思い付きブログ

原発安全神話と事実認識の誤り

 そろそろ、言いにくいことも書いておきます。


 似たようなことを言っている識者はいますが。


● 東京などの大都市は、福島など、地方の原発の電力を利用して生活をしているのだから、地方を犠牲にして生活を謳歌しているのだから、今回の原発事故の加害者みたいに言われることがあります。



 しかし、原発を設置することによって、地元には国などから多額の資金(原資は税金)がわたり、原発関係を始めとして雇用も生まれることにより、住民の流出も他に比べて少ないなど、概ね、お互い様なのではないでしょうか。


 しかも、賛成多数で原発を誘致したわけですから。


 原発が設置されていない市町村には、そのような利益はあまりないようなので、利益はなかったかもしれないので、別問題ですが。



 なお、反原発運動は東京などの都市の人に多く、原発の地元の人には少ないので、原発に警鐘を鳴らしてきたのは地元ではなく、都市部の人が主とも言えるわけです(私は、反対運動も賛成運動もしてこなかった多数派の1人ですが)。



 原発マネーを、一般の住民には恩恵があまり感じられないものばかりに使っていて、将来を見据えた事業にそのお金を使わなかったとしたら、その自治体の責任ではないでしょうか(それに意見を言わなかった住民にも一定の責任はあります)。



● 原発は安全だと説明されて信じていたのかも知れませんが、世の中には「絶対」なんて、そうはないことは常識ではないでしょうか。


 だからこそ、事故が極力起きないように対策を講じるべきであり、また、起きても最小限の被害で済むように対策を講じるべきであり、そうなっているのかを自治体も住民も関心を持っているべきなのではないでしょうか。




 科学と技術は難しいので良く分からないというのであれば、勉強するなり、説明を求めるなりすれば、考えることに必要な最低限のこと、ある程度のことは分かります。



● また、原発には「安全神話」がありましたが、普通に「神話」と言えば、そもそも、全てか一部が作り話、少なくとも、大袈裟にしたものであり、フィクションです。


 フィクションを全て真実だと考える方が間違っているのではないでしょうか。


 普通の「神話」がフィクションなのに、「安全」が付くと「事実」と考えるなんておかしくないでしょうか。



● 100%や0%という「絶対」はそうはないことから、例えば、99%や90%の安全を求め、残り1%や10%については、何かあっても被害を最小限にとどめるようにすることが現実的かつ必要です。



 つまり、より安全なものにするためには、危険性があることを認識することが必須です。



 危険性を認識するからこそ、安全性に注意が向き、懸念があれば対策を講じようと思うし、講じることができるのではないでしょうか。


 これは、原発だけのことではありません。


 例えば、車の運転はどうでしょう。

 「注意一秒、怪我一生」と言うように、危険はどこにでもあるからこそ、いつも注意することが安全運転につながるのではないでしょうか。



● 今回の原発事故の一因は、絶対安全を求める国民やマスコミなどに対し、国や電力会社などが絶対安全だと説明してしまったことから、及び、説明せざるを得なかったことから、安全性に懸念があっても安全対策をとることに遅れが生じたことにもあるのではないでしょうか。



 それはつまり、科学と技術とは何か、事実とは何か、事実とみなされているものがいったい何なのか、ということに対する国民、マスコミ、電力会社、国の偉い人などの理解度と危険に正面から向き合うこと、そして、人間ができることとできないことへの理解度とそれに正面から向き合うことが足りなかったということではないでしょうか。
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