徒然草庵 (別館)

人、木石にあらねば時にとりて物に感ずる事無きに非ず。
旅・舞台・ドラマ・映画・コンサート等の記録と感想がメインです。

渇いた太陽 ~Sweet Bird of Youth~ (2) @北千住

2013年12月05日 | 舞台
13公演目の熊本公演が本日終了。

これで(福岡を残して)九州編が終わり、全31公演のうち、早くも1/3以上が過ぎました。
今週末はいよいよ愛知での二日間。上演期間中盤の舞台を観る前に、自分の初見での疑問や感想にも一区切りをつけておきたく思います。

題して『刈谷の前、北千住の後』

(12月6日 加筆修正)


◇   ◇   ◇


第二幕序盤の舞台はフィンリー邸。ボスことトム・(シニア)・フィンリーは南部でも知られた政治家でなおかつ病院も経営する実業家というから、イメージ的には『風と共に去りぬ』のタラの屋敷のような美しいコロニアル様式の邸宅に違いない。ホテルの部屋とちょうど背中合わせの形で作られているセットは、過剰でもなく不足でもなく、左右に加え上下のキャストの動きも楽しめる。ミニマムながら優美。
照明も、朝・昼・午後・黄昏・宵・深夜…と太陽の光をごく忠実に再現するような細やかさで、光の加減で無理なく「劇中の時間軸」を観客が追えるのは素晴らしい、と感じた。そもそも、この舞台の扱う時間はたったの24時間ほどなのだ。


白い三ツ揃いのスーツにステッキ、ハット。渡辺哲さん演じるボス・フィンリーの出で立ちといい喋りといい、栄達欲と奇妙な使命感、加えてカネや世俗や裏社会の虚実にまみれ脂ぎった男の雰囲気を醸し出していて、胡散臭いことこの上ない!(注:褒め言葉!)娘に対する猫撫で声も、粘着質の圧迫感、迫力、大きなガラガラ蛇に巻き付かれて絞殺されるような気分に。一家を、街を、精神的にも物理的にも支配し、「神の言葉」「天からの使命」と口にして一片の疑念もない。二幕のクライマックス、スピーチのシーンは割れたSEも効果的で圧巻。(チャンスでなくとも)聞いているこちらは逃げ出したくなるくらいだ。

ボスが悪どくキワモノ的になればなるほど、周囲でチンピラ紛いなことをやっている息子トム・ジュニアやその取り巻きの薄っぺら感(これも褒め言葉!)も引き立つというもの。もうフィクション云々ではなく「こんな父親、家族に居たら絶対イヤ。勘弁してくれ」と半泣きになってしまいそうだ。
おそらくこの感情は観る側が彼の息子トム・ジュニアや「愛娘」(という表現が皮肉になるのも珍しい?)のヘヴンリーに「本気で同情したくなる」原因かもしれない。

(※チャンス・ウェインとボス・フィンリーの関係性は「家族」ではなく「他人」なのでやや異なる見方を私はしていたが、その辺りについては別途振り返ってみたいと思う)

フィンリー家では息子のトム・ジュニアを演じている川久保拓司さんの芝居、特に文句なしで「眼」「視線」がとてもいい。父に「出来損ないの息子」と罵られ悔しげなシーン、チャンスに向かって憎悪と敵意を露わにするシーン、どちらも荒削りな眼差しの力が印象的。

俊藤光利さん演じるスカッダー医師の、殆ど感情(思惑)を見せない芝居の中で際立つ「相手を品定めする/状況を静観する」怜悧な目もいい。この義理の兄弟(になる予定の)二人、例えるなら噴き上がる炎と凍てついた氷。押しの芝居と引きの芝居で好一対。出番の多少ではなく出てくる場面ごとに強烈なインパクトがあった。

