当時徴税人であったマッテオの家で主イエズスは仰せられました
医者を必要とするのは
健康な人ではなく、病人である。
私が望むのは
いけにえではなく憐れみである。
私が来たのは
正しい人を招くためではなく
罪びとを招いて、悔い改めさせるためである。
主イエズスとつながるためには
主の憐れみの豊かさを理由に
罪人のまま(罪の状態のまま)であぐらをかいてはいけません
主の憐れみは
悔い改めて、主に立ち帰るものに注がれますが
罪の状態にあるまま放置していたり
罪に執着する自分を変えようとしないままでいること
つまり、外面的に教会に属していても
内面的な悔い改めをしていないなら
自ら、主の憐れみを拒むことになってしまいます
内面的に真摯な悔い改めをしない人々には
主が弟子たちに向けてたびたび繰り返された
次の御言葉が適用されてしまいます
あなたたちも
悔い改めなければ
みな同じように滅びる
主は私たちの心の扉をたたいています
主が求めておられるのは
私たちが、その心の扉の鍵を開ける行為です
その扉の鍵を開ける行為
それが悔い改めです
悔い改めをしないまま死を迎える人は
主が憐れみをもって、あなたのうちに入ろうとしているのを
あなたが拒んだまま
あなたが永遠の世界に入ることを意味します
さらっと言ってますが
それは考えが及ばないほど最も恐ろしいことです
罪がありながら
それらを悔い改めることなく
主を拒んだままで、自分が入る次の世界はどこでしょうか?
天国でしょうか?
悔い改めず、主を拒んだまま死んだ人は行けません
死ぬ直前に悔い改めた善い盗賊は
主から直接、天国確約されましたね
悔い改めることの大切さの代表格です
もう1人の盗賊は
十字架の主のすぐ近くにいながら
悔い改めを拒んで、主に罵声を浴びせました
身体的には主の近くにいましたが
内面的には、主から遥か遠くへ行ってしまう
悔い改めない心の頑なさの象徴となりました
煉獄でしょうか?
煉獄も死ぬ以前の悔い改めが前提ですので
悔い改めず、主を拒んだまま死んだ人は行けません
地獄でしょうか?
悔い改めず、主を拒んだまま死んだなら
そういうことになります
「燃え盛るかまどに投げ入れる」
「そこには嘆きと歯ぎしりがある」
しかも、そこに入ってしうと
それが永遠に続きますから
それはそれは想像を絶する戦慄すべきことです
黙示録では
口が酸っぱくなるほど
『悔い改め』がここかしこにちりばめられています
「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。
それで、あなたはどこから落ちたかを思い出せ。
そして悔い改めなさい」(2,4-5)
「悔い改めなさい」(2,16)
「悔い改めてその業を捨てない限り、
彼らを大きな苦しみの中に投げ入れよう」(2,22)
「悔い改めなさい」(3,3)
「悔い改めなさい」(3,19)
「彼らは悔い改めなかった」(9,21)
「彼らは悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった」(16,9)
「彼らは自分らの行ないを悔い改めようとしなかった」(16,11)
自分には悔い改めが必要ないと思い込んでいる人は
自分が見えていない人
自分を見ようとしていない人
自分というものを土の中にしまいこんで安逸のうちにいる人
外やほかのことばかり見て
自分を大切にしていない人です
神との関係性において
自分を大切にできない人は
他者を真に大切にすることはできません
誰も、持っていないものを
与えることはできないからです
主は、創造の初めから
悔い改めを求められました
旧約においても
天使や預言者たちを通じて
悔い改めを求められました
旧約から新約への移行時においても
主は、洗礼者聖ヨハネの声を通じて
「来たるべき神の怒りから逃れうるよう
悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
斧はすでに木の根元に置かれている。
良い実を結ばない木は
全て切り倒され、火に投げ入れられる。
もみ殻は消えることのない火で焼き尽くされる」
と呼びかけ
悔い改めを求められました
時が満ちた時
主ご自身が肉をまとい人となり
「悔い改めなさい」
と呼びかけ
まず第1に、悔い改めを求められました
主は新約において
使徒たちや教会を通じて
悔い改めを求められました
これら公的啓示に加えて
各時代の私的啓示においても
主ご自身、聖母、天使を通じて
悔い改めを求められました
なぜこれほどまでに
在天の方々は
悔い改めを呼びかけ続けておられるのでしょうか?
