一般に、潔く引退や辞任を口にした人間は「さすがだ」「潔い決断」「カッコイイ」と賞賛され、続投を続けようとする人間は「地位にしがみついている」「醜い」などと言われることが多い。引き際を誤ると「晩節を汚す」「老害」と批判されてしまう傾向がある。
最近でいえば、日銀の福井総裁。村上ファンドへの投資利益が1473万円にもなったという事実が公表され己の行為を「不適切だったと」認めたものの、「職務は全うしたい」と辞任しない意向を明らかにした。
経済界で注目を集める引き際とは、このように何らかの問題が発生したときの対応のことが多く、トップとしての責任問題が絡んでくるため、「辞任」=「責任を果たす」というイメージが植えついている日本では、なかなか辞任を口にしない人間は非難を浴びることになってしまう。
それについては僕も「辞任しなければ大衆は納得しないだろう」と思うので、ここで福井総裁を擁護する気はまったくない。
しかし経済界ほどメディアや大衆の圧力はないものの、スポーツ選手における「引き際」の見方も同様の傾向があるように感じられるのだ。
たとえばマラソンの高橋尚子選手。シドニーオリンピックの華々しい活躍の記憶はまだ薄れないものの、しかし、その後の順調とはいえない選手生活を見て、「あのときに辞めておけばよかったのに」「引退する時期を間違ったね」などと意気揚々と口にする人間が周囲にいなかったか?
スケートの村主章枝選手が現役続行宣言をした際、「己の能力を冷静に見極めて、華のある今のうちに次のステップに進んだほうがいいのではないか」と書いたブログ子もいた。そのブログ子は、潔く引退を表明した荒川選手の決断は素晴らしく、逆に、現役にこだわる村主選手の姿は醜いと感じられたようだ。
シーズン早々に引退を発表した新庄剛志選手を、自分の市場価値を十分に見極めて、いちばん価値の高い時期に行動に移した判断は賢い、と褒めている人もいた。
対して、試合出場の機会を求めて所属チームを転々としているサッカーの三浦知良選手を、「能力的にもう無理なのにみっともない」と言う声も聞いた。
野球の野茂英雄、スピードスケートの清水宏保、マラソンの有森裕子……いつまでも勝負の世界にこだわり続けている選手は大勢いる。
僕はスポーツ選手の引き際について云々いう輩には「大きなお世話だ!」と言いたくなる。
彼らは国民や社員、顧客への責任を背負っている経済界の人間と、自分への戦いに挑み続ける人生を「選択」しているスポーツ選手とを同列で見ていることに何ら疑問を抱いていない、無知で傲慢で愚かな人間たちだ。
言いすぎだろうか。
たしかに、ピーク時からは大分衰えたであろう体力や、若手やライバルたちに追い越されていく姿をみっともないと受け取るものもいるだろう。
しかし、悩んで悔やんで、ボロボロになっても立ち向かう…そんな姿がいちばん人間らしいと僕は思う。そして勝負に執着する人間のほうがアスリートとして尊敬できる。
本人が不屈の闘志と諦めない強い意思で自分の限界と戦っているのに、第三者にもかかわらず「彼は引き際を間違えたから落ちぶれちゃったね」などと平然と言える人間性に、僕は傲慢さを見るのである。
引退を選んでも、続投を選んでも、そこにはそれぞれの人生がある。自分の選択した人生を全うすることが、本人にとっての最大の幸福である。現役であり続ける選手たちはそれを望んでいるのだ。
最近でいえば、日銀の福井総裁。村上ファンドへの投資利益が1473万円にもなったという事実が公表され己の行為を「不適切だったと」認めたものの、「職務は全うしたい」と辞任しない意向を明らかにした。
経済界で注目を集める引き際とは、このように何らかの問題が発生したときの対応のことが多く、トップとしての責任問題が絡んでくるため、「辞任」=「責任を果たす」というイメージが植えついている日本では、なかなか辞任を口にしない人間は非難を浴びることになってしまう。
それについては僕も「辞任しなければ大衆は納得しないだろう」と思うので、ここで福井総裁を擁護する気はまったくない。
しかし経済界ほどメディアや大衆の圧力はないものの、スポーツ選手における「引き際」の見方も同様の傾向があるように感じられるのだ。
たとえばマラソンの高橋尚子選手。シドニーオリンピックの華々しい活躍の記憶はまだ薄れないものの、しかし、その後の順調とはいえない選手生活を見て、「あのときに辞めておけばよかったのに」「引退する時期を間違ったね」などと意気揚々と口にする人間が周囲にいなかったか?
スケートの村主章枝選手が現役続行宣言をした際、「己の能力を冷静に見極めて、華のある今のうちに次のステップに進んだほうがいいのではないか」と書いたブログ子もいた。そのブログ子は、潔く引退を表明した荒川選手の決断は素晴らしく、逆に、現役にこだわる村主選手の姿は醜いと感じられたようだ。
シーズン早々に引退を発表した新庄剛志選手を、自分の市場価値を十分に見極めて、いちばん価値の高い時期に行動に移した判断は賢い、と褒めている人もいた。
対して、試合出場の機会を求めて所属チームを転々としているサッカーの三浦知良選手を、「能力的にもう無理なのにみっともない」と言う声も聞いた。
野球の野茂英雄、スピードスケートの清水宏保、マラソンの有森裕子……いつまでも勝負の世界にこだわり続けている選手は大勢いる。
僕はスポーツ選手の引き際について云々いう輩には「大きなお世話だ!」と言いたくなる。
彼らは国民や社員、顧客への責任を背負っている経済界の人間と、自分への戦いに挑み続ける人生を「選択」しているスポーツ選手とを同列で見ていることに何ら疑問を抱いていない、無知で傲慢で愚かな人間たちだ。
言いすぎだろうか。
たしかに、ピーク時からは大分衰えたであろう体力や、若手やライバルたちに追い越されていく姿をみっともないと受け取るものもいるだろう。
しかし、悩んで悔やんで、ボロボロになっても立ち向かう…そんな姿がいちばん人間らしいと僕は思う。そして勝負に執着する人間のほうがアスリートとして尊敬できる。
本人が不屈の闘志と諦めない強い意思で自分の限界と戦っているのに、第三者にもかかわらず「彼は引き際を間違えたから落ちぶれちゃったね」などと平然と言える人間性に、僕は傲慢さを見るのである。
引退を選んでも、続投を選んでも、そこにはそれぞれの人生がある。自分の選択した人生を全うすることが、本人にとっての最大の幸福である。現役であり続ける選手たちはそれを望んでいるのだ。