熊本新老人の会 サークル 城下町を歩く会

2月、5月、11月の年3回城下町の史跡をたどりながら4Km程度を歩きます。目的は脚力の維持増進と城下町の歴史探訪です。

第5回 文芸作品

2018-05-21 12:13:12 | 第5回

二本木神社で記念撮影をしました。その前後で詠まれた俳句、短歌を掲載します。

俳句

あるかうくわい3.5キロ街薄暑    近田綾子

二本木の昔おもかげ青葉風       〃

駆抜くるバイク青春青嵐       澤田安月子

巡り見る遊廓の跡街薄暑        〃

片陰を選りて一列歩く会       平川礁舎

幟持つ人攫ふごと青嵐          〃

千体仏大緑蔭を領したる         〃

短歌

蓮台寺千体仏に手を合わせ我が80の余生幸あれ  佐野まさ子

城下町歩こう会に参加して卯の花匂う垣根を通る    〃

 


「第5回城下町を歩く会」に参加して  江浦 誠

2018-05-21 07:53:23 | 第5回

「西南の役」説明板の前で

 5月20日(日)第5回 城下町を歩く会に参加しました。
今回は、『二本木・蓮台寺界隈を歩く』です。ご参加の方々24人。集合した森都心前広場から旧二本木遊郭入口の黒門を目指し、二本木神社や二本木病院・白川県庁跡、そして蓮台寺までのコース全長3.45kmを約2時間ほどかけて歩きました。
 前日までの天気が嘘のような快晴に恵まれ、少々暑いくらいでした。実は私は学校を出てすぐ(昭和58年4月)、この地区を歩いて営業活動をしていました。ですから、思い入れも有り、とても楽しみにしていました。そしてその楽しみの一つが、“東雲楼”跡です。あの頃は、仕切りがあって近寄れなかった記憶があります。
 今回の資料にあった当時の地図や“紅灯の街”の絵を拝見しながら、そして代表のお話しを聴きながら、明治の頃のこの街に思いを巡らしました。本当に本当に賑やかだった事でしょうね。その後に訪れた二本木神社や二本木病院に関わった人々の話しを聴けば聴くほど、当時の賑わい・暮らしの一部を垣間見た思いでした。いつも思う事なのですが、この会の代表の蘊蓄の素晴らしさとその分かり易いご説明には、ただただ感謝あるのみです。
 この説明があることによって、「歩く会」の魅力は5倍にも10倍にもなっています。11月の『下通り・高田原』も楽しみにしております。   (江浦誠)

 

    


第5回城下町を歩く会 5/20実施

2018-05-20 18:37:30 | 第5回

朝から好天に恵まれ絶好のウォーキング日和となりました。事故もなく3.45Kmを歩きとおしました。

このあたりに遊郭入り口の黒門がありました。

 東雲楼の門柱。この一本のみが今に遺っている。

黒亭ラーメンの前。このあたりに一流遊郭が並んでいた。

国亭ラーメンの筋向かいに東庵があった。

二本木神社境内にある西南の役本陣跡。

二本木神社で記念撮影。

シャッターマンを替えてもう一枚。

桧垣の塔

ご住職から寺歴等を説明してもらいました。

千体仏、1,099体あるそうです。

桧垣が水を汲んだという井戸。今は水はかれているそうです。

 桧垣の井戸の前で記念撮影

 シャッターマンを替えてもう一枚


第5回 城下町を歩く会の日程等決まる

2018-04-04 18:27:32 | 第5回

第5回 城下町を歩く会      新老人の会「熊本県支部」サークル

    二本木・蓮台寺界隈を歩く

日 時    2018.5.20 (日)     9寺30分集合 10時出発
               予備日  5.27 (日)           〃            〃
集合場所      森都心前広場(熊本駅前)
解散場所      市電田崎橋電停前
参加費     1人500円(保険料、資料等コピー代、拡声器リース代等)
               家族割2人の場合700円(グループ割ではありません。)

班分け         交通事故対策のために1班10人程度の班分けを行います。各班に案内        者1人 交通誘導員1人以上を配置します。

コース         延長3.45Km
森都心前広場→①東雲楼跡→②テレビ朝日ロビー(絵画 紅灯の街)→③遊廓街跡→④二本木神社(西郷本陣跡等)→⑤二本木病院跡→⑥白川県庁跡→⑦蓮台寺→⑧宮寺放牛仏、田崎橋電停前(解散)
 
文芸作品募集
               肥後狂句、俳句、川柳等の作品を募集します。作品は当会ブログ及び支  部会報に掲載します。
        当会ブログの検索キーワード「熊本城下町を歩く会」
 参加申し込み
              096-367-1655 (代 表 平川)
              090-8668-2734 (事務局  江藤)
              096-337-1201  (文芸担当 谷山)
 ブログアドレス    http://blog.goo.ne.jp/shin1941
                検索キーワード 熊本城下町を歩く会

