倭人語のすすめ

倭人の言葉が残されていた。古事記の神々の多くは、秘文とされた文書を基にしていた。一音一義の倭人語を解き明かしたいと思う。

遠絶不可得詳

2024-10-14 08:41:47 | 邪馬壹国
 たまたま地形図を見て気が付いた。
 邪馬壹国の各国はここにあるに違いない!
 女王国が博多とすると、その南にあり詳細を記載しないとされた各国は、築紫平野にあるのではないか。
 
            国土地理院の陰影図


 弥生時代の特徴は稲作だ。
 稲作は平らな土地を必要とする。水を大量に必要とする。
 私には猫に見えたが、博多から細い首部分、筑紫野市を通って、筑後川が流れる築紫平野に出る。
 弥生時代に馬は無かった。移動は、徒歩だろう。
 いろいろな物資を運ぶにも、都合のよい場所だ。


 更に証拠となるものは無いだろうか。
 遺跡は証拠になるのではないか。
 いろいろな遺跡の資料を探す中で見つけたの甕棺の分布を見つけた。
 「九州の甕棺 -弥生時代甕棺墓の分布とその変還- 藤尾 慎一郎」というレポートがインターネットに掲載されてた。
 甕棺が弥生時代どのように拡がっていったのか、その分布を年代別に調査した結果だ。
 詳しい文章は、ネットに出ていると思うので、それを読んで欲しいが、私の注目したのは甕棺がある土地の年代別の地図だ。
 弥生時代を5期に分けて時代ごとの甕棺の分布をまとめ上げたものだ。
 特に注目したのはⅡ期Ⅲ期。

 九州北部の築紫平野に甕棺が広がっていったのがはっきりわかる。
 山のすそ野に集中している。
 稲作にはあまり影響のないところに甕棺墓を作ったのだろう。
 また、開発の手始めには木材などの材料を確保しやすい山際が良かったのだろう。
 この甕棺墓が筑紫平野に分布していく様を見て、私は更に各国がここに存在していたことに確信を持った。


 次に考えるべきは国のサイズだ。
 郡名等を根拠に各国を探したことがある。伊都郡とか那珂郡とか、郡の境が接している、山の上まで境界線が接している。これは地図が書けるようになってからのものだ。大きすぎる。
 弥生時代の国のサイズはどのようなものか。
 当時馬はいない。陸上の移動は徒歩。
 一戸当たりの土地の面積はどのくらいか。
 一反あれば現代でも自給自足が出来るという。
 米作りをするにしても、用具が充実してたとは言えない弥生時代。
 一反一戸と仮定してもいいのではないかと思う。
 一反一戸と仮定すると、一反(300坪)は約1000㎡である。
 1キロ四方だと1000m×1000m÷1000㎡で千戸となる。
 2キロ四方で4千戸。
 4キロ四方で1万6千戸。
 8キロ四方で6万4千戸。
 倭人伝に出て来る各国の戸数は千戸・三千戸・四千戸・二万戸、最大は投馬國の5万戸。
 数キロメートル四方、これが弥生時代の国の大きさとみてよいのではないか。
 イメージとしては、集落が飛び飛びに存在する。境界は接していない。


 郡名と各国を突き合わせても、郡の範囲は広すぎて、ぴったり来ない。
 また、稲作には平地と水が必要で、山地は除外してよい。
 もっと小さな地域名を付け合わせて各国を探すと、飛び飛びになってしまう。しかも、語呂合わせ的な根拠の薄いものになる。
 日本の都道府県を説明するときに、北海道・福岡・愛知・愛媛・・・などと、でたらめに説明することはない。ある程度の順番で、順序良く説明するはずだ。倭人伝だってそのはずだ。
 地名だけに頼るのは無理。


 それでは、何を根拠に各国を探すか。
 まずは弥生時代の遺跡。
 そして、関連する地名があるか。
 国の現れる順番が合理的か。


 これらの基準で探すにしても、問題なのは、各国の読み方。
 倭人語として使用されている漢字は60個以上ある。
 現代の50音では足りない。
 当時の弥生語・倭人語はもっと音がたくさんあったのだ。倭人伝各国の読み方を再検討する必要がある。
 更に、中国の南北朝以前は現代音とは違う発音、上古音である、
 上古音は周代・漢代、中古音は南北朝(439~589)後期から隋・唐・五代・宋初。 
 ということは、魏志倭人伝の倭人語はは全て上古音で発音すべきということになる。
 上古音などの発音は「蒲生新田」という人や、ウィキペディアなどに一覧表などが載っていて、それらを加工して私が独自にまとめたのだが、今ネットで調べても、「蒲生新田」というのはヒットしない。ウィキペディアでも一覧表は存在しない。
 私は、上古音につけられた発音記号を基に読み方、発音の仕方を耳で聞き取り、カタカナで表した。
 これはなかなか難しいことだ。例えば、ヘボン式ローマ字のヘボンと、オードリー・ヘップバーンのヘップバーンは同じHepburnだ。翻訳ソフトで聞けばヘッバーンと聞こえる。人によっても表記は様々になる。あくまでも私流に全ての語を聞こえたようにカタカナ化した。


 上古音に続いて検討すべきは弥生語、倭人語だ。
 魏志倭人伝には62個の倭人語が残されている。これは、魏志倭人伝が当時の倭人語を収集するのが一つテーマであったと考えられる。だから、30か国の国の名を列記し、沢山の官名や人名を記したのだろう。
 62個あれば現代の五十音を超える。つまり、弥生時代はもっと多くの音があったと考えられる。


 ここでひらめいたのは弓前文書だ。
 弓前文書とは、鹿島神宮の神官であった弓前値成(ゆまあてな)という人が、弥生時代以来口誦で伝えられて来たものを、漢字を使い、漢字を応用した特殊文字も使用し、文字化したものだ。610年頃だという。
 弓前文書はこれら弥生語を文字化した「神文」とその由来等を漢文で記した「委細心得」の二つからなる。これらは、弓前値成によって、秘文とされ、一般に公開されることは無かった。代々の神官である弓前和(ゆまに)に引き継がれて、研究されて来た。
 これらの文書を引き継いだのが池田秀穂。
 平成5年10月に「弥生の言葉と思想と伝承された家」および平成9年6月には「日本曙史話―弥生の言葉と思想」を発行し、弓前文書を公開した。この二つとも絶版であるが、全国の図書館を探せば数冊見つけることができる。
 また、弓前文書の原本は板文に書かれたものや、紙に書き写したものであったが、第2次世界大戦で全て灰になってしまったということだ。
 すべては、池田秀穂の記憶の中から取り出したもので書かれたものだ。


 これを信じるか。信じない方が楽な人生が送れる。なぜなら、一切、弓前文書を研究する必要が無いのだから。
 弓前値成なんて歴史で習ったこともない。なんで、今頃になってそんな文章が出現するのだ。何度も否定しようと思った。何度否定しようと思っても、弓前文書は存在した、偽物ではない、作り物ではない。そう感じた。なら、偽物と証明できるなら証明しよう。偽物と言えるまでは本物だと信じようと覚悟を決めた。いまだに本物だと思う気持ちは揺らいでいない。


