コメント(10/1 コメント投稿終了予定)
Unknown
(
シュンジ
)
2011-02-12 23:20:51
この辺りが、西神田小学校と錦華小学校の境界線になっていて、ウララのお孫さんと梅の湯さんの息子さんは錦華小学校でしたね。
昭和50年から54年まで私の母が通りを挟んで逆側で喫茶店を経営していました。
>シュンジ様
(
流一
)
2011-02-16 12:38:04
昭和50年頃は近所の家の事情はだいたい知っている、というのが普通だったのでしょうか。今のプラーバシーばかり気にして表札も出さないというのとはだいぶ違いますね。
昭和50年代なら喫茶店もけっこう繁盛したのでしょうね。
Unknown
(
シュンジ
)
2011-02-20 03:03:10
当時はまだ専修大学の学生がたくさんいて、ランチタイムとかは大混雑していました。
小学生だったのですが、コーヒー豆の仕入れを手伝ったりしていました。
梅の湯の息子さんは学年が一つ上で、中学の時によく遊んでいましたので。。。
コメントを投稿する
名前
タイトル
URL
コメント
※絵文字はjavascriptが有効な環境でのみご利用いただけます。
▼ 絵文字を表示
携帯絵文字
リスト1
リスト2
リスト3
リスト4
リスト5
ユーザー作品
▲ 閉じる
コメント利用規約
に同意の上コメント投稿を行ってください。
コメント利用規約に同意する
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
昭和50年から54年まで私の母が通りを挟んで逆側で喫茶店を経営していました。
昭和50年代なら喫茶店もけっこう繁盛したのでしょうね。
小学生だったのですが、コーヒー豆の仕入れを手伝ったりしていました。
梅の湯の息子さんは学年が一つ上で、中学の時によく遊んでいましたので。。。