それは、地上で今、生きている私たちが
悔い改めないまま死を迎えて
永遠の死に入ってしまうことがないように
つまり、永遠の生命を失ってからでは
取り返しがつかない
死の門をくぐってから気づいても
あまりにも遅過ぎる重大な事柄のゆえに
『地獄』『炎』『うじ』
『嘆き』『歯ぎしり』『火と硫黄』
『燃え盛るかまど』『苦しみの煙は世々限りなく立ち上る』
『魂も体も地獄で滅ぼすことのできる御方を恐れなさい』
との少々ショッキングな表現を用いて
刻一刻と差し迫る個別的現実、永遠に向けて
1人ひとりが霊魂の準備を怠ることのないよう
いつくしみの愛の呼びかけ、愛の警告をして
悔い改めさせて、神に立ち帰らせるためです
愛の反対は無関心です
私たちの永遠がどうでもよかったら
こんな警告は一切出されなかったでしょう
それゆえ
悔い改めの呼びかけは
永遠を見据えた愛にほかなりません
人それぞれに時間が与えられています
その終わりの時は人によってまちまちですので
いつ、自分の最期が来るのかわかりませんから
いつ、自分の終末が訪れてもいいように
悔い改めが必要なのは
来年でもなく、明日でもなく
今この時です
1つひとつの罪を悔い改めて
憐れみの主に心の扉を開いて
永遠の生命に入れる備えをしておきましょう
悔い改めは、救いの土台です
外面的な慈善にうちこんで
人々の賞賛や感心の的になりながら
内面的な悔い改めを後回しにすることほど
霊的に危険なことはありません
悔い改めは、愛です
その愛なしに、なされる外面的善は
ほとんど意味をなさなくなってしまうことほど
もったいないことはありません
主は、外面ではなく
内面をごらんになられます
口先だけで唱えられた1000の祈り(のようなもの)よりも
痛悔の愛と敬虔のうちに心をこめた1つの祈りのほうが
主の聖心にはここちよい香のように受け入れられます
成聖の恩寵の状態にない、1000の善業よりも
成聖の恩寵の状態でなされた1つの善業が
本来的に最も大切であり
死後、その真の価値を知ることになります
主に立ち帰る悔い改めの愛は
あらゆる善業の起算点となるからです
教会人としては
成聖の恩寵の状態での
心をこめた1つの善業でいいというのではなく
成聖の恩寵の状態での
1000倍、10000倍の善業
いやいや1000000倍の善業を目指しましょう
それは、より多くの霊魂の救いに関わることだからであり
救いの協力者とされた私たち1人ひとりの
主から委ねられた愛の責務だからです
自分の罪を見て気づいていながら
見ないふりして過ごすのはやめにしましょう
キリスト者でありながら
悔い改めの愛を身にまとわないなら
主の救いの協力者として働くことも
霊的な効果をあげることもできません
まず、十字架の主の御前に身を投げ出し
いまだ痛悔していない罪、うやむやにしてきた過ち
それらをあらいざらい主にさらけ出して
心からの悔い改めをしてください
思い当たるものがない?
それは糾明不足というものです
表面的な疑似糾明ではなく
ちゃんと深掘りした本当の糾明が必要です
祈りのうちに真摯に綿密で誠実な糾明をしてください
そうすれば、悔い改めるべきものが見いだされます
糾明は霊的なチェックです
チェックをうやむやにしなければOKで
次の段階、痛悔、決心、告白、償いに進むことができます
最初の段階となる
霊的なチェック(糾明)は本当に大切です
それを手抜きしたり怠ったりすると
またやり直し、仕切り直し、といった状況になりかねません
大事な委ねられたものごとをないがしろにしたり
軽んじてうやむやにしてしまうと
後々取り返しのつかないことになりかねません
私たちにとって
主から委ねられたもののうち
最も大事なことはなんでしょうか?
それは
私たちの霊魂です
私たちの霊魂は
私たちのうちに刻まれた神の似姿です
私たちの果たすべき愛の責務は
それを細心の注意をはらって
恩寵の助けに協力しつつ
主が望まれるとおりに形造り
豊かに成長させ
キリストのフォルムに少しでも近づかせることです
また、それにより
キリストの救いの道具因として
自他の救いに自らが役立つものとなり
委ねられたタラントを豊かに増し加えて
後々、神に栄光を帰して
『神のものを神に返す』ことができるようにすることです
これこそ
私たちにおいて
何ものもキリストの愛よりも優先させない神的愛の配慮
私たちにおける御子の似姿を最優先させる神的愛の配慮であり
私たちにおける最重要事項
私たちにとって、永遠の生命に直結すること
私たちが自他にとって
天来のあらゆる祝福の源となるものです
主の訪れを待ち望む人の第一歩は
悔い改めです
悔い改めは
冷えた心に、愛の炎をともす行為です
悔い改めは
私たちを神の愛のランプに変容させる恵みです
悔い改めのうちに
十字架の主の御血に浸されて
「自分の衣を洗い清める人々は幸いである。
彼らは生命の木についての権利を授けられ
門を通って都に入ることができるだろう」(黙示録22,14)
と言われているとおりです
מרנא תא
Amen. Veni, Domine Iesu !
私が来たのは
正しい人を招くためではなく
罪びとを招いて、悔い改めさせるためである。
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