 弥生時代の言葉を漢字や特殊文字を使って弓前値成が書いた文字を、池田秀穂は「弓前漢字仮名」と命名した。
 弓前漢字仮名は特殊文字、例えば「晴」の上に弓前冠、雨に似た冠で、天の下にうごめく力を表した冠等を使っている。また、複数形は「垂垂」のように、文字を並べたり、偏を二重にしたりして表している。
 しかし、ワープロで書くには、外字作成の必要がある。さらに、別のパソコンでそのデータを開こうとしても、同じよう外字データが備わっていなくてはならない。汎用性いに欠ける。
 そこで私は、弓前冠は「゜」、複数形は「゛」を使うことにした。また、旧字体は新字体に改め、画数が多い漢字はもっと簡単な漢字に置き換えた。これら「弓前漢字仮名」の簡易版を私は「ユマ仮名」と称することにした。
 
 ユマ仮名の母音は8個。a,o,u,iと二重母音ai,au,ou,iu。
 母音の関係は三角形を使うと理解しやすい。

 eは渡来人からもたらされた。倭人の発音には無い。ただ、aiと近い。
 発声エネルギーの大きい順にa,o,u,iとなっている。


 母音がエネルギー順であるのを端的に示すのが日本数詞だ。
 yi,yu,yo,ya ⇒1.2,4,8
 mi,mu,mo,ma ⇒3,6,もっと、まったく
 ti,tu,to,ta ⇒小さい、5(いつつ)、10、たくさん


 きれいに小さい順からi,u,o,aと並んでいる。
 八岐大蛇(やまたのおろち)は、最高の値、ya ma ta。
 これらを整理して作られたのがひふみ数詞の原形だ。
 ピプミヨツムナヤコト
 「霊゜震゜実因積醸成因゛凝充」
 弓前文書神文第3節第2章に書かれている。


 子音は、k,x,s,t,ts,n,p,m,y,r,wの11個。
 その他に、複数形や合成音がある。
 詳しいことは、別の機会に譲るとして、ユマ仮名を魏志倭人伝の倭人語と付け合わせてみることにする。


 索引カナ[ユマ仮名・ローマ字発音・カタカナ発音]⇒【倭人伝の倭人語】(発音記号)(聴取発音)の順で書いた。索引カナは二重母音を無視したり、aiをエと読んだり、単純化した読み方。辞書を引きやすいように考えた発音だ。通常発音するにはこれで充分なのだが、ユマ仮名とその発音を意識しなくてはいけない。カタカナ発音はローマ字発音の補助として使う。聴取発音とは、中古音の発音を聴き取りカタカナ化したもの。

ア〔会auアゥ]⇒【烏】(・ag)(アーグ)
イ〔囲wiウィ]⇒【爲】(ɦiuar)(ヒワー)
イ〔厳yiイ]⇒【已】(diəg)(ディグ)
イ〔緒yiuイゥ]⇒【一】(・iet)(イエット)
イ〔親iuイゥ]⇒【伊】(・Iər)(イア)
イット〔親充iuto]⇒【壹】(・iet)(イエット)
ウ〔浮wuウゥ]⇒【越】(ɦuIat)(フヤット)
エ〔辺waiウェ]⇒【獲】(ɦuak)(フアーク)
オ〔覆woウォ]⇒【百】(pak)(パク)
カ〔威kaカ]⇒【古】(kag)(カグ)
カ〔狩xaクァ]⇒【渠】(gIag)(ギアグ)
カ〔母xauクァゥ]⇒【耆】(gier)(ギア)
キ〔岐kiキ]⇒【支】(kieg)(キエグ)
キ〔貴kiuキゥ]⇒【鬼】(kIuər)(キウア)
キ〔刻xiクィ]⇒【臣】(ghien)(ギエン)
ク〔奇kuク]⇒【狗】(kug)(クグ)
ク〔哈xuクゥ]⇒【惟】(diuər)(ディウア)
ケ〔異kaiケ]⇒【佳】(keg)(ケグ)
ケ〔食xaiクェ]⇒【邑】(・Iəp)(イアプ)
コ〔堅koコ]⇒【觚】(kuag)(クアグ)
コ〔屠xoクォ]⇒【弓】(kIoŋ)(キオン)
サ〔爽saサ]⇒【蘇】(sag)(サグ)
サ〔陜tsauツァ]⇒【載】(tsəg)(サグ)
シ〔静siシ]⇒【斯】(sieg)(シエグ)
セ〔瀬tsaiツェ]⇒【升】(thiəŋ)(ティエン)
タ〔垂taタ]⇒【都】(tag)(タグ)
チ〔育tiuチゥ]⇒【智】(tIeg)(チアーグ)
チ〔少tsiツィ]⇒【姐】(tsiag)(チアグ、)
チ〔微tsiuツィゥ]⇒【市】(dhiəg)(ディアグ)
チ〔雷゜tiチ]⇒【聲】(thieŋ)(チエン、)
ツ〔鋭tsuツゥ]⇒【兕】(-(不明))(ジイ)
ツ〔積tuツ]⇒【對】(tuəd)(トゥアド)
ツ〔背tsouツォ]⇒【泄】(siat)(シアート)
テ〔与taiテ]⇒【多】(tar)(タア、)
ト〔充touトゥ]⇒【鞮】(?)(テイ)
ト〔保toト]⇒【投】(dug)(ドゥグ)
ナ〔成naナ]⇒【奴】(nag)(ナグ)
ナム〔奈namuナム]⇒【難】(nan)(ナン)
ニ〔和niuニゥ]⇒【爾】(nier...)(ニア)
ネ〔根naiネ]⇒【吾】(ŋag)(ナーグ)
ノ〔延nouノゥ]⇒【那】(nar)(ナ)
パ〔晴゜paパ]⇒【巴】(pag)(パグ)
ピ〔日piピ]⇒【柄】(pIaŋ)(ピアン)
ヒ〔飯xiuクィゥ]⇒【掖】(diak)(ディアク)
ピ〔霊゜piuピゥ]⇒【卑】(pieg)(ピエグ)
プ〔震゜puプ]⇒【不】(pIuəg)(ピウッグ)
ポ〔火゜pouポゥ]⇒【牛】(ŋIog)(ヒオーグ)
ホ〔子xouクォゥ]⇒【呼】(hag)(ハグ)
ポ〔穂゜poポ]⇒【好】(hog)(ホグ)
マ〔真maマ]⇒【母】(muəg)(マグ)
マ〔増mauマゥ]⇒【馬】(mag)(マーグ)
ミ〔現miミ]⇒【(彌)】(mier)(ミア)
ミ〔実miuミゥ]⇒【彌】(mier)(ミアー)
ム〔醸muム]⇒【末】(muat)(ムア)
メ〔芽maiメ]⇒【米】(mer)(メア)
モ〔基moモ]⇒【模】(mag)(マグ)
モ〔萌mouモゥ]⇒【謨】(mag)(マーグ)
ヤ〔因゛yauヤ]⇒【邪】(ŋiag)(ニヤグ)
ユ〔結yuユ]⇒【躬】(kIoŋ)(キオング)
ヨ〔因youヨゥ]⇒【與】(ɦiag)(ヒアーグ)
ラ〔躍raラ]⇒【盧】(hlag)(ラグ)
リ〔座riリ]⇒【利】(lIar)(リア)
レ〔舞raiレ]⇒【離】(lIed)(リアド)
ワ〔渡waウァ]⇒【華】(ɦuag)(フアグ)