トム・ジュニアは所謂お金持ちのバカ息子…といったステレオタイプのキャラ造形と思いきや、二幕の場面を追うごとに「それだけで終わらない」複雑さが滲んできた。バカがバカになりきれていない、そんな陰影を彼の表情に落とすのが「ヘヴンリーの兄」「ボスの息子」という立ち位置。しかも父はスカッダーを高く評価する一方で自分に目もくれない…この鬱屈。
川久保さんはパンフレットの中で「トム・ジュニアは少年時代にチャンスと兄と弟のように過ごした時期もあっただろう。時を経て関係が変わり、彼への激しい憎しみや、ジュニア自身の変化、そこまで表現できれば」と話していた。まさにその通りかもしれない。観るほどに「心象風景」を紐解いていくのが面白くなるキャラだと思った。(←ちなみに中の人、カーテンコールのはにかんだような笑顔と感極まって潤んだ瞳も可愛らしいw)


(参考:年齢的に表すとこんな感じ?)
チャンス/スカッダー/ルーシー/元同級生 > トム・ジュニア/スタッフ > ヘヴンリー


ところで。スカッダー医師は北千住の3公演を観た限り、実に読み取りにくいキャラ(まあ「台本読みこんでも、つかみどころがない」と俊藤さん自身も言っていたが)だが、悪役ではない、と思う。――では何か?チャンスと同世代の「昔の友人の一人」として見るのは妥当だろうか。ホテルにいると聞いて慌てて飛んできたこと、母親が死んだことを伝え、さらにはヘヴンリーの執刀医・婚約者としての立場から大事にならないうちに街を出て行くように伝えたこと。(好意的に解釈すれば)敵対もしないが味方にもならない。

彼自身は全二幕を通して、殆ど「自分の立ち位置・思惑を鮮明にしない」曖昧なポジションに留まっている。ボスの政治活動にも一線を引き「巻き込まれたくない」とジュニアに明言していたりする。とはいえ、怜悧で計算高い(はずの)スカッダーがほぼ唯一感情を見せたのが、冒頭チャンスに相対したホテルの場面というのも、観客にも登場人物たちにも一切見せることのない「心象風景」を推し量るヒントになりはしないだろうか、と思っている。←このへん、2週間の「時間」を空けて刈谷で観る時に何か気づけるといいなあ、と期待。

で、フィンリー家のお姫様・ヘヴンリー(内田亜希子さん)について。う~ん…ちょっとつかみかねている。正直まだ分かっていない。この芝居に登場するメインの女性キャラクター中一番立ち位置が難しい、そしてどんな印象を観客の心に残すのか…それもまた難しい役ではないか?と感じた。
スカッダーのように「意図的な分かりにくさ」ではなく、ただ単純に「不明確な輪郭線しか持っていないキャラクター」としてしか、まだ胃の腑に落ちてこない。ふわふわした浮揚感=ふわふわした曖昧な存在感。長い金髪のウィッグがよく似合っていて、たたずまいは妖精のよう。まあ一番!!!ビックリした!!!のは中の人の実年齢を知った時(爆)…本当に「精神の時間が停止した」ハタチそこそこの少女にしか見えない恐るべき舞台マジック。

ルリ子様のアレクサンドラは当然としても、貴城けいさんのミス・ルーシーに比べても、そこに実在すべき必然性が希薄なキャラクターではある。それ故に「誰かの目を通してしか」彼女が見えてこない場面も多かった。もっとはっきり言えば「名前の通り、まるで天国のような」とチャンスの熱烈なる賛辞を受ける女性には、あまり思えなかった。何故かなあ…。

そうそう。ミス・ルーシー良かったv赤いドレスと短い髪、大輪のバラが咲いたようなあでやかさ。お世辞でなくヴィヴィアン・リーのよう!ゴージャスな愛人生活=そもそも存在自体が退廃的なのに、熱いハートと行動力と人を思いやる優しさを持ち合わせた男前さがカッコいい!(流石男役スターな中の人!)愛人というと少しは後ろめたさがあってもいいのに?全然日陰の匂いのしない雰囲気がまた…まあアメリカ人だからか。←

ルーシーがチャンスにあれほど手を差し伸べたのは何故か…?昔心惹かれた男という以上に、保守的な南部の田舎町で「その美貌で目立つ」「それ以外に何も持たない非生産的な存在で」「社会の良識に照らすと紛れもないアウトローである」ことに、共感していたのかもしれない。

