本当にお久しぶりです。
前回書いたのは2年前でしょうか?三日坊主とは恐ろしいものですね。
本ブログを再開させていただきます!
再開のきっかけとなったのは、大学の講義です。私、大学の授業大好きなのですが、振り返るきっかけがないことに気がつきました。そこで、この場をお借りして、大学の講義に関するメモと私個人の考えを記述させていただこうかと考えました。
私の学術的興味がバレるのは少し恥ずかしいですが。よければ見ていってくださいね!
本日は「日本文学史」についてです。
(講義メモ)
◎日本近代文学史について(特に小説)・明治から昭和、基礎的なことについて扱う・現在の学界=定説の否定によって成り立っている・大学等の研究者=学界の見方に対して否定→これが先行研究に対する独自性を生む
つまり、テーゼとアンチテーゼによって常に研究は進められているということですね!どんな発展も現状の否定から始まるのかもしれないですね。批判的思考力の重要性がよくわかります。
◎日本近代文学史の範囲について・「日本」という語に含まれる意味はなんだろうか?-日本人・パスポートを持っている人?・日本に住んでいる人?・ルーツを持つ人?-日本語話者?・日本語学習者?・植民地にされていた人たち?-自分を「日本人」だと証明するのは実は難しい
これは確かに難しい問題です。グローバル化や多様化が進む中で、自分のルーツを再確認するきっかけとなりうるのではないでしょうか。皆さんは自分が日本人であること、あるいは日本人の定義をうまく説明できますか?
◎「日本文学」を「日本語の近代文学」とおく-翻訳されたものは?(森鴎外『諸国物語』は日本文学に含みたい)-方言はどこまで含まれる?・「近代」とは?-いつからいつまで?・近世文学との区別は?(M10年代までは近世とする特集もある)・ポストモダンと現代の違いは?モダンとの違いは?
今回の講義では「日本文学」を「日本語で書かれた文学」として仮置きするようです。しかし、翻訳された文学作品は日本文学とするのでしょうか?スタンダール『赤と黒』が日本語に翻訳されていたとしても、それはフランス文学と言われるでしょう。しかし、日本文学を語る上で森鴎外『諸国物語』はやはり外せない気がします。違いは一体何でしょうか?
◎暴力としての文学(cf.三上参次・高津鍬三郎『日本文學史』)・「社会」が「文学」に影響を与える・「文学」が「社会」に影響を与える側面もある→人間・日本の発達を学ぶためには文学史の研究が不可欠・一方で「想像の共同体」を作り上げるためにも必要だった←富国強兵のためのナショナリズム。文学という背景を持つ「俺ら『源氏物語』を読んだ仲やもんな〜!!」みたいな。・『源氏物語』は仏教的な問題で排斥された身分・時代もあった↔︎イギリスのシェイクスピアみたいに何か「日本」を証明するものが欲しかった
なるほど、文学史の研究はある種ナショナリズムの煽りを受けたものだったわけです。確かに、同じ文化・作品を愛でている人同士には不思議な絆が芽生えます。何かのオタク・推しをしたことがある人には分かる感覚でしょうか。文学作品等には人に一体感を持たせる役割があるようです。
講義はまだまだ続きますが、本日はここら辺で留めておきます。
「日本」とは何か、「文学史」を勉強する意義とは何か、改めて考えさせられる講義でした。皆さんの思考のきっかけになれば幸いです。
それではまた!