 ぴったりはまるのもあれば、どうかなと思うものもあるが、とりあえず、全て振り分けた。
 これらを基に倭人伝各国の国・官職・名前等を読んでみる。


狗邪(くや)⇒クヤ[奇因゛ku yau ]
對馬(つしま)⇒ツマ[積増tu mau ]
一支(いき)⇒イキ[緒岐yiu ki ]
末盧(まつろ)⇒ムラ[醸躍mu ra ]
伊都(いと)⇒イタ[親垂iu ta ]
奴(な)⇒ナ[成na ]
不彌(ふみ)⇒プミ[震゜実pu miu ]
投馬(とうま)⇒トマ[保増to mau ]
斯馬(しま)⇒シマ[静増si mau ]
已百支(しおき)⇒イオキ[厳覆岐yi wo ki ]
伊邪(いや)⇒イヤ[親因゛iu yau ]
都支(とき)⇒タキ[垂岐ta ki ]
彌奴(みな)⇒ミナ[実成miu na ]
好古都(こうこと)⇒ポカタ[穂゜威垂po ka ta ]
不呼(ふこ)⇒プホ[震゜子pu xou ]
姐奴(そな)⇒チナ[少成tsi na ]
對蘇(つそ)⇒ツサ[積爽tu sa ]
蘇奴(そな)⇒サナ[爽成sa na ]
呼邑(こお)⇒ホケ[子食xou xai ]
華奴蘇奴(かなそな)⇒ワナサナ[渡成爽成wa na sa na ]
鬼(き)⇒キ[貴kiu ]
爲吾(いご)⇒イネ[囲根wi nai ]
鬼奴(きな)⇒キナ[貴成kiu na ]
邪馬(やま)⇒ヤマ[因゛増yau mau ]
躬臣(くし)⇒ユキ[結刻yu xi ]
巴利(はり)⇒パリ[晴゜座pa ri ]
支惟(きい)⇒キク[岐哈ki xu ]
烏奴(うな)⇒アナ[会成au na ]
奴(な)⇒ナ[成na ]
狗奴(くな)⇒クナ[奇成ku na ]
卑彌呼(ひみこ)⇒ピミホ[霊゜実子piu miu xou ]
卑彌弓呼(ひみきゅうこ)⇒ピミコホ[霊゜実屠子piu miu xo xou ]
掖邪狗(えきやく)⇒ヒヤク[飯因゛奇xiu yau ku ]
伊聲耆(いせいき)⇒イチカ[親雷゜母iu ti xau ]
載斯烏越(さしうえつ)⇒サシアウ[陜静会浮tsau si au wu ]
難升米(なんしょうまい)⇒ナムセメ[奈瀬芽namu tsai mai ]
都市牛利(としぎゅうり)⇒タチポリ[垂微火゜座ta tsiu pou ri ]
卑狗(ひこ)⇒ピク[霊゜奇piu ku ]
卑奴母離(ひなもり)⇒ピナマレ[霊゜成真舞piu na ma rai ]
爾支(にき)⇒ニキ[和岐niu ki ]
泄謨觚(せもこ)⇒ツモコ[背萌堅tsou mou ko ]
柄渠觚(へくこ)⇒ピカコ[日狩堅pi xa ko ]
兕馬觚(しまこ)⇒ツマコ[鋭増堅tsu mau ko ]
多模(たも)⇒テモ[与基tai mo ]
彌彌(みみ)⇒ミミ[現実mi miu ]
彌彌那利(みみなり)⇒ミミノリ[現実延座mi miu nou ri ]
伊支馬(いきま)⇒イキマ[親岐増iu ki mau ]
彌馬升(みましょう)⇒ミマセ[実増瀬miu mau tsai ]
彌馬獲支(みまかくき)⇒ミマエキ[実増辺岐miu mau wai ki ]
奴佳鞮(なかてい)⇒ナケト[成異充na kai tou ]
狗古智卑狗(くこちひこ)⇒クカチピク[奇威育霊゜奇ku ka tiu piu ku]
邪馬壹(やまたい)⇒ヤマイット[因゛増親充yau mau iutou ]
壹與(いよ・とよ)⇒イットヨ[親充因iutou you ]


 各国を探す方針としては次のように考えた。
  ①弥生時代の遺跡がある所を探す。
  ②国の大きさは数キロメートル四方。
  ③ある程度順番通りに並んでいること。
  ④ユマ仮名を当てはめた国名に何らか符合すること。
  ⑤築紫平野・福岡平野に絞って探すこと。
  ⑥倭人伝の記述に反しないこと。理屈に合っていること。
  ⑦水利を明らかにすること。




女王國への1万2千里と真実の距離、邪馬壹國の地図

2024-10-14 08:41:19 | 邪馬壹国
Ⅰ邪馬壹国の地図

 私は遺跡地図や地形図を使って弥生時代の集落や墓、散布地などをマッピングすることにより、邪馬壹国各国の場所を特定した。特定の根拠を順次説明することにしたい。
 地図は國土地理院のものを使用した。
図1

図2

Ⅱ後漢書と魏志倭人伝の検証
 
 魏志倭人伝の前に魏志以前に書かれた後漢書に何と書いてあるか確認しよう。


倭在韓東南大海中
(省略)
其大倭王居邪馬臺國。
樂浪郡徼去其國萬二千里、
去其西北界拘邪韓國七千餘里。


 ここから読み取れることは、
 倭の王は邪馬臺国に居る。
 楽浪郡から邪馬臺国までは1万2千里。
 楽浪郡から邪馬臺国の西北の境界である拘邪韓国までは7千里である。

 拘邪韓国からの5千里の道筋は記載していないということを指摘したい。
 また、楽浪郡の南側が分割されてのちに帯方郡となった。

 それでは、魏志倭人伝の内容をここでは距離等に絞って検討する。

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
始度一海、千餘里至對海國。(省略)、方可四百餘里、(省略)。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、(省略)。
方可三百里、(省略)。
又渡一海、千餘里至末盧國、(省略)、
草木茂盛、行不見前人。(省略)。
東南陸行五百里、到伊都國、(省略)。
東南至奴國百里、(省略)。
東行至不彌國百里、(省略)。
(省略)
自郡至女王國萬二千餘里。

 帯方郡から狗邪韓国の北岸まで7千里。(残りは5千里)
 對海国まで1千里。4百里四方。
 一大国まで1千里。3百里四方。
 末盧国まで1千里。
 伊都国まで5百里。
 奴国まで1百里。
 不彌国まで1百里。

 足し算をしてみよう。
 1千×3+5百+1百=3千6百で奴国に到達。
 1千4百足りない。
 對海国と一大国の面積の数字を倍にしたら7百×2=1千4百。
 丁度5千里となる。
 不彌国までの1百里を足す必要はない。
 つまり、奴国が第一義的に女王国である。

