仙台グレースチャペル・ファミリー

日曜日には、家族揃って教会に行きましょう。

震災から七年 奥山江美姉のあかし

2018-03-30 13:52:22 | 日記
今日であの日から7年になりました。以前にも何度か震災の時のお証詞をさせて頂いた事がありましたが 今日は震災当時の事を振り返りお証詞させて頂きます。
 
「共にいて下さる主」
~あの日から7年 主の慰めと励ましを受けながら~と題してお証詞をさせて頂きます。

皆さんもご存じのように あの日私は震災により大切な場所 そして人を失いました。実家は津波で流失し母が避難していた高台にも津波が押し寄せ 母は天へ召されました。子供時代過ごした故郷は 震災直後には立ち入ることさえできず 美しいリアス式海岸の港町は 瓦礫とヘドロにまみれ 目に映る光景全てが 黒 茶色 灰色に染まり 津波の臭いが辺りに充満し 乾いたヘドロによる粉塵が舞い 水産加工工場から流失した魚が腐り 悪臭を放ち 害虫が発生するような 非日常的な光景が 日常になっている状況でした。
当時 被災されたクリスチャンの方々のお証詞の中で「神様が助けてくださり無事でした。」という言葉を何度も耳にしました。神様は私の母を見捨て 守らなかったのではなく 新約聖書マタイの福音書10章29節の後半に「そんな一羽の雀でもあなたがたの父の お許しなしには 地におちることはありません」とあるように、神様の許しの中で天に召されたことを信じます。母は震災当日に亡くなったようですが母の最期をみて下さった方が その時の様子を話して下さいました。 また、遺体安置所で棺の中にいた母は 穏やかな顔をしていました。母の遺体を確認する作業の中 私の心の中には聖歌638番「やがて天にて」の賛美が流れていました。
私は震災直後「神様は荒野に道を荒地に川を設けられる方」とイザヤ書4章19節の後半に書いてあるみ言葉を信じ祈って 日々過ごしていました。牧師先生を始め 教会の兄弟姉妹の取り成しの祈り 信仰の友の祈り また私の知らないところで多くの方に祈られていることを感じていました。
「霊は燃えていても肉は弱い。私は私を強くしてくださるお方によってどんなことでもできるのです。」と聖書の言葉を宣言して祈りつつ 夫の協力の元 3月下旬から5月上旬まで 自家用車に教会から分けてもらった支援物資と自宅に届く支援物資を合わせて毎週被災地へ運んでいました。被災地へ向かう 車の車窓から見る光景は 非日常的な出来事が 日常となる危機的な状況で 被災地の壊滅的な光景を目の当たりにしながら 母を失った辛さと悲しみ 日を追うごとに耳に入ってくる 友人知人の逝去の知らせに心が悲鳴を上げても泣くことを我慢して 悲しみを心の奥に押し込めていました。徐々に体の不調が出てきました。食欲不振と睡眠障害により2か月間で10キロ体重が落ちました。当時私は「確りしなくてはならない!泣いてはいられない!」と悲しみを心に押し込め蓋をしていたのです。 私が悲しんでいる姿でいたら周囲に心配をかけてしまうと考えていたからです。本来なら聖書のみ言葉にあるように「すべて疲れた人重荷を負った人は私の所へ来なさい。私があなた方を休ませてあげます。」とあるように 悲しみの感情を神様の前に持っていくべきものでしたが我慢してしまいました。
この我慢をする行為によって 自分の心を偽り 「私は無事に生きているから周囲の人たちに心配をかけてはならない。意気揚々とした姿でなければならないと考え自分を追い込んでしまい、いつの間にか 神様が私から離れて遠くへ行ってしまったように感じ 暗いトンネルの中 光を見つけられずにもがいているような状況になっていました。 心も体も限界を迎えたとき 神様の前で心の思いを告げました。「主よ どうしてですか!どうしたらよいのですか!辛いです。苦しいです。主よ 助けて下さい!」と声に出した途端に 私の目には涙が溢れ出ました。その時 ヨブ記37章21節 「今雨雲の中に輝いている光を見ることはできないしかし風が吹き去るとこれを清める。」このみ言葉が心に深く入りました。私がどんな状況にあっても神様は傍にいて下さる。目の前の状況ばかりに目を向けていたこと 問題を解決してくださるお方を見上げていなかったことに気付きました。そして涙をもって悔い改めをしました。一度涙を流すと 止めどなく流れました。それから数日間 堰を切ったように流れ枯れることのない涙 泣くことで心の蓋が取れて神様の前で自己開示ができました。この事を通して 我慢をして頑張っても 何も見出すことは不可能、我慢と忍耐は似て非なるもの どんな我慢をしても希望は見出せないことを知りましたローマ人への手紙5章3節~4節にあるように「患難が忍耐を生み出し忍耐から練られた品性を生み出し練られた品性が希望を生み出すのです。希望は失望に終わることがありません。」我慢からは何も生まれません。私は我慢と忍耐をはき違えていたことをみ言葉を通して神様が示して下さいました。へブル人への手紙11章1節にあるように「信仰は望んでいる事柄を保証し目に見えないものを確信させるものです。」もしも私に信仰がなかったら イエス様を知らずにいたのなら この危機的状況の中で成す術もなく悲しみや痛みに押し潰されていたかもしれません。信仰は神様が私に与えて下さったものであり 希望は私の頑張りから生まれてくるのではなく ローマ5章5節にあるように私たちに与えられた聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。
震災直後 み言葉を読んでいるから大丈夫 祈っているから大丈夫 祈られているから大丈夫。私は大丈夫と思い込んでいただけで実は大丈夫ではなかった事を 神様は私が分かる形で教えて下さいました。遠回りすることもありましたが 神様の方法は揺るがないことを体験しました。
あの日の出来事 あの日支えて下さった方々 そして何よりも主が共にいて下さる恵そして 神様が将来と希望を与え続けて下さる恵を被災地で生きる私に教えて下さったことを感謝します。
 あの日の悲しみだけに目を留めるのではなく 主が共にいて下さった恵をお証詞をし 1コリント13章2節にあるように主と顔と顔を合わせるその日を期待し信仰生活を歩んで行きます。

全ての栄光を主にお返しします。


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