する理念が、明治維新や近代日本の形成に大きな役割を果たした。(案内板より抜粋)
▼ 柵町坂下門・・・柵町坂下門は二の丸の南口にあたり、この門をくぐって坂を上ると、二の丸に入る柵町門がある。二つの門の間に下乗札が、坂下門の外に下馬札が立っていた。また、大下馬という長屋があったともいわれている。門は「高麗門」という様式で、2本の本柱(鏡柱)の後ろにそれぞれの控柱をもち、本柱と控柱の間にも屋根を乗せるのが特徴。(案内板より抜粋)
▼ 旧水戸城薬医門・・・この城門は、旧水戸城の現存するただ一つの建造物。形式は正面の柱の間が3つ、出入口は中央だけの三間一戸の薬医門、二つの脇扉がついている。薬医門とは、扉を支えている本柱とその後ろにある柱(控柱)で支えられた屋根の棟の位置を中心からずらす形式で、側面の姿は対称形ではない。正面から見ると、軒が深いため門はゆったりとして威厳があり、大名の城門にふさわしいので多くつくられた。建立の時期は、構造や技法からみて安土・桃山期と推定され、佐竹氏の時代(1591~1602)に創建され、徳川氏に引き継がれたものといえる。(案内板より抜粋)
▼ 杉山門・・・杉山門は、二の丸の北口あたり、坂を下ると杉山通りに出る。門の内側には、敵の侵入を遅らせるため土塁で桝形が形成されていた。「水戸城実測図」によれば門の規模は4件1尺といわれている。(案内板より抜粋)
▼ 杉山坂・・・杉山坂は寛永2年(1625)に初代藩主徳川頼房が行った水戸城大改修により整備された坂。この坂は藩主御殿のあった二の丸曲輪に通じる重要な通路。坂の中ほどにやらい門があり、その門をくぐって坂を上ると杉山門があった。また、やらい門と杉山門の間には下乗札と下馬札が立っていた。(案内板より抜粋)
▼ 水戸城跡の大シイ・・・水戸城旧城郭の中に位置するこの大シイは、戦国時代から自生していたと伝えられ、その樹齢は約400年と推定される。(案内板より抜粋)
▼ 水戸城跡二の丸展示館
▼ 旧水戸彰考館跡・・・彰考館は、水戸藩第二代藩主水戸光圀が、わが国の歴史書である「大日本史」の編纂所として創設。全国から学者を集めての「大日本史」の編纂は藩の一大事業となり学問や教育に力を注ぐ水戸藩の伝統はこの時から始まったといえる。彰考館は最初江戸に置かれていたが光圀の隠居後、水戸城二の丸にも置かれ幕末まで編纂事業が進められた。明治維新後も「大日本史」の編纂は徳川家の事業として継続され、偕楽園南隅へ移転した彰考館において明治39年(1906)に完成した。(案内板より抜粋)
▼ 茨城師範学校跡・・・明治7年(1874)、小学校の教員養成のため水戸市柵町に拡充師範学校を創立。その後、後者は水戸市滝岡町(現在の金町付近)に移り、明治21年(1888)、水戸城跡に移転した。明治31年(1898)に茨城県師範学校、後に茨城師範学校と改称し県内の初等教育に大きく貢献した。(案内板より抜粋)
▼ 水戸城と水戸城大手門・・・水戸城は、水戸藩35万石を治めた水戸徳川家の居城。東から「下の丸」「本丸」「二の丸」「三の丸」の4つの区画に分かれていて、最も重要な区画が二の丸で屋形(御殿)、水戸彰考館、大手門、二の丸角櫓が建っていた。水戸城大手門は、水戸城の正門にあたる最も格式の高い門で、佐竹氏が水戸城主だった慶長6年(1601)頃に建てられ、その後、幾度かの建て替えが行われた後、明治年間に解体されたと考えられている。(案内板より抜粋)
■ 弘道館・・・旧水戸藩の藩校で、徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施策の一つとして開設。弘道館建学の精神は、天保9年(1838)に斉昭の名で公表された「弘道館記」に「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目として示されている。天保12年(1841)に仮開館、安政4年(1857)に本開館し、藩士とその子弟が学び、学問と武芸の両方が重視され、学問では儒学・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、武芸では剣術・槍・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など多様な科目が教えられていた。その後、幕末の動乱期を経て、明治5年(1872)の「学制」発布により閉鎖された。(パンフレットより抜粋)
