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マンロー「先史時代の日本」序説 1

2021-03-17 17:42:52 | マンロー
以下は、マンロー「先史時代の日本」序説(Preamble)の要約です。北海道立図書館にある原本を底にしています。ただしアメリカの図書館のサイトでは、写真判(PDF)のほかになんとテキスト版で閲覧・ダウンロードできます。

 

冒頭、マンローはこの本の性格についてこう書いています。

 

The following work is an attempt to give the European reader some idea of Prehistoric Japan.
A longer preparation would have been desirable but circumstances did not counsel delay.
The result is a sketch rather than a complete picture but it is a faithful sketch so far as it goes.

 

序説だけでも33ページあり、率直に言って文体は古風、学術論文にしては冗長です。古今東西の固有名詞がならび専門用語も多く、グーグル翻訳は歯が立ちません。

いかにマンローが悪文(主観的には美文?)かを味わっていただきたい。
It is not impossible that this metal, which is less common than iron as a material for arrow-heads, though less liable to disappear through decay, was in special vogue as an appropriate offering to the dead.

 

文章構成はハチャメチャで、見出しなど一つもありません(見出しは勝手につけたもの)。そして突如として終わるのです。

 

それにも関わらず翻訳作業をやりきったのは、やはり中身の面白さです。手垢のついた先史時代の日本論とはまったく異なる、世界史的、人類学的パースペクティブが繰り広げられるのは一種の快感です。

 

“Prehistoric Japan”は先史時代と訳しました。歴史に先立つ時代という意味です。それに対して石器時代(縄文時代をふくむ)は原始時代としました。 あとに出てくる古墳時代マンローのヤマト文化時代は原史(Protohistoric)としました。

 

誤訳もあろうかと思いますので、変なところは原文に直接あたってください。

 

私なりの解説は、1ポイント字を小さくして、要約のあいだに挿入していきます。




先史時代の日本 序説

1.日本列島の自然地理

日本列島は東アジアの海岸に沿って、3連の花綵(かさい)のように連なっています。

中央の花綵は、南の九州と四国から北のエゾ・サハリンへと繋がります。この中央曲線と向き合うユーラシア本土は反対側に後退し、日本海を形成しています。

*この中央弧は、今日ではユーラシア大陸東縁の太平洋側へのかい離と考えられている。これに対し千島列島、琉球列島は本来の花綵列島である。マンローの時代はプレート・テクトニクスの考えは生まれていなかった。

中央弧の西端は朝鮮半島に接近し、朝鮮海峡を形成しています。さらに海峡の途中に両方をつなぐように対馬、壱岐などの島が連なっており、晴れた日にはお互いの島影全体が見えます。

日本の北端にあるサハリン島は、エゾとシベリアの間に架かっています。

このように、大陸と日本列島の間の海は、たとえ原始人類であっても行き帰りにほとんど障害を与えませんでした。

北側の花綵曲線は千島列島によって形成され、カムチャッカ半島に到達します。それはオホーツク海の東の境界を示します。

南側の花綵曲線は、台湾(フォルモサ)と接近する琉球諸島で構成され、東シナ海の境界を形成します。フィリピンとも敷石上につながるこの経路を用いれば、マレーシアやポリネシアまでもコミュニケーションが可能でした。

 この北上ルートに沿って、黒潮の流れに支えられて、現在でも区別が可能な2つの人類が先史時代に日本に到達したという強い推測があります。

* 港川人(1967年発見)などは南方由来と考えられるが、縄文以降は台湾と琉球の間は人的交流は見られず。南方からの進出は見られない。遺伝子研究にっよれば、先島諸島までふくめすべて縄文人と考えられる。


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2.日本の原始時代

日本ほど古代文化の名残が豊富な国はほとんどありません。

大陸や朝鮮半島との地理関係は、日本をさまざまな民族的要素と文化の自然な合流点に指定しました。他の地方との間隔は移住の決定的障害とはなりませんでしたが、移住しやすさにはかなりの影響がありました。

* 最初は4万年前、朝鮮からナウマンゾウを追って渡海してきた人々。ついで2万5千年前、最終氷河期の極期に間宮海峡・宗谷海峡からマンモスを追って南下してきた人々がいる。マンモスは青函海峡を渡らなかったがマンモス人は渡り、本州から沖縄まで全国に広がった。彼らがやがて縄文人となる。

言語など伝達情報や手段は明確な区別があります。それは住民に選択的な影響を及ぼします。

先史時代の古代日本にもそれは言えます。初期の文化の類型を簡単な概要で比較しておくことは、後の日本の文明を考えるうえで有用でしょう。

先史時代の考古学は、日本に2つの異なる文化が存在することを明らかにしています。さらに3番目の文化の痕跡も存在しています。ここではそれにも触れておきます。

最初の文化は原始時代(Primitive Ages)の文化です。土に埋め込まれた多くの遺物(貝塚)が残されています。もう一つの文化は、特定の権力者のために構築され、後に発掘された墓室や洞窟(古墳)です。そしてそこから発見される遺物です。後者が土壌から掘り出されることもありますが、それは例外的なことです。

古墳と関連する遺物は先史時代の文化です。それ自体が時間的、空間的に限定された存在です。このため、ある特定の時代の陶器が後の時代の墳墓に副葬する場合を除いて、評価に混乱は起こりません。

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3.縄文文化(貝塚と生活用具)

* マンローの時代、日本の原始時代における無土器文化は実証されず、原始時代(石器時代)は縄文文化から始まると考えられていた。それは九州南部で1万1千年前、東北で1万年前から始まる。

