砂石のメモ帳代わり

自分がやりたいように思考回路をまとめるだけのブログです。

最近サボっていた理由についての言い訳とこれからについて

2023-12-24 16:15:26 | 日記

こんにちは、砂石です。

ここ一ヶ月まったくブログ更新をしていませんでした。申し訳ございません。

仕事とか色々忙しかったのもありますが、一番の理由は「創作活動に没頭していた」ことです。高校の頃に小説を書いていたことがふと懐かしくなり、書き始めてみたら思いのほか楽しくてついハマっていました。そのためブログのことなんて頭からすっぽ抜けていました……笑

このブログを始めたことをきっかけに色々と思い出すことが多かったです。文章構成から、イラスト、小説を書くこと、と次々に頭の中でスパークするように次から次へと連鎖して、徐々に自分がやりたかったことを思い出してきた気がしました。自分は何か創作をしているときが一番生き生きしているのではないか、新しい作品を生み出せない内の自分はもはや死んでいると言っても過言ではないのかもしれない……と。

そこまで気がついた時、自分がブログを介して勉強家アピールをしようとしていたことは自分の本質と異なるのではないかと気がつき始めました。頭が良い人間で居ることも大事ですが、楽しむことこそが自分の中で忘れてはいけない感覚なのだと思うことも増えてきました。自分が今まで感じてきた感覚も、勉強してきたことも活かせる方法としてそもそも創作活動に使えるネタ探しに始めたことでした。

なので、くそ真面目にやろうとしていた自分が急激に恥ずかしくなり、このブログの存在意義も変えなければならないのかな、とも考えています。

別にもともと評価されようとしてやっているわけではないのですが、自分がいい大人としてやっていると言い聞かせるために書いていた節がありました。ですが難しいことを考えたとしても自分の根底に或る考え方とは大きく違うので、義務感に駆られてやっている感じがあったんですね。

ブログを続ける意味を見いだすことはまだ不透明ですが、とりあえず今まで見たいな謎哲学とか勉強方法のまとめとか、そういったことはなるべく抜きにして色々まとめていきたいと思います。

というか小説で使えそうなネタを自分の中に整理するためのブログとしてこれからはやっていこうかな。


勉強方法

2023-11-29 16:53:20 | 日記

こんにちは。砂石です。

一番最初の記事の中で「勉強方法について見つめ直す」という内容について書き記しました。しかし、これまで書いてきた記事において勉強方法に直接関連した内容はなく、自分自身の現状をアウトプットできていないのではないか?と疑問に感じます。
現状のレベルが主観的にも、客観的にも判断できずただ偉そうな言葉の羅列を述べているに過ぎません。そのため、今自分がどのような勉強方法をとっているのか、軽く記事にしたいと思い立ち今こうしてパソコンに向き合っている所存です。
ただインプットのみでアウトプットをしないのは、ブログを始める前にやっていたことと大して変わらず目の前の変えたい本質から逃げているだけではないのだろうか…とネガティブな方面に思考が陥りがちで自己否定が多いですが、これも今後の自分の課題ですね。
2つ目の記事でもインプット・アウトプットについて軽く触れました。今はそれに際した内容をまとめている最中であり、それを投稿します。
↑が現在行っているまとめ方であり、簡単に私がこのまとめ方の中で工夫している点について話していきます。
①ただ書かれている文章をまとめるのではなく、自分なりの解釈を書き記す
そのまま書いている文章を模写するだけだと、字を書く練習にしかならず、自分の記憶に留まりにくいです。何度も復唱することで記憶として定着する、とも書かれていますがなるべくスムーズに自分の頭の中に定着させるため自分の言葉で言い換えるとどうなるか?ということを考えながらまとめるようにしています。
この際になるべく行っていきたいことは、「他の知識と関連させることの出来そうな言葉を選ぶ」ということです。例えば右半分側の「広げると深める」の項目では「マインドマップ」と連想させてメモを取るようにしています。単体で記憶することが苦手なので、他の何かに似たものにイメージすることで覚えるように意識しています。
②何でもいいからコメントを書く
解釈することも大事ですが、何か自分の感じたことなどをメモしておくようにしています。というか何なら落書きでもいいです。
後々で読み返したときに「今の自分ならこんなことを書くな」とか楽しく後付できるように書き記しておくと、印象に残りやすいんじゃないか、と思っています。私は小学生の頃絵を描くことが好きでいろいろなオリジナルキャラクターを生み出していたのですが、後々で見返して「今の絵柄で描いたらどうなるんだろう」ってリメイクすることが好きでした。
今現在意識していることはこの2つです。文章中にマインドマップという単語が出てきましたが、今後はメモの取り方の中にもマインドマップを活かせるようになりたいですね。
一つの方法とらわれることなく試験的に試していきたいと思います。
今回はここまでにします。それでは。

