H.ベルクソン『物質と記憶』(杉山直樹 訳) 第一章についての予備的ノート

2021-02-26 04:14:14 | ノート
※本稿はHenri Bergson『物質と記憶』の日本語訳(杉山直樹 訳)の第一章に関する私的検討と所感であり、著書の内容を必ずしも正確に伝えるものではない。
 
 
一章ぜんたいの検討に際し、先立って鍵概念の検討から始める(鍵概念の選別は、本ノートの作成者に由る)。
 
鍵概念リスト
①イマージュ
②行為の器官としての生体
③純粋知覚
④純粋記憶
⑤イマージュの選択
⑥情感
⑦観念論と実在論
 
なお、本稿における翻訳語は、タイトルに挙げた翻訳書のものを全面的に採用した。
 
 
 

鍵概念の考察

 

①イマージュ

 
我々の眼にする諸事物が、現にわれわれに見えるがままに(感じられるがまま、即ちあるがままに)ある、という観点におけるすべての事物を指す語。
③純粋な知覚の観点から、われわれの表象におけるイマージュと主体との隔絶性はじっさいにはなく、われわれは現にあるがままの対象(イマージュ)に触れているわけだが、われわれの生体(構造)が単純でなく、行為に非決定成分が多いため、実在(イマージュ)は(こと哲学的建設に際に)誤解される。(鍵概念②③④⑤を参照)
 
以上より、一見して類似的な東洋哲学的な実在把握とは、知覚の本性への理解から、精確には異なるものであると考えられる。が、考察の幅を広げるためにも、そういった観点は捨てずにおくのも有意義と思われる。
 
 

②行為の器官としての身体

 
生体は、第一に行為の器官であり、認識や表象の器官ではないということ。
単純な生体ほど、刺激に対して反応が自動的になる。これに対し、複雑な生体は運動に非決定成分が多くなる。
生体の反応が自動的であるということは、感受できる刺激・対応する行為・刺激する対象との距離・反応への時間的自由度が限定的であることを意味し(例:原核生物)、たほう、生体における非決定性とは、これらに対する多様性・自由度の高さを意味する。
また、行為は大別して現実的(現勢的)行為潜在的行為とに分かれる。
「(身体イマージュにおける)感覚・情感」は現実的行為であり、「知覚」は潜在的行為である。
 
 

③純粋知覚

 
知覚とは、生体と対象(イマージュ)との接触である。
知覚は、まずその接触面において為される。純粋な知覚では、生体(主体)と対象が一体化する。理論上(権利上)、純粋な知覚においては、生体は自身の構造の限界の範囲内におけるが、対象(イマージュ)のすべての性質を受け取ることができるだろう。
個々の知覚は本来的に独特であるから、知覚は認識主体の機能ではなく、対象(イマージュ)の性質である。
純粋ではない知覚は、純粋な知覚の瞬間において、記憶および情感が混入することによって成り立っている。複雑な生体においては、こちらが平素の知覚である。
 
 

④純粋記憶

 
純粋記憶の本来的定義とは、不在の対象の表象である(101頁)。
記憶(力)についての、詳細な分析は二章以降になされる為、一章ではほんのさわりだけ提起される。
記憶(力)は(純粋な)知覚(イマージュ)に混同し、表象と精神の論理的起源に関係する。
 
 

⑤イマージュの選択

 
生体が環境(イマージュ群)に分け入って適応していく際に、自身の可能的行為を尺度として環境との関係性をつくる。
生体は、自身の行為を環境により適合させるため、より創造的にするために、純粋な知覚(純粋なイマージュ)から、イマージュの選択を行う。これを意識的知覚とも称ぶ。このある種の貧しさには、精神を告知するもの、「分別」がある。(50頁)
 
 

⑥情感

 
生体の身体イマージュ内における運動を、意識がとらえる際、それは感覚情感と称ばれる。
生体の外部のイマージュとの接触である知覚とは質的に異なるとされる。
知覚に混入し、その本性を誤解させる為、純粋な知覚を理解する上では、これを取り除いて考えねばならない。
なお、表皮は外界と身体との境界であり、そのどちらでもある。
 
 