▼ 政庁・至善堂
▼ 対試場・扁学「游於藝」・・・対試場は、武術の試験が行われたところで、政庁の縁側の長押に掲げられている扁額は、徳川斉昭筆「游於藝」で「芸に遊ぶ」と読む。芸とは六芸、礼(礼儀作法)・楽(音楽)・射(弓術)・御(馬術)・書(習字)・数(算数)を指し、文武に凝り固まらず悠々と芸の道を究めるという意味がある。(案内板より抜粋)
▼ 政庁・正席の間・・・正庁は学校御殿とも呼ばれる弘道館の中心的な建物。正席の間と隣りに続く二の間、三の間は儀礼的・公的は空間。正席の間は、藩主が臨席して文武の試験が行われた重要な場所。床の間にあるのは「弘道館記碑」の拓本。(案内板より抜粋)
▼ 政庁の建具に使われている金具
▼ 江南所無・・・烈公梅、月影などともに水戸の六名木の一つ
▼ 御座の間・・・明治維新で将軍職を辞した徳川慶喜が恭順の意を表し、静かに朝廷の命を待った由緒ある所。床の間にあるのは「要石歌碑」の拓本。(案内板より抜粋)
▼ 「種梅記碑」拓本・・・石碑は弘道館公園内にある。
▼ 弘道館内の梅
▼ 文館跡・・・藩校当時、この一帯には学問を学ぶ文館があった。文館は、居学寮・講習寮・寄宿寮や編集局・系纂局名などで構成されていた。一角には板木を作成する彫刻場が設けられ出版活動も行われていた。(案内板より抜粋)
▼ 孔子廟・・・「神儒一致」「文武一致」の建学精神に基づき鹿島神社と併置された。廟は孔子の出身地である中国山東省を曲阜を向き、大成殿(中国の孔子廟の本殿)を模した入母屋造りの瓦葺きで、屋上には2種類の架空の動物(鬼犾頭・鬼龍子)が置かれている。(案内板より抜粋)
▼ 八卦堂・弘道館記碑・・・建学精神を刻む弘道館記碑を収める八卦堂は、藩校当時は敷地の中央に位置していた。八角面の軒下に万物変化の相を示す八卦の算木を配し、その堂内に万古不動の日本の道を説く弘道館記碑を置くという構成に、徳川斉昭の宇宙観が込められている。(案内板より抜粋)
▼ 種梅記碑・・・梅を愛した徳川斉昭自筆の「種梅記」が刻まれた石碑。春に先駆けて咲く梅が当時の重要な教科であった詩歌の良い題材になることや、軍事の際には非常食として役立つことが記されている。梅は、「文好む木」の故事をもつ学問に縁の深い木であることから、斉昭は梅の植樹を奨励し、弘道館・偕楽園をはじめ藩内各地に植えさせた。(案内板より抜粋)
▼ 鹿島神社・・・水戸藩九代藩主徳川斉昭公は、天保12年(1841)水戸学大道の象徴たる藩校「弘道館」の仮開館に際し、仁教天皇の勅許を得て神殿を造営、武甕槌大神を祀る意思を宣告。安政4年(1857)、常陸国一之宮「鹿島神宮」の御分霊を遷杞し斉昭公が自ら鍛えた「葵くずし八雲鍛え」の太刀を奉納して御神体に擬え「弘道館」に魂を入れて本開館となった。(案内板より抜粋)
▼ 鹿島神社御社殿・・・鹿島神社の御社殿は、伊勢神宮別宮・風日祈宮の全てを完全移築した唯一神明造り。唯一神明造りは伊勢神宮独特の建築様式。(案内板より抜粋)
▼ 神輿
▼ 要石歌碑・・・徳川斉昭自筆の和歌「行末毛富美奈太賀幣曽蜻島大和乃道存要那里家流」(行く末も踏みなたがへそ蜻島大和の道ぞ要なりける)が刻まれている。神道を学び道徳を行く末まで伝えることが教育の要であるという意味で、斉昭の「神儒一致」の教育理念をよく示している。(案内板より抜粋)
▼ 学生警鐘・・・弘道館内の学生に時を告げるための打鐘。(案内板より抜粋)
▼ 北柵御門・・・北柵御門は弘道館建設時に敷地の北と南に設けられた北側の門。(案内板より抜粋)
▼ 水戸市水道低区配水塔・・・昭和7年(1932)、下市地区へ良質な水道水を供給するために造られた。(H.P.より抜粋)