(ちなみに野次馬的には「もうチャンスはルーシーとくっついちゃえば良いよ!」と何度か思ったwああいうしっかり者の女性と一緒なら、お子様なチャンスも道を踏み外さずに幸せになれたかもしれない。いや、ホントお似合いすぎるのだw)

でも、2役の「ノニーおばさん」は流石に無理があり過ぎた…中の人が美しすぎて60代には見えない悲劇wおみ足の細さとか身のこなしが水際立ちすぎていて、年寄りならもうちょっとヨレヨレしてほしい、と苦笑いするシーンも。やや残念だったかなあ…orz いやこれも次回以降の舞台で変わっていることを期待!!!♪

ヘヴンリーの話に戻ると…あの「非現実的な存在感(第一幕でチャンスが回想するシーン、バルコニーにふわりと現れるところなんか特に)」こそが演出の意図で、アレクサンドラやルーシーのように「どろどろとした情念」「生命のエネルギー」と対極に置いた「小さく静かな白い一輪の花」としての役目が彼女なのか、とも思う。
父親に向かって感情が激する場面があっても、ホテルでの政治集会でチャンスと再会しても、それは行動にはならない。「あくまでも静的な」イメージでしかない以上、分かりやすいお芝居の形で彼女を理解するのは難しそうだ。

でも、チャンスにとってはヘヴンリーこそがお姫様で、唯一の心の安らぎで、愛している(う~~~ん…この言い方、もの凄く違和感がある!私はチャンスの言動に「愛」を感じることが全くなかったので…)存在なんだね、そうなんだねー…(棒読み)orz  ←理解不能。


ちょっと話はずれるが、チャンスは「恋」をしていたのであって、誰かを「愛」していたのではない…ような、そんな気がする。言葉遊びではなくて、恋とは身勝手で時に相手のことなんかお構いなしに突っ走るものなので、それはまさに「大人になりきれないチャンスの我儘な感情と行動」を説明するのにぴったりな語彙では?と思う。

究極のところチャンスは「自己愛」の塊だったわけで、他者に向ける愛情とは最後まで無縁のキャラクターだったなぁ…と感じている。ヘヴンリーのことを語る言葉もあくまでも「自分の思い描く世界での」彼女に対してで、彼女自身が何を思い何を願っているか、なんてこれっぽっちも考えていない…そこが滑稽でもあり、愚かで、そして哀れでもある。

それに比べると「愛」を体現していたのは誰だろう?アレクサンドラ?違う。彼女の口にした「愛」は「支配」と「束縛」の言い換えに過ぎない。もちろんヘヴンリーでもない。ルーシーでもないだろう。だとしたら?

ふとした拍子にアレクサンドラが「心からチャンスのことを気遣う」瞬間がいくつかあって、彼女はあんなふうに振る舞いながらもチャンスのことを愛していたのかな…と思わされることはあった。

これも、ひょっとしたら今後答えが見つかるかもしれない。


◇   ◇   ◇
 


第二幕序盤。ヘヴンリーの台詞「チャンスは(ボスが彼女の相手と認めるような)大物になろうとした――(中略)――チャンスは頑張った。でも、どれだけドアを叩き続けても、彼の前に正しいドアは開かなかった。そして、彼は悪い方のドアを開いてしまった…」
悪い方の(間違った)ドア、とは何を指すのか。チャンスが「俳優としての」成功ではなく、男娼まがいの取り入り方をしてまで手に入れたかった「成功=セレブリティの世界への手がかり」なのか。(結局、どれもこれも中途半端に終わり、彼は挫折するのだが)

When one door of happiness closes, another opens.
But often we look so long at the closed door that we do not see the one
which has been opened for us.