⑦観念論と実在論

 
知覚の本性の誤解、およびイマージュ(実在)の誤解から、二つの理論系‐観念論と実在論が構成される。
観念論および実在論は、双方ともに、知覚を主体の機能として対象の性質を奪うものとし、そこから対象世界(物質世界)を(意識上で)再構成する=それこそがわれわれの認識する眼前の世界である、とする。また、主体(生体)を認識と表象の器官とし、真の実在は高度な思弁的推論によって脱事象的に定立される、という点で一致している。
だが①の観点を思うならば、純粋知覚における直接的直観がすでに直に対象(イマージュ)に触れていることがわかり、上記の理論の説得性はなくなるといえる。本書における課題は、精神が生体の記憶(力)の検討によって、いかなる実在を有しているかという二章以降の分析である。
 
 

所感

 
生体の目的を、行為の器官であるとした点より、知覚と記憶の本性は解明され、われわれ現存在の個人的な体験の生体論理的基盤が明瞭になる。
本書ぜんたいの構成は、序(第七版)にもあるとおり、物質と精神双方の実在を肯定的に概念づけることであるが、そのユニークなアプローチは、脱自的に主体の権利、イマージュ(実在)の権利を恢復させるようにも思われる。
本来的には、観念論も実在論も主体の権利の減耗させる傾向があるのだろう。
観念論においては「理性」が、実在論においては「物理法則」が、それぞれ生体の生の構造、営みを原理づけており、その論点では(内部から、外部から感じられる)自由性ある「意志」の在処を感じることが難しい。
尤も、意志とはそもそも何なのだろうか。率直にいえば、本章の意図から推論できる仮説としては、意志とはまさにこの稼働する身体であるような気がする。また翻せば、振動する物体(イマージュ)にもまた生命(意志)があるようにも見られる。
思うに、じっさい生命の稼働性は、私の意見と直截には関係がなく作動する。私の意思をもって私の身体を止める為にはなんらかの手段でその機巧を、その機能を破壊するしかない。私の認識や意識は、それそのものでは現実的作用にはならない。非観照的な暴力の権能が必要なのだ。
イマージュによる現実性そのものが、またこの視点を肯定する。
生きられる生体そのものにおいては、対象の実在正否は問題にならない。同時にそれは、はっきり自然な傾向であり、われわれの表象活動の基盤を為している日常的な生命の言語活動なのだ。そうした日常(常識)に頼ってわれわれの表象言語系は動作している訳だが、観念論・実在論はそれと気づかずに、それに背を向けている格好になるのだ。
本文で著者が自身の立場が「常識的」であると強調する背景には、このような関心・諫めの思いがあると見積もってよいだろう。

以上 これらの所感には、本章内容からの少なからぬ逸脱、個人的興味における連想があるゆえに、率直に本文の内容を検討するなら、大方は取り除いて考えねばならない。
たほうまた、本書がとらえている思想を、他の思想体系と比較して、より一層多義的に検討していくには、まだまだ十分な連想・考察、勉強が足りていないのも明白だ。二章以降についても同様である(文章にこそ熾っていないが)。ここが一旦、筆の置きどころであると思われる。今はまだ、私の実力では本稿以上のことをすることはできない。
そもそも生に対する思弁は、なにをあてにして成り立っているのか。われわれの生を肯定することは、たんに表象として、観念としてそれを解明したり、称揚したりすることに終始するべきなのだろうか。
現実的力とは、われわれが上述したようか生のありかた(生体の機能)を観念として取り扱いつつ、たほう参与するという点を欠けさせているならば、決して成就することはないだろう。本質的に空虚であることは、言動そのものではなく、生そのものとの乖離である。
本書の思想には純粋に思弁的推論であるというより、場合によってはかなりアクロバットな視点を採用し、見えなかった現実の相を読者に見せる独創的な発明力を感じる。仮説と思弁が適宜緊張感をもって展開されるのだ。
たほうで、個人的感想だが、本章の記述は非常に読みにくい(それは翻訳の都合というより、原文にもあるのではないかと思われる)。
なぜ本稿のようなノートをつくろうと思ったか。それは元の文章が読みにくく、流れ読みでは意味をうまく読み取れなかったからである。追究は、そうしたひっかかりによって、なんとか納得をえる機会を作りたかったゆえに始まったと、今更ながら告白したい。
このように、こうして稚拙だが断続的な追及を通してベルクソンの姿勢の一端が知れて、私は満足ができた。
本稿を目に触れる方にも、彼の著書に触れ、何か刺激を得てもらえれば幸いである(本稿を読む方がいらっしゃれば、という話だが)。
 
 
謝辞
原著の著者 アンリ・ベルクソン、ならびに翻訳者 杉山直樹氏に感謝申し上げます。
また不特定多数のベルクソン哲学研究者の方々にも合わせて感謝申し上げます。
 
 


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