ただ自分の考えを並べただけの脈絡もない文章

2023-11-24 09:31:37 | 日記

こんにちは、砂石です。

いくつか前の記事で転職活動を試している、と書きましたがその過程の中で気づくことが多かったのでまとめようと思います。

自分は社会人として経験を積んできたからある程度のことは毅然と答えられるだろう、と正直なところ嘗めていた部分がありました。現実を直視せず、空想の中にいる自分に全て身を任せていた。でも、実際の面接では掘り下げられて突っ込まれたときにしどろもどろになって何も答えられなかった。結局のところ、自分は社会人として上辺だけ変わっただけで根底は学生時代の自分と何も変わっていないのかな、と考えるきっかけになりました。

学生時代から何とかなるだろう、と楽観的な部分がありました。日々研鑽に励んでいるなら実際何とかなったのかもしれませんが、私の場合はあまり困難に直面することなくのらりくらりと生きてきた節がありました。けれども実際に何とかなってきてしまったため、自分自身は頑張っていない事実から目を逸らし続けることが出来ました。

けれども、実際社会人になってからその「何とかなるだろう」がまかり通らない現実に直面しました。なんとなく、ではどうにもならない現実。常に他人というか環境任せだった自分には、「環境を変える力」というものが育っていなかったのかもしれません。

失敗しない程度にしか人生経験を積んでこなかった自分が初めて大きな失敗に直面したとき、「成功は失敗経験に比例する」と考えるようになりました。そもそも失敗、もといチャレンジを避けてきた自分にはその能力に欠けていたのです。そして失敗することを避けてきた影響で、仕事で何か新しいことをすることに対して異常に恐怖を感じるようになりました。新しいことにチャレンジして何かあれば全て自分の責任。前を向くのが怖く、後ろばっかり向いて、ただ安全なところで居たい。そう思うことが増えていた自分が居ました。そんな自分自身に嫌気が差して転職活動を始めたいいものの、ここでも「なんとかなるだろう」精神が自分を覆い被していたことに気がつきませんでした。自分はこれだけ社会人としてやってきたんだから、そう思えるだけの経験を本当にしてきたのかな。そう思えるだけのチャレンジを重ねてきたんだろうか、と今になって思います。私が見ていたのは幼い頃に見ていた空想の自分であって、現実の自分ではなかった。

生きていくだけなら何も苦労はないけれど、そこにあるのは主体性のない自分だけ。それって本当に昔自分が夢見た自分だったのか。答えのない答えをずっと堂々巡りで探しています。今やっていることも、自分が何かをチャレンジするための壁を探しているだけなのではないか、と今の自分さえ否定してしまいたくなることばかりです。

ただ運良く環境の中で生き抜いてきた自分には、「主体性」というものが欠落しています。自分はこれがやりたい、とかこれがしたい、とかそういったものが足りていないと思うことがあります。何も考えなければ、生ぬるい世界の中で生きていけるけど、前回の記事になぞらえるなら私は既に「死んだ人間」とも言えるんじゃないかな。

正直、ああしていれば、こうしていれば、と何度も帰ってこない過去に対して思いを馳せることはあります。でも後悔したその過去は戻って来なくて、そこにあるのは自問自答を繰り返すだけの自分自身だけ。

これから先、自分はどうしていきたいのかと考えたとき、結局「普通の人間になりたい」という答えが自分の中で一番強く思っていることです。今までの人生、真っ当な選択を拒むことが多く、ゲームの中などでは流行りの戦術などを見かけたときにはまず対策から考えるなど、時代に対して天邪鬼な考えをすることを好んで生きてきました。世間がこういう流れになっているなら自分はこの流れに逆らって生きていきたい。という考えが私の中にはあるのだと。しかし、現実は流れに逆らえば簡単に淘汰されてしまう世界だと気付いたとき、自分はこのままだと生きていけないと薄々考えるようになりました。そこから、自分は世間の流れに対して逆らうのではなく他人に合わせた普通の考え方を、目立たないように、ただそこら辺の村人Aとして存在するべきだと考えるようになったのが、「普通」を目指した根底にあるのだと考えています。

ここまで書いたとき、やはり私は天邪鬼的な考えが性に合っているのではないか、とふとよぎりました。私は世の中の流れに従うことが苦手ならいっそ天邪鬼として生きていくのも一つの方法なのではないか。世間がこうするのが普通だと考えるなら、私はわざとその流れに逆らって動くことがおそらく自分が一番楽しく生きていける考え方だとも思います。

自分の中でいろいろな考え方がよぎります。主体性がないのは、流れに従っておとなしく生きようとしたからではないか。それかただ自分がずぼらに生きたかったのか。それとも自分の本心を殺しているからか。ここまで書いたときに結局自分の中でも答えが定まっていないだけなのではないかと思いました。