チャンス・ウェインは目の前の閉じたドアに執着し過ぎたのかもしれない。すぐ後ろで、別のドアが彼を受け入れるべく開いていたかもしれないのに。
ショービジネスの世界での成功ではなく、まさしくノニーが言った「心優しく、正しく生きる人であること」 ヘヴンリーはセント・クラウドの街に戻ってきたチャンスに会うたびに、そう思っていたのかもしれない。

そうは言っても男の野望というのは際限のないもので(苦笑)チャンスのような中二病患者ならなおのこと、一度踏み外したら周囲を派手に巻き込んで、破滅していくのだろう。

全ての歯車がかみ合わなくなっていく二幕、特にチャンスの焦燥と恐慌、そして諦観は、同情の余地はなくともその哀れで痛々しい姿に「見守る」こちらの気持ちも激しく揺れる。あの結末に向けて雪崩落ちていくのを毎回耐えながら観るのは、何か「試されている」気にすらなってくる。


◇   ◇   ◇   ◇


(ここからはより個人的な感想といいますか、舞台を観て思いだしたことや考えたことなどを取り留めもなく書きだしてみます。)

時の流れの残酷さや男女の愛憎を炙りだす『渇いた太陽』――実は私が一番共感したのは、チャンスやアレクサンドラが恐れる「美貌や若さの喪失」ではない。時間の経過が万人に平等に齎す「変化」の重さと、そこでの人の生き方・有り様が、舞台の上だけでなく現実の自分と周囲にも変わらず存在していることに気付かされ、そこにこそ心が動いたというべきだろうか。

お金はなかったが時間だけがあった学生時代、ヨーロッパではいつも「バストイレ共同の安宿」「二等列車」「町中の移動はバスか徒歩」紙媒体が殆どだった現地の情報を頼りに旅をする以上、どうしても要領は悪くなる。乗継ぎを間違えて時間を無駄に費やしたり、飛行機なら1時間のことが、安い学生用鉄道パスでの移動を選び、6時間列車に乗り続けたこともある。
国際電話は高かったし、携帯電話やメールはそれほど普及していなかった。食事だってレストランでテーブルについてとるようなことは例えば1ヶ月のうちで数えるほど。食料品店で買ったパンをスイスナイフで切って、ハムやチーズを挟んでパニーニにしたり、ビタミンが足りないと思えばスーパーでリンゴやオレンジを買って部屋で食べていた。安全上の配慮もあり、バックパッカーとまではいかなかったが、それがごく普通に分相応だった。

今はどうだろう?時間的な自由は大分失ってしまったけれど、時代は変化し、出先でもネットで情報は簡単に手に入るし、誰とでもリアルタイムで連絡がつく(仕事も追っかけてくるようになってしまったが…)。旅に出るなら少なくとも☆3くらいのホテルに滞在し、あるいは☆5の極上ステイで「何もしない贅沢」を堪能する。必要であればタクシーを使う。食事も、自分一人でもパートナーと二人ででも、もちろん友人たちとでも、素敵なレストランでウェイターやシェフと会話を楽しみながらゆっくり前菜から食後のリキュールまでの食事を楽しめる経験値と度胸もある。サッカーの試合だって、メインスタンドのチケットを躊躇いなく買える。昔のようにドキドキしながら現地のフーリガンに交じってゴール裏の立席で過ごすことはもうない。

仕事にしても、人間関係にしても、20代の頃は経験不足を残業時間で補う仕事の仕方をしたり、視野の狭さを勢い(人はこれを若さと呼ぶのか?)で乗り切ったり、乗り切れずに衝突したりした。30代になって、勢いではなく根回しという名の政治的な駆け引きができるようになり、経験値から来る器用さで要領よく片づけたり、小賢しく手を抜くことも覚える。さすがに連日徹夜をする体力はなくなっても、徹夜をしなくていいだけのスキルとスケジューリングで武装する。これが40代になれば(それなりのキャリアの持ち主であれば)責任はより重くなり、公私ともに身軽とはいかなくなる代わりに、ポジションパワー・財力・経験値で補い手に入れられるものは更に増えるだろう。