 何故面積の数字を倍にして距離と扱うのか。
 それが可能な根拠は何か。
 對海国と一大国という記載だ。
 いずれも對馬国と一支国とすべきところを字を変えている。
 わざと間違えているのだ。
 これは、普通に読んではいけないという事。
 そしてこの文章は「女王國萬二千餘里」を解説する文章である。
 1万2千里が導き出せなければまったく意味が無い。
 だから「方」という本来は面積で使うものを距離に換算するような謎かけともいえるものを採用したのだろう。


 後漢書には「其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里」
 一方、魏志では「自郡至女王國萬二千餘里」となっている。
 後漢書では邪馬臺国まで1万2千里なのに、何故、魏志では女王国まで1万2千里なのか。
 邪馬臺国と女王国は同一なのか。
 これは違うと言いたい。
 後漢書での楽浪郡(帯方郡)から邪馬臺国までの距離は、邪馬臺国の中心部までの距離というとだ。
 例えば、日本国と韓国との距離は何キロ?という問いが出されたら、普通、日本の首都東京と韓国の首都ソウルの距離をもって答えるだろう。まさか釜山港と対馬の距離を答えることは無いだろう。
 ところが、例えば日本から船で釜山港に入ったら、もう韓国までの距離は出せない。なぜなら、釜山は既に韓国だから。釜山とソウルの距離なら距離を出すのは可能である。


 同じことが「自郡至女王國萬二千餘里」についても言える。
 魏誌には狗邪韓国の岸、倭(邪馬壹国)の一番北の岸からの道筋を書いている。
 狗邪韓国は邪馬壹国の国内なのだ。だから、女王国までの距離は出せても邪馬壹国までの距離・道筋は示せない。
 例えば対馬から日本国の首都、東京までの道筋は言える。しかし、対馬から日本国までの道筋は示すことが不可能だ。なぜなら対馬は日本国内だから。
 ここが決定的に今までの邪馬台国論と違うところだ。
 邪馬壹国は伊都国などと同列の国ではない。全ての構成国の総称のなのだ。日本国は全ての都道府県で構成されているので混乱は無い。しかし、かつては、駿河国、相模国などが日本国を構成していた。同じ国という字を使っていても、まったく立場は異なる。中国から日本国に来ることは出来るが、駿河国から日本国に来ることはできない。なぜなら、既に駿河国は日本国内なのだから。


 ここで、魏志倭人伝の記載を地図化してみよう。


図3

 帯方郡から狗邪韓国まではおおよその航路を7等分し、1本を1千里として7本で示した。
 倭の北岸から對馬国までの方向は書いていないので、對馬国から1千里の半円を書いた。
 半円とほぼ交わる鎮海湾が測り始め即ち「始度」とされた地点であろう。
 「度」は度量衡の度で、長さの基準をいう。渡る。超えるという意味をあり、海を渡る意味もかけているのだろう。
 對海国は對馬国で対馬、一大国は一支国で壱岐というのは論争は無いだろう。


 對馬国から南へ「瀚海」という海を渡ると1千里で一支国に着く
 対馬と壱岐に先ほどと同じ1千里の線を引く。
 以上で狗邪韓国の岸(倭の北岸)から壱岐までは2千里である。
 
 次に壱岐から海を渡って1千里で末盧国に着くという。
 方向が書かれていないので、壱岐を中心に1千里の半円を書いてみた。
 さて、末盧国はどこだというのだろう。
 末盧国から東南へ陸行で5百里で伊都国に着く。
 とりあえず1千里の半円と交わるところから1千里の半分の線を東南の方向で引いてみた。
 いったい、伊都国はどこだ言うのだろう。
 壱岐から1千里にこだわらず、唐津や松浦から線を引いても、東南へ5百里なので、一般的に伊都国と言われている糸島とか怡土郡には全く着けない。方向が違う。距離も5百里も行かないで九州に上陸できる。
 ところが、壱岐から東南へ5百里の線を引っ張ると、ピッタリ糸島あたりとなる。
 
 再度魏志倭人伝の記述を見てみよう。


又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、(省略)。
方可三百里、(省略)。
又渡一海、千餘里至末盧國、(省略)、
草木茂盛、行不見前人。(省略)。
東南陸行五百里、到伊都國、(省略)。


 魏志ではたくさんの倭人語を収集し、漢字で記載しているが、「瀚海」は倭人語ではない。對海国の「海」、一大国の「大」も倭人語ではない。倭人語ではないものをあえて使っている。
 更に末盧国は草木が盛んに茂り、前を歩く人の姿も見えない。そういう状態で、わざわざ舟を下りて、東南へ陸を歩いて5百里も歩くというのだ。
 結論として「瀚海」もあり得ない「陸行」もあり得ない
 だから壱岐から末盧国までの海を渡って1千里はあり得ないということになるのではないか。
 壱岐を中心にした1千里の半円、陸地と交わった地点から東南へ陸行。いずれもあり得ない。末盧国までの距離は架空の距離だと断ずるほかない。
 よって、壱岐から一海、東南へ5百里で伊都国に到達する、ということになるだろう。


図4







 一支国から東南へ5百里の線を引っ張ると糸島に到達する。
 5百里の線を5等分して、伊都国から東南と東に線を引っ張る。

図5

 黄色い線は遺跡地図や地形図を基に各国を示す線だが、これは別に説明する。


 伊都国から東南及び東に引いた1百里の線。
 ほぼ東にあるのが不彌国、その南側にあるのが東南にある奴国である。
 赤い線は1百里では足りないので、1百里の5分の3、60里を付け足したものである。
 切り捨てれば1百里となる。1万2千里の行程から、許される程度のの誤差ではないか。
 私は6奴国は女王国の事で、席田地区、今は福岡県博多区に属していて、福岡空港がある御笠川と高台に囲まれた地域だと考えている。二つ目の29奴国の一部分ともいえる。
 7不彌国は宇美町というよりは、専ら糟谷町あたりが不彌国の中心地だと思う。


 以上のことから、
 狗邪韓国から對馬国まで1千里
 對馬国から一支国まで1千里
 一支国から伊都国まで5百里
 伊都国から女王国まで1百里
 狗邪韓国から女王国までの本当の距離は2千6百里ではないかと思う。


 對馬国の方4百里、一支国の方3百里、一支国から瀚海を渡って末盧国へ行く1千里。
 これらは全て魏志の「自郡至女王國萬二千餘里」を導き出す方便だった。
 何故その必要があったのか。
 それは、後漢書の「其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里。去其西北界拘邪韓國七千餘里。」という歴史的記述を否定しないためだと思う。
 後漢書の記述は、楽浪郡から狗邪韓国までの7千里に、当時の倭人が言うままに5千里を足して1万2千里としたのだろう。
 この1万2千里のうち、狗邪韓国から5千里の道順距離を出す為に、魏志倭人伝の作者である陳寿が知恵を絞ったのだ。
 本来は島の面積であるものを、字を違えて「對海國」「一大國」として面積の一辺を2倍に計算する。存在しない「瀚海」、どこだか確定できない末盧国、しかも前も見えないような草木が茂った道を歩く伊都国への行程を加える。
 あたかも舟と陸路の行程で1万2千里を出せるようにしながら、実際にはもっと短いのだということを暗示していたのだろう。