①東雲楼のストライキ
 なにをくよくよ川端柳 焦がるるなんとしょ の歌詞で知られる「東雲節」は別名「ストライキ節」とも呼ばれ明治、大正、昭和と唄い継がれた大ヒット曲である。この曲は東雲楼で起こったストライキを題材にしたものといわれるが、ストライキがあった明治30年頃は全国的に廃娼運動が盛り上がり、矯風会の矢島楫子、世界救世軍の山室軍平などキリスト教関係者が娼妓の自廃運動を支援していた。東雲楼のストライキはそういう背景の下に起こったが、それがどう決着したのか、娼妓たちは要求を獲得できたのか、肝心のところは何も記録に残っていない。このことからストなどなかったという説も生まれた。
 この時、東雲楼の主人中島茂七は他の楼主たちに呼びかけて娼妓たちのために、読み書き、手芸、染色、裁縫等を習得する「女紅場」という学校を設立した。これがストライキの成果物だったのかもしれない。

②二本木神社
 二本木神社は明治39年にこの所に遷座した。鳥居には寄進者である「稲田栄作」の名が刻まれ、その裏側高所に「妻ハツ結婚50年記念」とあり、この鳥居が稲田栄作という人物が妻との結婚50年を記念して寄進したものであることが分かる。また、狛犬には「二本木娼妓有志」と刻んであり、何やら遊廓の臭いがただよう。稲田栄作とはいかなる人物か・・。
「戸浪さん その頃六十才位のお爺さんが一年生と一緒に勉強しておられた。この人は稲田栄作という人で字が読めない為に苦労したから今から六十の手習いをしょうと、学校にお願いして入学されたそうである。そして新聞も読めるようになり、お礼にといって学校に図書室を寄付された。今の給食室のところに終戦まであったが、今は取り壊されて無い。其の上二本木神社に鳥居を寄進されたが字の読めるようになった事がどんなに嬉しかった事か、想像される。私は偉い爺さんだったと今も思っている。」(「わたしたちの古町」古町小学校編・1976年)
 これは昭和46年ごろ古町小学校が地元の古老を招いて座談会を企画した、その席で、戸浪さんという古老の発言記録である。学校の文集には流石に書けなかったが、この稲田栄作という人物は二本木遊廓の人であった。「一楽」、「新一楽」という二つの遊廓に娼妓35人を抱える楼主であった。この人物の墓は神社前の常通寺にあり、墓誌によると生年は天保元年(1830)、没年は大正10年(1921)、妻ハツと結婚したときの年齢は栄作26才、ハツ15才である。ちなみに西郷の生年は文政12年(1829)、大久保はその翌年だから稲田栄作は同世代の人物である。稲田栄作が西郷などと際だって違うのは彼が無学文盲の徒として幕末動乱期を生き抜いたところにある。

③二本木病院(現コロニー印刷)
 病院名称の変遷 県立二本木病院(明治12年)→県立駆黴院(明治24年)→県立二本木病院(明治42年)
 娼妓たちはここで週に1度性病の検査を受けねばならなかった。そして黴毒に感染していることが分かれば直ちに入院させられ、衣類など必要品を取りに帰ることも許されず完治するまで外界と遮蔽された。入院費用は食費を含めて無料だつたが、娼妓はその間営業できず、無収入になるのでそれがこたえたらしい。朝12、3人連れ立って郭を出るとき「皆揃って帰って来ないけんよ」とたばこ屋のおばちゃんに声をかけられて通院するのであったが、帰りには1人2人欠けていることが珍しくなかったという。
 ちなみに、この病原菌はスペロヒーター・バイナダルという細菌でこれがヨーロッパに上陸したのは15世紀末コロンブスの帰国の時といわれ、我が国へ入ってきたのは16世紀初頭といわれる。唐瘡・琉球瘡という病名のとおり、沖縄、中国経由で入って来たらしい。

④蓮台寺
 蓮台寺(れんだいじ)は、熊本市西区蓮台寺にある浄土宗西山禅林寺派の寺院。肥後国三十三ヶ所観音霊場第16番札所。開基年代は不明。第65代花山天皇の頃(984~986年)、後撰和歌集等で知られる女流歌人・檜垣が、晩年白川のほとりのこの地に草庵を結び、観音像を安置して信仰の日々を過ごしたのが寺歴の始めといわれている。 このことから寺は「檜垣寺」とも呼ばれ、寺には檜垣にまつわる「檜垣の塔」「檜垣媼像」などが伝わる。