▼ 水戸市立博物館(http://shihaku1.hs.plala.or.jp/)
▼ 水戸芸術館の塔(https://www.arttowermito.or.jp/)
▼ 昼食立ち寄ったBistro Vignon(ビストロヴィニョン)
▼ 金毘羅神社・・・江戸時代初期(寛文年間)に水戸泉町内の住人黒沢又蔵氏がかねて崇敬していた佐貫の金毘羅宮に詣でこの地に守護神として勧請したことに始まると伝えられている。(案内板より抜粋)
■ ロマンチック・ゾーン・・・水戸市街地の北西部、水戸八幡宮から曝井の一帯に太古の昔から近代までの歴史的遺産があたかも時の流れを忘れたかのようにその姿を留めている。訪れる人々の心に安らぎを与えてくれる恵まれた緑と湧水。この辺りは水戸のロマンチック・ゾーンと呼ばれている。(パンフレットより抜粋)
▼ 水戸八幡宮・・・水戸城主佐竹氏の守護神として慶長3年(1598)に建立。当初は八幡小路(現北見町)に鎮座し、元禄7年(1694)に那珂西村(現常北町)に移り、宝永4年(1707)に現在の地に移築された。(案内板より抜粋)
▼ 本殿は2回にわたり解体移築され、後世の模様替えがあるものの総体に手の込んだ手法で、組み物や彫刻などにも桃山時代の時代色と地方色を現代に伝えている。(案内板より抜粋)
▼ 祇園寺・・・明の心越禅師の開山、徳川光圀の開祖による曹洞宗の寺院。心越は延宝5年(1677)に来日し、天和元年(1681)光圀公の招請で水戸の天徳寺に住し、元禄8年(1695)の死去までこの寺で過ごした。(H.P.より抜粋)
▼ 祇園寺の香炉には葵の紋が・・・。
▼ 祇園寺にある水戸戊辰殉難慰霊碑
▼ 桂岸寺仁王門
▼ 桂岸寺・・・桂岸寺は正式には大非山保和院桂岸寺といい、地元では二十三夜尊と呼ばれている。天和2年(1682)、壇海和尚の開山で、元は水戸市全隈町にあった普門寺を中山備前守信治が小松寺住職宥密を説いて水戸家老中山信正の供養のため譲り受け現在の地に建立。当初は香華院と称したが、元禄7年(1694)、徳川光圀公の命令により保和院と改称。さらに宝暦5年(1755)に現寺号を称し蜜法流通の道場として京都御室仁和寺末となり、とくに律宗も兼ねるという1寺2律の類例のない修験場となった。(H.P.より抜粋)
▼ 保和苑と案内板・・・保和苑は桂岸寺に隣接する庭園で、元禄時代、徳川光圀公が寺の庭を愛されて保和園と名付けられたのが始まりといわれている。(H.P.より抜粋)
■ 偕楽園・・・天保4年(1833)、徳川斉昭は藩内を巡った際、南に千波湖や緑ヶ丘をのぞみ筑波山や大洗の海を遠望できる高台(七面山)を藩内随一の景勝地として遊園を設けることに決め、自ら造園構想を練り、天保13年(1842)に開園した。偕楽園の名称は「孟子」の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一説からとったもの。斉昭撰分の「偕楽園記」には、「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」とあり、藩主や藩士のみならず庶民にも開放する目的を掲げた近代の公園に近い性格を持つ庭園。(パンフレットより抜粋)
▼ 好文亭表門
▼ 好文亭・・・好文亭は、木造二層三階建ての好文亭本体と木造平屋造りの奥御殿からなり、その位置から建築意匠まで斉昭自ら定めたといわれている。好文亭という名称は、梅の異名「好文木」からつけられ、斉昭はここに文人墨客や家臣、領地の人々を集めて、詩歌や養老の会などを催した。(パンフレットより抜粋)
▼ 好文亭内部・・・菊の間
▼ 好文亭内部・・・桃の間
▼ 好文亭内部・・・つつじの間
▼ 好文亭内部・・・紅葉の間
▼ 好文亭内部・・・竹の間
▼ 好文亭内部・・・梅の間
▼ 好文亭内部・・・清の間
▼ 好文亭内部・・・萩の間
▼ 好文亭内部・・・桜の間
▼ 好文亭からの眺望・・・千波湖方面
▼ 偕楽園の梅
▼ 千波湖からの眺望
▼ 夕食で立ち寄った、和風レストラン美和亭