 次に投馬国及び詳細を書かれなかった国の検討をしよう。


南至投馬國水行二十日(省略)
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月(省略)
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國次(省略)次有邪馬國次有(省略)次有奴國此女王境界所盡
其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王


 南に舟で20日で投馬国に着く。
 魏志倭人伝は邪馬壹国の紹介をしている。
 当然、投馬国は邪馬壹国の構成国である。
 陸行と書いていないので、舟でしか行けない飛び地なのだ。
 女王に属していない狗奴国を通りぬけることができなかったのもあるだろう。また、山がちな陸路を歩くより舟だけで行った方が効率よく行けたのだろう。
 投馬国は南西諸島への玄関口であったと思う。


 「南至邪馬壹國女王之所都」
 南に行けば邪馬壹国の女王の「都」する所。
 この「都」とは何か。
 辞書を引くと①天子の居城の有る所。②にぎやかな大きなまち。③みやびやか。美しい。③統べる。まとめる。「都督」④すべて。ことごとく。「都度」「都合」
 今までは、①から、天子の居城がある所という意味で「都」は女王卑弥呼が居る所と解釈して、「都」は女王国である、と解釈してきたのではないだろうか。
 しかし、「③統べる。」という意味から女王が統治している所という意味にも取れるのではないか。また「④すべて。ことごとく。」という意味から、邪馬壹国の全ての国々という意味にも取れるのではないか。
 ③と④を合わせて、「女王に属するすべての国々」と訳すのが本当ではないか。
 「邪馬壹国の女王に属するすべての国々」は南に舟なら10日、徒歩なら1カ月の所にあるということだ。


 「自女王國以北其戸數道里可得略載」
 女王国以北の対馬国、一支国、伊都国、不彌国については、距離も戸数とか概略が書いてある。
 狗邪韓国については戸数や概略も書いていないが、「始度」とあるように測り始める出発点である。
 末盧国に付いては、女王国の北側とは言えないが、架空の距離が記載され、概略も書いてある。
 投馬国は女王国の北ではなく、行程は日数であって里数ではないので、女王国以北の国には入らない。


 「其餘旁國遠絶不可得詳」
 以上の国以外は遠いし、詳細を書けばとんでもなく長くなるので詳細の記述は控えたのだろう。「以下詳細省略」ということだろう。この文章に続き、各国が羅列されている。




 「(省略)此女王境界所盡」
 各国の羅列のあとに、ここまでが女王の境界なのだ、と言っている。
 これら羅列された国々が、舟なら10日、歩きなら1カ月の範囲にあるという事。


 「其南有狗奴國(省略)不屬女王」
 そして、境界の南側には狗奴国があって、女王に属していない。


 ではこれを地図に落としてみよう。


図6

邪馬壹国は、狗邪韓国、対馬国、一支国、投馬国のほかは、福岡平野と築紫平野にある。
①は航路10日
②は陸路1カ月。
 旅行で行くわけではない。道具を運んだり、米を運ぶために陸路を行ったはずだ。直線的に進んだとは思えない。しかも、道が整備されているわけでも、旅館があるわけでもない。食事の用意も自前かも知れない。距離にして200キロ前後だと思う。馬も車もない時代、1日10キロ程度でも成り立つのではないか。
③は狗奴国(熊本)と邪馬国(みやま市・大牟田市等)の間の境界。
④は①から続いて投馬国へ向かう航路20日。


 以上、全ての国について地図に落とし込み、倭人伝の記述と比較してみた。
 矛盾があるだろうか?
 ポイントは邪馬壹国は日本国と同じく全体の総称。
 狗邪韓国、対馬国・・・奴国は邪馬壹国の構成国
 女王国は奴国の一部ともいえる席田。東京都の皇居みたいなことだと思う。
 1万2千里を出す為の方便が使われている。実際の距離は狗邪韓国までは7千里だが狗邪韓国の岸から女王国までは5千里もなくて2千6百里。
 投馬国は飛び地。
 狗奴国との国境までは舟なら10日、徒歩なら1カ月。




 国であるならば、近接する位置にあるはずだ。構成国の国々が飛び飛びに存在するはずがない。魏志に「其地無牛馬虎豹羊鵲」と書いてあるように、牛も馬もないので車もないだろう。そのような弥生時代に、飛び飛びの地であれば関係性は保てないだろう。
 構成国を論ずる場合にはある程度の順序で書かれるだろう。例えば南から順、北から順など。
 邪馬壹国各国を論ずるなら、遺跡と地形図を照らし合わせて考えるべきだ。白地図ではイメージが湧かない。山の上は縄文時代石器時代の遺跡はあるが、弥生時代の遺跡はほとんどない。弥生時代は平地で農業、米作りする時代だ。これも遺跡地図をマッピングすることにより気づいた。
 米作りには平地が必要だ。手がかかる。集団で行動する必要がある。米は貯蔵できるのでその管理も必要だ。一方縄文時代のように、木の実を食べたり、狩をするには山中のほうが暮らしやすい。少人数の方が効率がよい。
 築紫平野や福岡平野にたくさんの遺跡がある。地形や遺跡の存在により地域を分けてみると、もしここに百か国あったら、同じ河川を使うこともあるだろうし、物理的に山や川に隔てられていなければ、争いが起きても不思議じゃないと感じる。倭国大乱があっておかしくない。後30国程度になったのも不思議ではない。
 
 邪馬壹国があまりにスケールが小さくで意外だろうか。
 じっくり地図を見ていると、そんなに狭いわけではないと気づく。
 弥生文化は九州北部だけじゃなく全国にあった。当然奈良や出雲にもあった。
 それらが全部統一王朝のもとで統治されることは可能であろうか。
 道も整わず、馬や車もない。通信もない。海や川を渡るに舟があっても上陸したら徒歩。
 それぞれの地域で弥生文化が緩くつながっていたのではないか。
 ただ、物理的に中国に近い邪馬壹国が国として中国と外交を行い、記録されたということだろう。


図7 弥生時代の遺跡

 邪馬台国論が100あったとしよう。
 そのうち一つが正しいとしよう。
 すると、過去の邪馬台国論は間違っていると指摘するのは99%正しい。
 これから出て来る邪馬台国論が間違いだと指摘するのは99%正しい。
 そんな中でする邪馬台国論。
 過去の自分の思っていた見解とも違っていた。
 人は納得しないだろう。邪馬台国論には利害もある。
 自分が思っていた疑問は全て解決し、自分を納得させるものが出来た。
 満足である。



邪馬壹国(1狗邪韓国2對馬国3一支国4末盧国5伊都国6奴国(女王国)7不彌国8投馬国)

2024-10-14 08:40:42 | 邪馬壹国
邪馬壹国
 遺跡地図等を基に弥生時代の遺跡をマッピングし、各国の形を割り出し、国土地理院の地形図に落とし込んだ。また、上古音を使い発音を再考し、倭人語(弥生の言葉)を使って意味も考えた。

