松本茂樹のエッセイ

短歌誌「六甲」に永年掲載された松本茂樹のエッセイ『パパ・ド・ヒッピー」から抜粋して作品を紹介します。

松本茂樹『生命の炎』展が今日から開催です

2016-10-01 09:33:01 | エッセイ
10月1日から10月9日まで、松本茂樹さんの『生命の炎』展が梅田のウーニーポンポンカウカウさんで開催されます。
エッセイ集『Papà del hippy』も販売しています。
ぜひお越しください。


歩きだすとき、右脚からでようか、左にしょうか

2016-08-12 09:53:55 | エッセイ
 歩きだすとき、右脚からでようか、左にしょうかとたとえ一瞬でも考える人はいないだろう。 ところがそうでもない。 歩みを観察したことのある人は最初の一歩に迷いと悩みが未決のまま歩き廻わっているのに気づく。 日常人は、いやもっと広げて動物は、と言ってもいい。 一定点から所定コースを辿り目的点に到着、再び逆行して元の所へ戻る。 魚や鹿を観察してもそうだ。 家で飼っている鶏も例外ではない。 チャボの雄、これの雌が鼬にやられ消沈しているので名古屋コーチンの雌をあてがってやると蚤の夫婦よろしく毎日庭を散歩し、高い庭石の上に坐って庭を眺めている。 朝食がすみ、地虫や梔子についた揚羽の幼虫を啄み退屈するとやって来る。 硝子戸越しに見ていると雄は自分より一回わり大きい雌の羽の中へ頭をつっこんでいる。 雌は薄いピンクの瞼をとじている。 そのうち、どーれ出かけるとするかとばかり腰を上げる。 この興味深い行動が実に規則正しいのだ。 トンボ・チョウチョも鳥のうちなんて軽蔑した口はきくまいぞ。 池の鮒も遊戯し休息もする。 人間だけが何か特別上等な考えと行動律を持っていると思うのは愚かなこと。 たいした目的でもないのにさも重要なターゲットででもあるかのようにせかせか走りまわるのをやめ、腰を落ちつけ、自分の目の前で右往左往している事象人事のウォッチングをやってみよう。 自分もいっしょになって埃を巻き上げかけづり廻わっていたとき見えなかったものが突然燦然と姿を現わす。 こちらが停止することで逆に動きがヴィジュアルなものになる。

盛り上った肩、頬髯の石彫家は石屑を水たまりに投げながら言った

2016-08-12 09:51:48 | エッセイ
 盛り上った肩、頬髯の石彫家は石屑を水たまりに投げながら言った。 「メービウスの帯や。 地面を這う石を地面から切り離さずどうやって伸び上らせるかや。 蔓の捩れにもっていくな、おれなら。 石の表面に鱗状起伏をくりかえし、内側はドリルで深い条痕を連続状に穿つ。 岩石の重なりや、ずれから漠然と感じていたものが、あんたと話しているうちに葛の色香に酔った頭に仄めいたんや」 メービウスの輪にエロスを見る人と自分との違いを知った。
 何頓もの石を扱っている石彫家は生命の根っこに絶えず触れているのじゃないか。 捩れは生命の発現形態じゃないか。 肉眼では見えない未発の生の奔走する姿が捩れではないだろうか。 何故捩れが生じるか。 生が走ろうとする時、何のためらいも、障害もなく易々発動できるとは思えない。この不確かで一途な不安が自分の尻尾を咬えようとするジレンマが捩れになるのではないだろうか。
 この世の中に在って目に見える物は総て泰然と在るように見えるが、じつは頼りない塊に過ぎない。蔓植物はどうして直進しないのか。 樹上の蛇が鎌首を抬げゆらゆら行方を窺う様子に似ている。
 梅の木からぶら下っている蛇の妖しさを言う女歌人、体を捻りゆらゆら首を立てこちらを見ている蛇の姿にぞくぞくする美のようなものを感じたと言っていた。 美人を描いても美人画にはならないし、名所を詠んでも名歌とはならない。 捩れとか騙しとかは生の自己韜晦の表われじゃないか。 向う側でなくこちら側に美を捏造するものがあるらしい。 対象と想像の目合。

今の時代、停止佇立するのは難儀だ

2016-08-12 09:48:38 | エッセイ
 今の時代、停止佇立するのは難儀だ。 スピードが美徳、価値そのものだ。 この難儀な状態に心ならずもはまり込み人種がいる。
 この人種は人並みに努力はするものの、一歩を踏みだす毎に躓きこける。 年を経てそれが己の姿だと思う諦年の域に達して初めて、時代から自由になる。 右腕と右脚を同時に前方へ振りだし体を推進するのはけしからんことだろうか? 唯生理的には不自然かも知れないが、人はなにも生理だけで生きているわけじゃない。自己顕示欲からの奇矯なふるまいと人は見るだろう。 この止まったり躓いたりする人は周りのスピードに伍して行こうと殊勝な気を起こすときまってとんちんかんなことをやらかしてしまう。 つまりスピードに乗って急行している人々は脇見をする暇さえないのに、わがパパ・ド・ヒッピーは常によそ見をしている。 そして転ぶ。 回転ベルト歩道と同一のスピードを体内に持っていないと後へ転倒する。 パリのメトロの長い長いベルトコンベアは思い出してもぞっとする。 山野を駆ける動物をこのコンベアに乗っけたらどんな反応をするだろうか。 パニックにならないものはないだろう。 健全だから。 自然の奇形児が人間だ。 目新しい景色光景を前に惑乱しない人は気の毒だ。 すいすい歩く人を見ると不思議でしょうがない。 ガイドマップ片手に予め印をつけた地点を旅するのは旅とはいえない。 この場合は脳にインプットされた行動パターンをあてがうだけでいい。 リーダーに引率された集団は暴力団の印象がある。 動物は個と衆では別ものなのだ。

日本の文化の話になると必ず〈余白〉とか〈間〉が持ちだされ

2016-08-12 09:45:16 | エッセイ
 日本の文化の話になると必ず〈余白〉とか〈間〉が持ちだされ、渇筆の走った一本の線画とか、眠気ざましの鼓の一打に何かもっともらしいものを納得する。 白紙に墨汁の一滴を垂らせば余白は生れるか。 墨汁がついているところの他は全部余白と言うのか。 白地にもり上るような濃い黒から唯水に濡れただけにすぎないような黒、 同じ大きさの白紙に同じ大きさの点を打った時にできる余白は同じ面積か。 物理的にはイエス、感覚的にはノー。 点の色によっても余白感は影響される。 紙布板その他皆微妙にちがう。
 創作する人は自分のフィーリングにピッタリ来るものを選んで空間を表わそうとする。 実測では同じ大きさなのに感じでは大きくちがうのは書画に限らない。 〈白〉の部分をぎりぎりまで否定して一挙に抽象的な幻想の〈白〉を表出する手法もある。 人が時空の中に在るのならば、何かを表現しようとする時、それらが抽象論的にではなく、具体物としてどんな相好であらわれているのかを見きわめる必要かある。 それができないと絵も歌もできてこない。
 彫刻家マヨールに〈地中海〉と名づけられた女の坐像かある。限りなく透明な海の光、潮騒と人のざわめきと歴史、女の豊満な肉づきは見る人をうっとり夢心地に誘う。 母なる・・・ とか言う紋切り型でも、初いういしい娘でもない。 この像の周りの空間は今日の幸せに満ちた地中海風景がある。 ブロンズ像のプラン(面)は臨界に達し一分の弛みもないのにそれでいて触れてみたい誘惑を秘めた人間が息づいている。