最初はただ自分の後悔を書くだけで終わろうとしていましたが、自分の核心に近づくことが出来たと思います。これからしばらくは自分の本心がなんなのか、追求することに専念したいです。

押し殺した自分を呼び覚ますこと、そこから自分のモチベーションに繋がる何かを見つければと思います。それでは、何卒。


生と死の拡大解釈

2023-11-21 11:21:41 | 日記
こんにちは。砂石です。
今回は、私のベースとなる価値観についてお話します。
この記事はただの自己満足を目的としており、他者の理解は求めていないので悪しからず……。

私の場合は、ベースとなる価値観に「生と死」があります。それを元に話をしていきます。
まず、「生」と「死」に関して自分の考えを述べていきます。
ただそのままでは意味が伝わりにくいと思うので、このブログを例えにお話します。

①生とは、「新しくこの世界に認識されること」です。どういうことかと言うと、例えばこのブログを作成した際ネットに公表され、皆さんに認知されました。それが私の言うところの「生」……引いては生まれた、ということになります。そして、このブログを更新し続ける限りは、このブログは生き続けるということになります。
②死とは、「戻ることの出来ない不可逆的な状態」のことを言います。例えば、もしこのアカウントを消去し、ブログの更新が出来ない状況となった時、このブログは「死んだ」と表すことが出来ます。

⬆が主に私の考える生と死の概念ですが、生と死は全くの別物ではなく似て非なるものであると考えます。
どういう事かといいますと、生があるから死がある、ということです。
存在Aが死んだ時、Aが死んだという事実が世間に生まれます。
もし、その死んだ原因が事故等であった時、ある人が事故に対して原因を追求したとします。そうした時、その死によって、『よりよい世の中』が生まれます。
そして、これは私含め、心当たりのある人がいるかもしれませんが「亡くなったニュースを見て初めてその人に興味を持つ」というものがありますね。皮肉なものですが、その人が亡くなって初めて、その人に対する興味が「生まれる」ということもあります。



ここまでは人を介した生と死について話してきましたが、更にこれを拡大解釈している時、ひとつの考えが浮かびました。
「ある知識を得る前の自分と、ある知識を得た自分は果たして同一人物と言えるのか」ということです。
どういうことかと言うと、死についての説明の中で「戻ることの出来ない不可逆的な状態」と言いました。
それに当てはめると、ある知識を持たない自分は死に、ある知識を得た自分が生まれる、ということです。
そして、勉強や努力することによる変化を拒むことは、そうした今までの価値観を持った自分を死なせることを嫌がる、ある意味生存本能によるものではないか、とも。
私も正直勉強は好きではありません。今まで得た価値観の自分が否定されることが怖く、努力することへの抵抗すら感じます。
しかし、その死を乗り越えた先に、「知識を得た自分が生まれる」ためやむを得ず勉強しています……。

今の世の中も、数多の人の死の上に成り立っています。代々の偉人が研究に研究を重ね、新たなものを生み出してきたからこそ便利な世の中が出来ています。
こうして話していると、私も何か新しいものを生み出していかないといけないな、と思います。自分の価値観が誰かの為になるのかは分かりませんが引き続きよろしくお願いします。
それでは。

目を逸らし続けた心の闇

2023-11-18 12:06:18 | 日記
こんにちは、砂石です。
自己紹介したものかと思っておりましたが、設定を確認したところ「ブログを始めました!」のテンプレートのままでした。
プロフィールに情報を適宜追加していこうと思っています。自己分析も兼ねて、ですが。
今は久しぶりに実家に帰省しています。

数ヶ月ぶりかの帰省ですが、やはり実家というのはいいものですね。
馴染んだ環境というのはすごく落ち着きます。自分一人で家事をしていても、ただ自分のためだけに自分のことをしていても何も満たされない。
けど、帰省したら帰りを待ってる人がいる、というのは自分に価値を見出すことが出来て嬉しいです。ここに居ていいんだ、と証明されてる気がして……。
ここまで書いたところで、私は自分に価値を見出すことが出来てないんじゃないか?と思い至りました。
個人プレーが多くて、他人を頼ることが苦手で、誰かといてもどこか一人ぼっちでいるような感覚がありました。

1人で抱え込んできた今の今まで、辛いとか悲しいとか、心の傷を誰にも見つからない部屋の片隅に置いてきたのかも。そうした思いに自覚もしないまま生きてきたんだな、とふと気づきました。
他人から「ここはこうだ」と言われた時に「ああやっぱり自分は間違っていたんだ」と他人の意見を優先しようとする主体性のなさは、そのような自分自身の価値に対する不安から来ていたのかもしれません。
もう少し、「ここにいてもいい」と思えるような自分の拠り所、心の居場所を見つけてあげてもいいのかもしれないです。