1狗邪韓國:クヤ[奇因゛ku yau ]

 狭義の任那は、任那地域に在った金官国(現代の慶尚南道金海市)を指す。
 伽耶(かや、伽倻または加耶とも)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょこく)は、1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国々を指す。
 1世紀中頃に中国正史の『後漢書』の「其西北界拘邪韓國」、魏志の「其北岸狗邪韓國」で狗邪韓國(慶尚南道温金海市)と弁韓諸国と呼ばれる小国家群が出現している。後に狗邪韓國(金官国)となる地域は、弥生時代中期(前4,3世紀)以後になると従来の土器とは全く異なるる弥生式土器が急増し、これは後の狗邪韓國(金官國)と繋がる倭人が進出した続果と見られる。
 図1


 上古音では「kug ŋiagクグ ニヤグ」、従来の読み方では「くや」
 [奇ku]不思議なる変化[因゛yau]いよいよ、更に。意味は「韓地方のいよいよ不思議な国」といった意味だろう。
 伽耶(かや)国と音が似ているので狗邪韓国と特定する。
 對馬まで1千里の測り始めである「倭の北岸」は鎮海湾と推測する。
 ちなみに、任那はユマ仮名ではミマナ[実増成miu mau na]で、 物をどんどん集積して行く共同域という意味。

 「増mau]は倭人を象徴する音でもある。倭人天族の出身はヤマイト[因゛増親充yau mau iu tou]であり、意味は山の仲間。アマ[天真a ma]であれ、ヤマ[因゛増yau mau]であれ、マ(ma,mau)は自分たちの仲間であるという象徴的な言葉となったようだ。
 沖縄の南の端ヤエヤマ(八重山)、ケラマ(慶良問)、琉球はイルタマ、カケロマ、奄美、天草。彼ら天族の存在を示す地名が対馬暖流に沿って一列に並んでいる。


2對馬國:ツマ[積増tu mau ]

 魏志倭人伝では「對海國」だが對馬(対馬)で異論はないだろう。

 上古音では「tuəd mag トゥアド マーグ」、従来の読み方では「つしま」
 [積tu]積み上げる[増mau ]増加する
 意味は「積み上がったといういことで島をあらわす」のだろう。
 もう一つの解釈としては、プタツ[震゜垂積pu ta tu]、つまり「ふたつ」が省略されて[つ」だけになった。漢字の對馬の對(対)は二つを表すので「プタ」が省略されたのだろう。
 本来は「斯馬國」と同じ「斯」が使われ「對斯馬」であったかも知れない。倭人語の収集には足りているので「斯」が省略されて「對馬」になったのかも知れないとも思う。各国の名称はたびたび省略されているように思う。「對海國」とされているのも「馬」は何回も使われ倭人語収集では足りているので、違う文字「海」を使って別の意図(面積を距離とする等の暗号)を表すことにしたのかも知れない。


3一支國:イキ[緒岐yiu ki ]

 一支は壱岐。これも異論はないだろう。
 上古音では「・iet kieg イエット キエグ]、従来の読み方は「いき」
 [緒yiu]始まり・糸口[岐ki]際立つ。「海を渡る始まりの際立っている島」という意味はだろう。
 魏志倭人伝では「一支」の「支」を「大」に替えて「一大国」としている。
 明らかに間違っている。對馬を對海と記載しているのと同じく、明らかに間違った字を使うことにより、「對馬」と同じく別のことを示唆している。
 「瀚海」を渡って壱岐に着くことになっているが、瀚海という名の海は無い。瀚海も特別な意味を持つと私は考えた。詳しくは「女王国への1万2千里」に書いた。
 倭人伝に各国名、人名を沢山記載している理由は、倭人語を収集し残す為だと思っている。「馬」も「支」も各国名や人名・官職名に何回も使われているので、倭人語の収集には支障が無いので文字を入れ替えてメッセージとしたのだろう。對海の「海」・一大の「大」・瀚海の「瀚」。どれも倭人語ではない。


4末盧国國:ムラ[醸躍mu ra]

佐賀県唐津市が該当する。
柏崎遺跡群、宇木汲田遺跡、菜畑遺跡などがある。
唐津東松浦地方で、弥生文化の中心は、松浦川、宇木川、半田川流域である。
 図2


上古音では[ muat hlag ムア ラグ]、従来の読み方は「まつろ」
ユマ仮名の意味は[醸mu]醸す・増殖・発展[躍ra]最大動作・躍動する。「発展している国」という意味だろう。
 松浦川が流れ、「ムラ」は「浦」に対応すると思う。音の類似により末盧国と特定する。
 松浦郡は末盧国の末を「まつ」と読んで松浦郡としたのだろう。
 魏志では「濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之(人々は浜と山海に暮らしている。草木が繁っていて、道を歩くと前が見えない。人々は魚やあわびを捕えることを好み、水の深浅は関係なしに潜ってそれらを取っている。)」と紹介している。
 地形を見ると山がちで、川沿いにわずかの田はあるが、漁の方が主体となるだろう。また、港としての中継地であったかもしれない。隣の国(伊都國)は山を隔てたところにあり、道が整っているとは思えない弥生時代に、山を徒歩で行くより、舟で海沿いを行く方が合理的だったろう。
 魏誌倭人伝では「東南陸行五百里到伊都國」とあるが、伊都國は末盧国の北東にあり
1百里から2百里位の距離にあり、倭人伝の位置関係とは異なる。これは、「海」「大」「瀚」の字が暗号となっていると考えている。詳しくは「女王國への1万2千里と真実の距離、邪馬壹國の地図」の記事に私の見解はまとめてある。


5伊都國:イタ[親垂iu ta]

糸島市及び福岡市西区が該当する。
今宿五郎江遺跡、平原遺跡、三雲南小路遺跡等がある。
 図3


上古音では[・Iər tag イア タグ]、従来の読み方は「いと」
ユマ仮名の意味は[親iu]親しみ[垂ta]溢れる、「親しみ溢れる国」という意味だろう。
筑前国怡土(いと)郡との発音の類似により伊都国と特定する。
伊都の「都」は上古音ではtagだが中古音ではto、現代音ではtuと発音する。
よって、伊都は「いと」が一般的だが、「いた」と読む方が正しいと思う。
弥生時代は海が入り込んで島状だったかも知れない。
池田秀穂は「日本曙史話」の中で、イト「親充iu tou」として「仲間の国」としているが、イタ「親しみ溢れる国」であっても特に大きく意味は違わないと考える。


6奴國(女王國):ナ[成na ]