だから、どちらが悪くて、どちらが良いということではない。
まして「あの頃に戻りたい」とも思わない。

グラスの水をそっと傾けると、一方は深く、もう一方は浅くなる。
そんなものではないかと思っている。

ただ…チャンス・ウェインを見ていて「(役は)若作りという意味ではなく、今の自分では落ちてしまっている心のカドのようなものを、もう一度尖らせる作業をしている」と語った上川さんの言葉が、じわりと実感と共感を伴って迫ってくるのだ。

「カドがあった頃の」自分を振り返ると、「お前世の中がみんな馬鹿だと思ってただろ?」という10代の頃はもちろん、それより後でも傲慢さや世間知らずさ、身勝手さに苦笑いを禁じ得ないし、時に「うわああ!やめてくれ!頼む、それだけは思い出させないで!」という(墓穴があったら自らダイブしたいくらいの)黒歴史や大失敗もある。

イタい、笑い飛ばすには未だ生々しい、痛すぎる過去の数々…それを舞台上の上川隆也が演じるチャンス・ウェインがいちいち私に思い起こさせるのだ。第一幕はまだ耐えられるが、第二幕は「まともに目を向けるほども出来ない」ほどに、進むにつれて古傷があちこち破れて血を噴いて、痛くてたまらない。それでも観るのは「マゾヒスティックな快感」が目的では断じてなく!(爆)「今の自分はそうじゃない」と何とか自己肯定感と矜持を保っていられるからだろう。

自己肯定感と矜持。同じ女として浅丘ルリ子さん演じる(設定年齢50歳を超えると思われる)アレクサンドラの姿は、まだ若いヒヨコなチャンスの足掻きよりも遥かに重く深く突き刺さる。(いやホントにチャンスくんの設定年齢を仮に28歳とすると、若造ですよ、若造ッ!)

言葉の端々から、アレクサンドラ・デル・ラーゴという女優が手にしていた名声は『演技派』というよりは『若さと美貌、セクシーさ』の分野であったのだろうと思う。スターの名声を得て、億万長者と結婚して引退して(その後死別したのか離婚したのかは知らないが、アレクサンドラは現在独身)…それが、意を決して臨んだカムバック一作目で「アレが彼女?」「若くないねー」という観客のひそやかな、声にならぬ声に恐怖し逃げ出してしまう、という一連の出来事は、「若さと美貌しか」取り柄のなかった人気女優の末路として、これ以上なく残酷なリアリティがある。

「時計の針を巻き戻したかった」ふたり。

それができないとわかっているから、酒と薬物と若い男に逃避したアレクサンドラ。
それが可能だとまだ!無邪気にも信じている、10代の少年のままのチャンス。

一歩間違えば、私の前にもそのドアは開いていたかもしれないからこそ、怖いと思う。
そう思うからこそ、終盤アレクサンドラが鏡を見て「目を背けずに」自らの姿と対峙するシーンが、誇り高い本来の彼女自身を取り戻す場面が、たまらなく好きなのだ。

そうして嫌でも考えてしまう。観客の心に結末をゆだねる演出と構成のおかげで、破滅を目の当たりにしないで済むという「救い」はあるものの…チャンスはあの後、どんな道を辿るのか。
「罠から逃れようと自分の足を食いちぎったネズミは、逃れることはできても最早走ることはできず、生きてはいけない」
自らに死刑宣告をするような、チャンスの醒めた声だけが、終幕後の脳裏に何度も繰り返される。


決して幸せな結末でもなく、スッキリとした終了感も抱けない舞台。ただ忙しい日常に追われるままに、つい「見ないふりをしていた」心の底に澱のようにたゆたう疑問や不安、そして誰の中にも潜む「時間という名の敵」に、劇場でがっつり真剣に向き合うのが楽しみでもある。

浅丘ルリ子と上川隆也、主演二人の素晴らしいお芝居のぶつかり合いはもちろん、脇を固める個性的で強烈なキャラクター達も含めて、2週間13公演を経て「どう変化しているか」?

師走だからこそ+この年齢とキャリアに至った今だからこそ、改めてもう一度観ておきたい。


(了)





◇   ◇   ◇