貝塚の文化は原始的な文化です。それは4,000を超える住居と貝殻(廃棄物)を考古学的特徴とするユニットです。金属製品は皆無です。

天然石の存在が特徴で、磨かれ、細かく削りだされたり、荒く削りとられた道具や石器、様々な用途に使用されている天然石の存在が特徴です。

副次的生活道具である土器は、すべての時代や場所について常に存在しています。

* マンローは、縄文式土器の存在は彼らが石器人であることを否定はしない、と考えている。肝心なのは生活用具ではなく生産用具、さらには軍事用具である。

陶器は素焼きです、通常は粗い質感であり、石器や磁器などの固さを備えているわけではありません。この時代ではろくろは使われません。

 それは一般に華美(ornate)で、過剰な装飾が施され、時には非常に手が込んだものである。貝殻と骨の加工品は装飾品である。通常は住居跡で発見されます。

「原始的」という言葉は古い(Ancient)というだけではなく、「始原的」(Prototype)という前向きな意味合いを持っています。

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未開人の特徴は、石器を使用する文化です。これ(縄文時代)を石器時代と呼ぶことは適切です。

燃料以外の木材の使用は、過去3000年までさかのぼります。ひょっとすると木材は、原始人の生活において、文化尺度としての優先権を、加工された石よりも強く主張するかもしれません。

しかし進歩の共通の尺度として、石器は間違いのないものです。そして日本の原始文化を、ヤマト文化と区別する指標となります。


4. ヤマト時代の遺物

ヤマトの遺物には石の武器はありません。ヤマトの墓では、鞘包丁や刀の石の模造品、時には青銅製の矢じりを石で模した複製品が見られます。それは生産用具ではありません。実用というには小さいサイズです。

磨かれた石による不可解な目的の道具、調理器具の小さなモデルが存在します。これらは原始的な文化を意味するものではありません。副葬するにはもったいないというだけの話です。

それらは「石器時代」を意味するものではありません。

 ヤマトにとって「石器時代」は事実上過去のものでした。

ヤマトの墓には青銅の矢じり、銅鐸、銅鏡などがいくつか見られますが、主要な銅の役割は金や銀メッキの土台などでした。

しかし、このヤマト文化の主な特徴は金でも銀でもどうでもなく、鉄でした。長い直線の剣、馬具と他の家具は丁寧に仕上げられ、鋲留めされています。

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陶器は非常に硬質です。 部分的な例外を除いて、すべてろくろで成形されています。 装飾はシンプルで控えめです。

 墓から得られた陶器はおそらく葬式や儀式用に特別に制作されたものです。 この陶器の落ち着いた色合いと装飾、および他の陶器とは異なる仕上げの様式がそのことを示唆しています。


5.支石墓と青銅器時代

ヤマト時代は原史時代(Protohistoric)と呼ばれていますが、日本のドルメン文化が終わったのが、文字で表わされた「歴史」の登場する400年ほど前のことなので、それらを先史時代(Prehistoric)と呼ぶのが正確です。

* ここでマンローの独特な歴史区分に言及して置かなければならない。マンローは日本の人類史を、石器時代と鉄器時代に分ける。これが基本だ。
ついで、石器時代と鉄器時代の間に青銅器を念頭に置いた移行期を設定する。これを支石墓時代(ドルメン期)と呼ぶ。さらに鉄器時代が始まってから文字による歴史の時代に至る期間を、ヤマト時代(先史期)と呼ぶ。
ややこしいことに、マンローはこれを後期支石墓時代と呼ぶこともある。その際は前方後円墳も支石墓とみなされるわけだ。
これにより先史時代は4つの時代・時期に分けられる。
すなわち、
1.石器時代 通常区分では旧石器+縄文が相当する
2.支石墓時代 通常区分では弥生時代に相当する
3.ヤマト時代 通常区分では古墳時代に相当する
4.有史時代 通常区分では奈良時代及びその後現在に至る時代。
ということで、実際上は通念上の区分とあまり変わらないのだが、特徴づけ方が相当変わっている。

6世紀から7世紀の出来事(飛鳥時代)は、8世紀の日本書紀・古事記に書かれた資料があります。しかしそれは日本の長いドルメン期のごく一部に過ぎません。

 葬儀の風習も墓の内容に一定の特徴を与えていますが、初期のドルメンと後のドルメンの内容に大きな違いはありません。

*後期ドルメンは前方後円墳が終わっても続くことになる。これは「プレ記紀時代」の定義であって、ドルメン期の定義ではない。このドルメン観には最後まで悩まされることになる。

 「先史時代」という表現は文章におる歴史の誕生以前、数万年前からの相対的または地域的な意味しか持っていないことは明らかです。

支石墓文化を別な面から眺めれば、石器時代と鉄器時代の間、すなわち青銅器時代ということも可能です。青銅器文化が石と鉄の時代の間に日本の南西部に限定して存在したといういくつかの事実があります。

* これも牽強付会の説である。九州西部に限局しているのはまさに日本型支石墓であり、青銅器は当時弥生人の生活圏すべてで発見されている。

 剣、甲羅、矢じりなどの青銅製の武器は、九州の土壌と内海に面するいくつかの州で発見されています。銅鐸はヤマト周辺とその東方で報告されています。

これらはヤマトの古墳には見られず、石器時代の遺跡にもありません。青銅器が唯一発見されるのが支石墓であり、それはヤマトとは異なる文化に属しているかのように見えます。

支石墓には金属器の代わりにそれを模倣した石器がしばしば見つかります。それは石器時代の人たちが金属器と接触しなかったことを示しているわけではありません。


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