福岡市博多区席田地区、福岡空港地区が該当する。
席田遺跡がある。
 図4


 席田村(むしろだ)は、福岡県筑紫郡にあった村。旧・筑前国。福岡市へ編入され、現在は博多区・東区、糟屋郡志免町の一部となっている。
 福岡空港の滑走路の真下には、上牟田遺跡、席田平尾遺跡・下月隈遺跡が福岡県の遺跡地図に載っている(下図赤△)。が、調査されていないようだ。戦前から空港として利用され、今は福岡空港の真下にあることから、発掘調査は今後ともされないだろう。年代不明、遺物不明であるが、その周りの席田地区には沢山の弥生遺跡が発掘されている。
 御笠川とその東側の小高い山に囲まれた福岡空港のある席田地区は、席田郡という他の郡と比べ非常に小さな郡であった。なにか特別な郡なのだろうと以前から思っていた。そのサイズ感は女王國にふさわしいと考える。魏志には「東南至奴國百里」「東行至不彌國百里」と書いてあり、伊都國・奴国(女王国)・不彌国の位置関係もピッタリである。
 図5 福岡空港付近の遺跡地図。


 席田はユマ仮名で書くと、ムチロタ[醸育移垂mu tiu ro ta]。
 [醸mu]醸し出す[育移tiu ro]育てて行く・知らせる、という意味から、政治するという意味になった。知ろす、知ろしめすの語源。[垂ta]溢れる。
 席田は「政治が行われる地」との意味に取れる。
 [成na]は秩序整然という意味がある。
 藁(わら)で編んだむしろ(蓆、莚)は当時高貴な人が座る場所だったはずだ。卑弥呼が座るにふさわしいと思う。
 6奴国(女王国)としたのは、魏志の説明で奴国まで1万2千里に対応したものである。奴国全体は29番目に記載された奴国であり、6奴国(女王国)は29奴国に含まれると考えている。
 例えば、日本国の天皇の皇居があるのはどこかと問われれば、千代田とは言わないで、東京と答えるだろう。邪馬壹国と日本国を対比すると次のようになるだろう。
 邪馬壹国:日本国
 奴国:東京都
 女王国(席田):皇居(千代田)
 邪馬壹国の女王国はどこか書こうとしたら、席田と書いても通じないので、奴国としたのだろう。結局は二つの奴国が記載され、これが混乱の基だと思う。わざと混乱するように書いたのかも知れない。その理由は、本当の距離をぼかしたかったのだろうと思っている。


7不彌國:プミ[震゜実pu miu ]

 宇美町、糟谷町、福岡市東区が該当する。
 江辻遺跡等がある。
 図6

 南側に福岡県糟屋郡宇美町宇美があり、宇美川が流れている。
 宇美町自体には遺跡が少ない。中心部は粕屋町のあたりだろう。
 福岡市東区も含むと思われるが、点在する島だったかも知れない。
 遺跡の状況から宇美町まで大きく海が入り込んでいたように思う。
 上古音では[pIuəg mier ピウッグ ミアー ]、従来の読み方は「ふみ」
[震゜pu]第二[実miu]身。奴国の分身という意味だろう。
 発音の類似性から不彌国と特定する。

8投馬國:トマ[保増to mau ]


 南さつま市と日置市が該当する。
 松木薗遺跡、下小路遺跡、入来遺跡などがある。
 図7

 吾田(アダ・アタ・阿多)は鹿児島県西部の古い呼び名である。
 古代には万之瀬川流域を中心とした薩摩半島西南部は広く阿多と呼ばれた。今で言う、南さつま市全体と日置市吹上町を合わせたところを阿多と言った。
 阿多のタと[保増to mau ]のトとの類似性から投馬国と推定する。
 上古音では(dug magドゥグ マーグ)
 ユマ仮名の[保to]は戸の意味。イタルマ(沖縄)、カケロマ等の南西諸島への玄関口。又は、トマリ(泊)から船の係留所とか宿の意味などが考えられる。[増mau]は倭人の存在を示すと考えられる。従来の読み方は「とうま」である。
 当初薩摩の語感から投馬国になると思っていたが、薩摩という言葉は702年(大宝2年)に日向国から分離したのが薩摩の始まりであるとのことで、日向国以前には阿多(吾田)と呼ばれていたとのことである。
 魏志倭人伝には「南至投馬國水行二十日」と書かれていて、奴国から舟で20日の所にある邪馬壹国の飛び地であると考えた。また、陸路の記載が無いのは、奴国との間には女王に属さない狗奴国(熊本)があり、陸路では行けなかったであろう。南西諸島、更には中国との交易に欠かせない地だったのではないだろうか。土地の状況を見ると、平地で水田と言うよりも交易が中心だったのではないかと思っている。もしかすると造船もあったのかもと想像している。
 倭人伝には「五萬餘戸」との記載があり、交易等に従事して人口密度が高かったのか、それとも、もっと広い範囲を指すのかは検討中である。



邪馬壹国(9斯馬国・10已百支国・11伊邪国・12都支国)

2024-10-14 08:37:02 | 邪馬壹国
9斯馬國:シマ[静増si mau ]

 佐賀県武雄市、大町町、江北町、白石町、嬉野市、鹿島市が該当する。
 椛島山遺跡、茂手遺跡、納手遺跡、釈迦寺遺跡などがある。
 図8

 肥前国杵島(きしま)郡は、古くは肥前国風土記、延喜式などに見えて、和名抄では「岐志万」と記してある。
 魏志倭人伝に書かれた遠絶地の最初に記載されているのは9斯馬國である。私は遠絶地は築紫平野あると思っていた。水田に適した平地がある西の端。そこに杵島という地名を見つけた。9斯馬国の次は10已百支国であり、私流の読み方では「イオキ」、今までの読み方では「しおき」という。小城(おぎ)市の発音に近い。杵島郡・小城市と築紫平野の西の端から順番に並んでいることで、私はここが遠絶地の9斯馬國、10已百支国であると確信をもった。
 斯馬国は杵島とくらべて「き」が無いが、これを補えば「支斯馬」であると思う。倭人語の収集の観点から、繰り返し使われる「支」は省略しても構わないと判断されたのではないか。
 よって、杵島の地名から斯馬国はであると特定した。
 上古音では[sieg magシエグ マーグ]、従来の読み方は「しま」
 [静si ]まばらな所[増 mau ]増加する
 [増 mau ]は2對馬で説明したとおり、倭人の存在を象徴する音であるので、この場合、倭人(天族)のまばらな所(だった)という意味となるだろう。


10已百支國:イオキ[厳覆岐yi wo ki ]

 小城市及び佐賀市のうち嘉瀬川の西側が該当する。
 土生遺跡、布施ヶ里遺跡、生立ヶ里遺跡、七ヶ瀬遺跡(佐賀市大和町)などがある。

 図9

 七ヶ瀬遺跡では佐賀県内で初めて「三種の神器」がセットで発見されたというので、重要な所だったのだろう。
 三日月町一帯はは肥前国小城(おぎ)郡甕調郷であった。甕調は「美加豆支」、「美加都岐」と記しているものもある。みかづき、又は、みかつきと読むのであろう。
 小城は古くは「をき」と読んだ。小城の地名は、肥前国風土記にある土蜘蛛が防御に利用した「堡(おき)」(砦(とりで))に由来するといわれている。
 「をき」の地名と「オギ」の類似からを已百支国と特定した。
 iwoki⇒woki⇒oki⇒ogiのような変化があったのだろう。
 上古音は(diəg pak kiegディグ パク キエグ)。従来の読み方は「しおき」
 発音は素直にユマ仮名を当てはめることはできないと思うが、他の文字との関係を勘案して、どうにか成り立つのではないかと思う。ディパキ、イパキ、イオキ。
 [厳yi]鎮座。存在を表す[覆wo]覆う[岐 ki]際立つ。
 存在、居場所を土で覆った砦を作り、際立っていた、という意味であろうか。