⑤檜垣と清原元輔
 檜垣は「肥後が有する唯一の平安朝時代の歌人である。(昭和7年版 熊本市史)」 とあるように熊本に実在した最古の才色兼備の女性詩人であった。生没年は不詳ながら、若い頃は太宰府政庁近くに住み、その住居に檜垣を巡らしていたので、「檜垣の御」などと呼ばれ、都から下ってくる役人や公家と交わって敬意を払われていたが、天慶3年(940)藤原純友が乱を起こし太宰府を占領すると、檜垣はそこを去り次第に落魄したと伝えられる。
 年ふれば我が黒髪も白川の水は汲むまで老いにけるかな
 上記一首が後撰和歌集に載っている。この撰集は清原元輔の編集によるもで、元輔は選者の一人でもあったから、この歌は元輔が採ったのである。 元輔は寛和2年(986)79歳の高齢で肥後守に任ぜられて肥後に来た。筑紫に檜垣という才媛がいるという噂は往時都にまて聞こえていたので元輔は檜垣の名を記憶していた。老残の檜垣が草庵を結んでいた白川の辺りは国府のある二本木にほど近いところにあったから、何かの偶然から二人の交遊は始まったのであろう。清少納言は元輔が檜垣に産ませた子との説があるが、妄説であってもとより信ずるに足りない。歌人としての二人は歌の遣り取りの中に互いに老いを慰撫するところがあったにちがいない。
 元輔が死んだのは 永祚2年(990年)83歳の年であった。檜垣の没年もそんなに離れてはいないであろう。

⑥謡曲「檜垣」について
  肥後国白河のほとりに、百歳近い老女(シテ)が住んでいる。彼女は自分の罪を滅することができるかと期待し、毎日重い足取りで岩戸観音まで閼伽の水を運ぶのである。ある日居住の僧(ワキ)が老女に名を尋ねると、「年ふればわが黒髪も白河のみつはぐむまで老いにけるかな」(『後撰集』)を詠んだ遊女、檜垣の女であると明かし、姿を消す(中入)。その夜、白河のほとりにまで尋ねて行った僧の前に、再び檜垣の女の亡霊(後シテ)が現れ、世の無常を述べ、美しい舞姫であったという罪ゆえに地獄で受ける苦しみを見せ、かつて藤原興範に乞われて舞った老体の舞を再現し、僧に救済を求めて消えていく」                 (『岩波講座 能・狂言』より)
 平成19年6月に亡くなった観世榮夫を偲び、師が古希記念として舞った『檜垣』。
 能には「重習(おもならい)」という特別なあつかいを受ける演目がいくつかあり、なかでも“三老女”といわれる「檜垣」「関寺小町」「姥捨」は秘曲とされている。世阿弥は、かつての白拍子が年老いて、過去を思い来世の成仏を願いながら静かに舞うこの「檜垣」を幽玄の極地と説いている。

⑦檜垣の塔について
 「檜垣の塔」は、檜垣の墓石とも伝えられ室町時代にはすでに著名であったが、江戸時代初期の加藤氏の代に熊本城内に移された。加藤氏が改易となりその後に入った細川忠興はこの塔のことを知っていて、「これは『国の古跡』であるから蓮台寺に戻すように」と、蓮台寺に戻させた。
 ちなみに、忠興がこの「檜垣の塔」を蓮台寺に見たのは、天正15年(1587年)4月、島津征伐の豊臣秀吉に従って肥後に来た時のことである。この時に檜垣の塔を見知ったとしても、細川家の肥後入国はそれから45年も後のことで、この戦国武将の記憶力のよさには驚く外ない。

⑧蓮台寺詣で
 蓮台寺檜垣の塔に玉垣が取り付けられたのは昭和11年のことであった。門柱にびっしりと刻まれている連名の施主名は二本木遊廓の楼名である。と言ってもこれは楼主たちが寄進したのではない。娼妓が金を出し合って建立したものであり、娼妓たちの檜垣信仰の強さを裏付ける物的証拠でもある。
 いつの頃からか「蓮台寺詣で」ということが言われ、娼妓たちはその日を心待ちするようになっていた。この蓮台寺詣でがどのような要領で行われたかは不明であるけれども、娼妓の蓮台寺詣でを楼主は拒絶できなかったという。その代わりその日は「若い者」を見張りに付けて送り出していた。
 檜垣は貴顕に舞を披露して生計を立てる白拍子だったといわれ、いわば遊芸に生きる女性であった。一方娼妓たちには檜垣は自分たちの大先輩であるという尊崇の念があり、それが檜垣信仰の根本にあったことは容易に想像されることである。
 蓮台寺の本堂で檜垣の像に額づき住持の読経を聴きながら過ごす祈りの時間が娼妓たちには現世の苦しみを忘れる時間であり幸福感に満たされる時間でもあったろう。娼妓たちのお布施は一般の信者よりもはるかに高額であったという。
                                          以 上