11伊邪國:イヤ[親因゛iu yau ]

 旧佐賀郡に属す範囲で、嘉瀬川と城原川に挟まれる地域である。現在の佐賀市、神埼市が含まれる。
 広範囲に遺跡があるが弥生後期の大きな遺跡は無いようだ。放置されることなく使われ続けて遺跡が破壊されているのかも知れない。
 図10


 類似の地名が見当たらず、国名の根拠を特定の地名に求めるのは無理なようだ。
 場所的には、ここが伊邪国にならないと、後が続かない。
 上古音では(・Iər ŋiagイア ニヤグ))、従来の読み方は「いや」
 [親iu]親しみ [因゛yau]いよいよ、更に、益々
 (奴国)と益々親しい国、となるだろうか。


12都支國:タキ[垂岐ta ki]

 多久市が該当する。
 茶園原西畑遺跡、他、多久遺跡群を構成する遺跡がある。旧石器時代から弥生時代の石器が多数出土していて、サヌカイトという刃物への加工に適した石が取れる。鬼の鼻山北麓一帯に40カ所以上ある。
 図11

 旧地名は肥前国小城郡多久(たく)村。多久郷は古くは高来(たかく)郷といった。
 発音の類似から、都支国とした。「都」は上古音ではtagだが中古音ではto、現代音ではtuと発音する。もっとも一般的な伊都国の読み方は「いとこく」だが、卑弥呼の時代は上古音が使われている時代であり、「都」はタと読みべきだと結論した。
 上古音では(tag kiegタグ キエグ )、従来の読み方は「とき」
 [垂ta]溢れる[岐ki]際立つ
 際立ったもの(サヌカイト)が沢山産出するところ、という意味になるか。
 9斯馬国、10已百支国、11伊邪国と並んでいたが、その列からちょっとだけ外れていた12都支国をちょっと戻ってここで記載したのだろう。



邪馬壹国(13彌奴国・14好古都国・15不呼国・16姐奴国・17對蘇国)

2024-10-14 08:36:36 | 邪馬壹国
★神埼地域 旧神埼・三根郡に属す範囲で,佐賀県神埼郡神埼町,千代田町,三田川町,東脊振村,中原町,三養基郡上峰村,北茂安町,鳥栖市西部が含まれる。

⑬彌奴国
 ユマ仮名:ミナ[実成miu na ]
 一音毎の意味:本質・身・実・見。秩序整然。
 上古音:mier nag ミアー ナグ ※従来の読み方:みな

吉野ヶ里(よしのがり)遺跡:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手(たで)
舩石(ふないし)遺跡:佐賀県三養基(みやき)郡上峰(かみみね)町堤(つつみ)

 吉野ヶ里遺跡の東隣が上峰町であり、三根(みね)郡に属していた。神埼郡三根郷は神埼郡三根村を分郡して成立した。場所は神埼駅の西側の城原(じょうばる)川流域。
 城原川の三根郷から上峰町あたりまで吉野ヶ里遺跡舩石遺跡を含む一帯はミネと呼ばれていたと考えられる。よって、「ミ」つながりでミの奴国、彌奴国と特定した。
 奴国は秩序整然とした国という意味になるが、邪馬壹国には沢山の奴が付く国がある。西○○とか新○○とか出身地名とか関係性を強調するために同じ名前を使うことが現代でも多くある。これもそのたぐいだろうと思う。
 ミネのネは倭人語ではネ[根nai]は秩序転換。ミネは本質の秩序転換。なんと解釈してよいかはわからない。



★小郡・鳥栖地域 筑前・肥前・筑後の三国地域で福岡県筑紫野市南部,小郡市,佐賀県鳥栖市東部を含む。将来的には鳥栖市地域で独自の地域圏をつくる可能性もある。

14好古都国
 ユマ仮名:ポカタ[穂゜威垂po ka ta ]
 一音毎の意味:分霊。偉大な変化力。溢れる。
 上古音:hog kag tag ホグ カグ タグ ※従来の読み方:こうこと

姫方(ひめかた)遺跡:佐賀県三養基(みやき)郡みやき町簑原(みのばる)姫方

 姫方とユマ仮名の「カタ」が一致したので好古都国と特定。
 ポカタの意味は分霊の力が溢れるところ。霊場っぽい雰囲気がある。ポは姫君の分霊だったかも知れず、後世、地名に漢字を当てる時、霊場っぽい名前を嫌がり、ポの替わりにヒメを当てたのではないか。または、近くにある三養基郡上峰町上峰町坊所(ぼうじょ)には古代皇族の都紀女加(つきめか)王の墓がありその連想かも知れない。
 佐賀県鳥栖市にも姫方町というのがある。姫古曽(ひめこそ)神社があり原初祭神は織女神(たなばた姫)ということで、その連想で、姫方としたのかも知れない。



⑮不呼国
 ユマ仮名:プホ(コ)[震゜子pu xou ]
 一音毎の意味:自然意志力の発動。二。二世。
 上古音:pIuəg hag ピウッグ ハグ ※従来の読み方:ふこ

藤木(ふじのき)遺跡:佐賀県鳥栖(とす)市藤木町字北浦(きたうら)

 ユマ仮名の「プ」と藤の木の「ふ」が一致するので特定した。
 [子xou]は喉音でホともコとも聞こえるような音。
 「木」も木っ端と読めば「コ」となるかも知れない。
 プには2の意味もあり、第二の子供の国、と解釈できるだろうか。
 鳥栖駅のすぐそばにある。



⑯姐奴国
 ユマ仮名:チナ[少成tsi na ]
 一音毎の意味:小さい。秩序整然。
 上古音:tsiag nag チアグ、 ナグ ※従来の読み方:そな

油比(ゆび)丘陵遺跡群:佐賀県鳥栖市油比(ゆび)町・今(いま)町・田代(たしろ)本町、弥生が丘(やよいがおか)
安永田(やすながた)遺跡:油比町字安長田

 いくら探してもユマ仮名のチに相当する地名は見つからない。しかし、この遺跡群はかなりの大きさである。相当な勢力があったに違いない。
 そこで気づいたのが奴国。チの奴国。ユマ仮名のチ[少tsi]は小さいことを意味する。小さい奴国。なにか腑に落ちた。



⑰對蘇国
 ユマ仮名:ツサ[積爽tu sa ]
 一音毎の意味:積み上げる。何もない・神聖。
 上古音:tuəd sag トゥアド サグ ※従来の読み方:つそ

三沢(みつさわ)遺跡:福岡県小郡市三沢

 三沢の隣には小郡市津古(つこ)がある。
 ツサと「ツ」が共通している。また、津古という地名が日本語の意味をなしていないので、古来の言葉を漢字にしたものだと判断できる。對蘇国と特定。
 ユマ仮名の解釈では、積み上がった神聖なところ。